戦後の各国の戦争映画について次のような話を聞いたことがあります。
アメリカ映画・・・・ヒーローたちが困難を乗り越え作戦にあたり成功させる
イギリス映画・・・・まるで記録映画のように淡々と事実が展開
ドイツ映画・・・・・ナチスの中に真実に目覚める男がいて反逆を企てる
日本映画・・・・・・ひたすら戦争は悲惨だと訴える
中国映画・・・・・・ひたすら日本人が悪いと訴える
フランス映画・・・・ドイツ兵とフランス娘の間の許されざる恋
イタリア映画・・・・戦時下の子供と老人のふれあい
インド映画・・・・・敵味方いきなりみんなで歌って踊りだす
すみません、日本から後半は今自分で作りました。
もちろん、英米合作の「遠すぎた橋」のように、イギリスにアメリカが完璧に力で押された結果
ハリウッドが絡んでいながら「大記録映画」(おまけに負けいくさ)になってしまったものもあるにはありますが、
後半はともかくこの傾向はほぼ正しいように思えます。
そして、この中で最言い得て妙ともいえるのが日本映画ではないでしょうか。
ある方面からの突き上げと非難、というとんでもない伏兵が日本の戦争映画製作にはつきまとうようで、
前にも書きましたが「男たちの大和」にクレーム続出だったらしいのですが、
あらゆる戦争映画というものの中で、はっきりいってあの映画ほど女々しい、反戦的な、見ようによっては
戦闘員の士気というものにを全く触れようとしない戦争映画は他にないのではないか、と思えるくらいです。
ここで「男たちの大和」の悪口を言いますが、ファンの方お許しを。
前にこの映画について少し書きましたが、臼淵巌大尉が
「死に方用意」といって、泣いてもいい、叫んでもいい、と兵たちに許しを与え、
みんなが「おかあさーん」とか「さようならー」とか言いながらおいおい泣く場面があります。
・・・・これ事実ですか?
死ニ方用意、は「戦艦大和の最後」に見られる生存者の聞いた臼淵大尉の言葉なのですが、
それはガンルーム士官に対して言われたとのこと。
兵たちにもそう言ったというのはおそらく創作でしょうが、それにしても、ここは感情過多でうんざりする場面です。
前置きが長くなりましたが、今日の映画
「雷撃隊出動」
については何度か書いてきました。
敗戦色が濃くなってきた昭和19年の末、「特攻」という言葉が新聞に躍るようになってきた頃です。
同じころのアメリカの戦意発揚映画
「東京上空三〇秒」
には、明らかに戦争の不条理を描きながらも、
「でも向こうが仕掛けてきた戦争には勝たないといけないから、蒋介石の応援を受けて、
悪いジャップをできるだけ早いことやっつけるために、俺たちこういうことしてるんだよ」
という説明になっているのですが、
それでは、この「日本の戦中映画」はどうか。
驚くなかれ、日本に物資がなく、連戦連敗で、もう残るは命と引き換えに敵を屠(ほふ)るしか手がない、
という日本軍の実情を、この映画は全く隠していないのです。
そして、実に日本人らしい抑制のきいた表現の一つ一つに、どこまで計算されたものかはわかりませんが、
拭いようもない戦争の不条理を訴えており、
「戦うしかない、しかし、今となっては死するしかない」
という悲壮感が、淡々とした会話の中から伝わってきて引き込まれます。
「この戦争は負ける」ということは、たとえばインテリ層の間だけで囁かれていた、という記述をよく見ます。
一般の民衆はマスコミと大本営の発表に騙されて勝っていると信じていたと。
しかし、海軍省の検閲も通っているこの映画を観ると、
実際の戦況と人々の認識の間に大きな乖離があるようにはとても思えないのです。
何よりも、物資の不足や身近な人々が死んでいくなど、報道はどうあれ戦況の不利は肌で感じたでしょう。
民衆はそれほど馬鹿ではないのかもしれません。
そして、この映画の製作開始に遡ること約半年、いわゆる「竹槍事件」が起きています。
