ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

戦争映画のラブシーンと算盤勘定

2011-01-15 | 映画

「いかにも戦争映画」の一シーンをお絵かきしてみました。
テレビドラマだったので当然わたしは観ておりませんが、
「井上成美」を描いたものだそうです。
画像はお見合いのシーンだそうで、成美は中井喜一、奥さんは鈴木京香が演じたとか。
観たかったな。


戦争映画に女性が出てくる場合。
もっとも穏便なのは「母親」「老人」「看護婦」です。

女っ気皆無の「雷撃隊出動」には、三人女性が出てきます。
一人は病室の遠景に見える看護婦。顔すら映らず。
一人は現地で日本人相手に食堂をしている婆さん。
そして、魚雷調整をする下士官の阿久根兵曹長の母親。
それも慰問映画に偶然映っていた母親を阿久根兵曹長が見つけるというもので、出演すらしていません。
この映画は戦時中のものなので、極力女っ気を排している様子が覗えます。


戦後になって、反戦を盛り込むのがお約束になった戦争映画には、女性との関係を描くことで
戦争の過酷さとの対比をはかるという表現が増えてきました。

「大空のサムライ」については何度か糾弾しているので、もういい、という声も(自分の中で)ありますが、
この非常に(私的には)評判の悪いラブシーンについて、もう一度説明しておくと、

自分のミスで上官を死なせてしまった野村二飛曹。
かれは実在した本田二飛曹の戦友、という設定です。
本田二飛曹戦死後、なぜか都合良くラバウルの病院に従軍看護婦として勤めている
その姉幸子(大谷直子)が隊に現れます。
坂井は落ち込んでいる二飛曹をなぜか幸子の務める病院に向かわせます。
幸子が坂井からことづかった手紙には「彼を慰めてやってくれ」
という、信じられない内容が!

それを読み、遠慮する野村に手紙の内容は告げず海岸に連れ出す幸子。
何を企んでいるんだ幸子。


海岸で幸子の独白が始まります。

死んでいく兵隊さんに頼まれて身体を抱いていてあげたのだが、哀しかった。
初めて触れた男の人は死んで行く人だったのだから・・。
「でも生きる張り合いになるならいいわ」


つまり、愛はないけど、私を好きにしてちょうだい、てことですか?
それは露骨すぎますか?

とにかくこの一言で二人のラブシーンが始まってしまう。

前にも「何故にっ?」と叫んだ話をしましたが、何度ここを解釈しようとしても分からないのです。
衝動的に幸子を抱き寄せた野村は、慌てて自制し、彼女を置いて去るのですが、
このとき幸子が
「何故に?」って顔するんですよね。


非常に下世話な話をしますが・・・・彼女のような「慰め方」が必要なら、
ラバウルには慰安所というものがあってだな。
別に「ホワイト」さんのお世話にならずとも・・・。
こんな刹那的な慰めを本田の姉に強要?する坂井さんというのにもかなり無理があります。

しかも、今手元に資料がないので断言はしませんが、本田二飛曹には実際お姉さんだか妹がいて、
看護婦さんだった、とどこかで読んだ気がします。

本当なら酷過ぎる創作じゃありませんか。

実は、このシーンについて、脚本家の須崎勝彌氏は、かなり坂井さんと
「ちゃんちゃんばらばらした」ということをご本人が語っています。
勿論この部分だけでなく、とくに空戦シーンは、ベテランパイロットであった坂井氏にとって、
言わば臨時雇いでちょこっと飛行機に乗っただけの須崎氏が書くシナリオというだけでも
かなり不満があったということらしいのですが。

しかし、この唐突なラブシーン(勿論創作ですが)商業映画として「マーケット」戦略上、
どうしても女性をこういう形で出演させる必要があった、とご本人は言うのです。
女性を呼ぶにはラブシーンが必要なのだ、と須崎氏は信じて疑わず、
坂井さんの意向に逆らってでもこのシーンを入れたのだと。

「さらばラバウル」のような、プラトニックな愛の形が、この時代にはもしかしたら
「うけない」と判断されたのかもしれませんが、好みの問題を別にしても、いただけない。



「トラ!トラ!トラ!」には女性が出てきません。
この映画の日本での興行収入はいかがなものだったのでしょうか。
ラブシーンを入れても入れなくてもおそらく動員数はあまり変わらなかったような気がするのですが。
だとしたら歳月を経て評価に耐えうるものになったという意味で、大局的には
その選択が正解だったということなのではないでしょうか。


近年の戦争映画は、もうはっきり「戦争」そのものでなく、戦争という媒体で人間ドラマを描く
という手法になっていますから、むしろ女性とのかかわりがドラマの要だったりします。
最初からちゃんと伏線が引かれ、たとえば「男たちの大和」では幼なじみ、なじみの芸者、
母との関係が過不足なく語られます。


それが戦争映画にしては比重が高すぎ、と個人的にいつも思います。


明らかに「客寄せ」のために書かれたラブシーン。
本当に必要かどうかということと「集客」を秤にかけた結果、後者を選択すると言うのは、
簡単に言えば、芸術より商売を優先したということになるのでしょう。



2001年東京映画制作の「ムルデカ 17805」という映画について少し触れました。
インドネシア義勇軍に加わった旧日本兵の戦いを描いた映画です。

ポツダム宣言受諾後も帰国せず、インドネシアに残って旧宗主国オランダと独立戦争を戦い
インドネシアに独立をもたらした旧日本兵は約2000人。
インドネシア人を愛し、義勇軍を率い、彼らに尊敬された日本人のことが、
この映画によって人々に知られることになりました。
まさに掘り起こされた歴史となったのです。


しかし、この映画は商業ベースには全く乗らず、制作会社は多額の借金を抱えて
遂には活動停止の憂き目に遭いました。
しかも反日映画「靖國」を激賞した「映画の自由と真実ネット」という団体からは
「偽りの歴史を教え込む邪悪なたくらみを持つ映画」
と糾弾されるというおまけつきでした。


このような思い切った歴史解釈の映画は、決して商売優先の算盤勘定からは生まれないでしょう。
「ムルデカ」(インドネシア語で独立)の制作者が「玉砕」覚悟で生み出したものがあるように、
戦争映画に限らず、そのときの時流や採算に逆らってでも信念を貫いたものにこそ
後年の評価は耐えうるものだと思うのですが・・。



これは所詮「それで録を食んでいない者の理想論」なのでしょうか。