この竹槍事件については、何回にも分けて述べるつもりですが、この言論弾圧事件で海軍は
「海軍に飛行機が足りない」という隠匿されていた事実を命をかけて暴露した新聞記者を救おうとしています。
この映画でメインテーマとなっている
「飛行機が足りない」
は、明らかに竹槍事件で「全海軍がこの言論に喝さいした」ということを表わしており、
陸軍が懲罰召集をかけた記者の言論を堂々と後押しする形で映画の題材にしているのです。
ちなみに件の新名記者が、陸軍の召集を解かれ海軍附きになっていたころです。
海軍のこの映画の制作目的は
「竹槍事件における一連の陸軍の行為に対する抗議」
だったと思っているのですが、どうでしょう。
反論受け付けます。
さて、前にも書きましたが、この主人公は母艦の艦攻乗り村上、飛行参謀川上、そして外地の陸攻機隊長三上、三人そろって「雷撃の神様、三カミ」と言われる少佐。
勿論、これは私が言ってるんじゃなくて映画でそう言ってるんですよ。
「打撃の神様」「神様、稲尾様」「漫画の神様」「ゼロファイターゴッド」
卓越した技術を持つ「達人」を日本人は「神様」と称します。
本人が生きているときから「神様」と呼ばれることも多々あり、
これもそういったエピソードとして作られているわけですね。
さて、戦地に飛行機がないので川上は東京に交渉に行くのですが、失敗し帰ってきます。
戦局の悪化を誰より嘆く熱血漢の村上は、思いつめているようです。
基地陸攻の隊長である三上は悠揚迫らざる大人物で、司令のまえでも居眠りできる男。
自分の機が爆撃でやられてしまっても
「そうなんだよ」
とあっさり答えるので村上を憤慨させたりします。
血気にはやる村上は出撃で自分の命と引き換えに敵を屠る決意を固めており、三上は
「貴様、早まるなよ」
と諭すのですが、敵大編隊を補足し、基地飛行隊を率いて村上らの空母艦隊とともに出撃。
村上に早まるなと言った三上自身の陸攻機は被弾。
雷撃を成功させた後自爆します。
村上は機上被弾し、母艦着艦後戦死。
基地司令(大河内傅次郎)とともに彼らの戦死の報に接する川上は、亡き級友を思いながら
村上の遺していった日の丸のついたシガレットケースから煙草を取り出して吸うのでした。
演出も、演技も、一切ぎりぎりまで「節約」されている感があります。
士官同士の会話は、映画調でも芝居がかってもいず、
むしろドキュメンタリーのようにときどき噛んだりするセリフが妙にリアルです。
小津監督の映画のように襖をあけるシーンが気に入らなくて何カットも撮り直し、
などということは物資の不足を考えてもなかったはずで、製作期間もわずか二ケ月。
おそらく、芝居の部分はほとんどワンテイクだったのではないかと思われるほどです。
しかし、本物そっくり、と思いきや海軍の協力により惜しげもなく実機の映写が挿まれているので、
決してチープな作りではありません。
野球をしたり、ポーカーをしたり、空戦を皆で見物する基地の生活の様子も挿まれ、
実際の戦地の様子を垣間見ているような気分にすらなります。
そして、その控えめなリアリティゆえに意図しないところでまるで「反戦映画」のようになっているのです。
海軍制作、反戦映画の名作、と勝手に位置付けてしまいます。
帝大出で短歌の歌人だという主計長が防空壕で
「日本人の優秀さは千年に一度の国家の危機尋常ならざる時に出てくる。
たとえば万葉集の防人の歌や吉野朝の忠臣の歌に表れるように。
雷撃精神とはそのものではないのか」
と、文学的な日本人論をぶちますが、これも士気が上がるという感じのアジテーションではありません。
この映画のどこが素晴らしいと言って、この三上が率いる一式陸攻の最後です。
果敢に攻撃中敵艦の高角砲に被弾。後ろの電信員らが「ダメです」という風に手を振ります。
三上はそれを聞き、最後の雷撃を成功させるために操縦員の間に立ち、雷跡を見極め
「用意・・・・撃て―っ」
雷撃が成功し、破顔一笑、手を叩きあう後ろの隊員。
次の瞬間三上はただ一言。
「自爆!」
本日画像は、陸攻の機内でそれを言うとき、一瞬対空砲火の曳光弾に照らされる三上の表情。
それを聞き、後ろの搭乗員は黙って鉢巻を締め直し、拳銃を取り出します。
表情も変えず、操縦員と交代し操縦桿を握る三上。
あの戦争で、数知れず実在したのであろうこのような瞬間。
それが、何の演出もなく、涙も、万歳も、さよならも、何もなく、
ただ宿命を受け入れるかのように泰然と無言のうちに。
誰も知るよしのない搭乗員たちの最後は、こうであったのかもしれない。
そう思わずにはいられません。
そして「男たちの大和」の号泣シーンでは決して泣けないわたしが、この最後には必ず涙するのです。
アメリカ映画・・・・ヒーローたちが困難を乗り越え作戦にあたり成功させる
イギリス映画・・・・まるで記録映画のように淡々と事実が展開
ドイツ映画・・・・・ナチスの中に真実に目覚める男がいて反逆を企てる
日本映画・・・・・・ひたすら戦争は悲惨だと訴える
中国映画・・・・・・ひたすら日本人が悪いと訴える
フランス映画・・・・ドイツ兵とフランス娘の間の許されざる恋
イタリア映画・・・・戦時下の子供と老人のふれあい
インド映画・・・・・敵味方いきなりみんなで歌って踊りだす
すみません、日本から後半は今自分で作りました。
もちろん、英米合作の「遠すぎた橋」のように、イギリスにアメリカが完璧に力で押された結果
ハリウッドが絡んでいながら「大記録映画」(おまけに負けいくさ)になってしまったものもあるにはありますが、
後半はともかくこの傾向はほぼ正しいように思えます。
そして、この中で最言い得て妙ともいえるのが日本映画ではないでしょうか。
ある方面からの突き上げと非難、というとんでもない伏兵が日本の戦争映画製作にはつきまとうようで、
前にも書きましたが「男たちの大和」にクレーム続出だったらしいのですが、
あらゆる戦争映画というものの中で、はっきりいってあの映画ほど女々しい、反戦的な、見ようによっては
戦闘員の士気というものにを全く触れようとしない戦争映画は他にないのではないか、と思えるくらいです。
ここで「男たちの大和」の悪口を言いますが、ファンの方お許しを。
前にこの映画について少し書きましたが、臼淵巌大尉が
「死に方用意」といって、泣いてもいい、叫んでもいい、と兵たちに許しを与え、
みんなが「おかあさーん」とか「さようならー」とか言いながらおいおい泣く場面があります。
・・・・これ事実ですか?
死ニ方用意、は「戦艦大和の最後」に見られる生存者の聞いた臼淵大尉の言葉なのですが、
それはガンルーム士官に対して言われたとのこと。
兵たちにもそう言ったというのはおそらく創作でしょうが、それにしても、ここは感情過多でうんざりする場面です。
前置きが長くなりましたが、今日の映画
「雷撃隊出動」
については何度か書いてきました。
敗戦色が濃くなってきた昭和19年の末、「特攻」という言葉が新聞に躍るようになってきた頃です。
同じころのアメリカの戦意発揚映画
「東京上空三〇秒」
には、明らかに戦争の不条理を描きながらも、
「でも向こうが仕掛けてきた戦争には勝たないといけないから、蒋介石の応援を受けて、
悪いジャップをできるだけ早いことやっつけるために、俺たちこういうことしてるんだよ」
という説明になっているのですが、
それでは、この「日本の戦中映画」はどうか。
驚くなかれ、日本に物資がなく、連戦連敗で、もう残るは命と引き換えに敵を屠(ほふ)るしか手がない、
という日本軍の実情を、この映画は全く隠していないのです。
そして、実に日本人らしい抑制のきいた表現の一つ一つに、どこまで計算されたものかはわかりませんが、
拭いようもない戦争の不条理を訴えており、
「戦うしかない、しかし、今となっては死するしかない」
という悲壮感が、淡々とした会話の中から伝わってきて引き込まれます。
「この戦争は負ける」ということは、たとえばインテリ層の間だけで囁かれていた、という記述をよく見ます。
一般の民衆はマスコミと大本営の発表に騙されて勝っていると信じていたと。
しかし、海軍省の検閲も通っているこの映画を観ると、
実際の戦況と人々の認識の間に大きな乖離があるようにはとても思えないのです。
何よりも、物資の不足や身近な人々が死んでいくなど、報道はどうあれ戦況の不利は肌で感じたでしょう。
民衆はそれほど馬鹿ではないのかもしれません。
そして、この映画の製作開始に遡ること約半年、いわゆる「竹槍事件」が起きています。
この竹槍事件については、何回にも分けて述べるつもりですが、この言論弾圧事件で海軍は
「海軍に飛行機が足りない」という隠匿されていた事実を命をかけて暴露した新聞記者を救おうとしています。
この映画でメインテーマとなっている
「飛行機が足りない」
は、明らかに竹槍事件で「全海軍がこの言論に喝さいした」ということを表わしており、
陸軍が懲罰召集をかけた記者の言論を堂々と後押しする形で映画の題材にしているのです。
ちなみに件の新名記者が、陸軍の召集を解かれ海軍附きになっていたころです。
海軍のこの映画の制作目的は
「竹槍事件における一連の陸軍の行為に対する抗議」
だったと思っているのですが、どうでしょう。
反論受け付けます。
さて、前にも書きましたが、この主人公は母艦の艦攻乗り村上、飛行参謀川上、そして外地の陸攻機隊長三上、三人そろって「雷撃の神様、三カミ」と言われる少佐。
勿論、これは私が言ってるんじゃなくて映画でそう言ってるんですよ。
「打撃の神様」「神様、稲尾様」「漫画の神様」「ゼロファイターゴッド」
卓越した技術を持つ「達人」を日本人は「神様」と称します。
本人が生きているときから「神様」と呼ばれることも多々あり、
これもそういったエピソードとして作られているわけですね。
さて、戦地に飛行機がないので川上は東京に交渉に行くのですが、失敗し帰ってきます。
戦局の悪化を誰より嘆く熱血漢の村上は、思いつめているようです。
基地陸攻の隊長である三上は悠揚迫らざる大人物で、司令のまえでも居眠りできる男。
自分の機が爆撃でやられてしまっても
「そうなんだよ」
とあっさり答えるので村上を憤慨させたりします。
血気にはやる村上は出撃で自分の命と引き換えに敵を屠る決意を固めており、三上は
「貴様、早まるなよ」
と諭すのですが、敵大編隊を補足し、基地飛行隊を率いて村上らの空母艦隊とともに出撃。
村上に早まるなと言った三上自身の陸攻機は被弾。
雷撃を成功させた後自爆します。
村上は機上被弾し、母艦着艦後戦死。
基地司令(大河内傅次郎)とともに彼らの戦死の報に接する川上は、亡き級友を思いながら
村上の遺していった日の丸のついたシガレットケースから煙草を取り出して吸うのでした。
演出も、演技も、一切ぎりぎりまで「節約」されている感があります。
士官同士の会話は、映画調でも芝居がかってもいず、
むしろドキュメンタリーのようにときどき噛んだりするセリフが妙にリアルです。
小津監督の映画のように襖をあけるシーンが気に入らなくて何カットも撮り直し、
などということは物資の不足を考えてもなかったはずで、製作期間もわずか二ケ月。
おそらく、芝居の部分はほとんどワンテイクだったのではないかと思われるほどです。
しかし、本物そっくり、と思いきや海軍の協力により惜しげもなく実機の映写が挿まれているので、
決してチープな作りではありません。
野球をしたり、ポーカーをしたり、空戦を皆で見物する基地の生活の様子も挿まれ、
実際の戦地の様子を垣間見ているような気分にすらなります。
そして、その控えめなリアリティゆえに意図しないところでまるで「反戦映画」のようになっているのです。
海軍制作、反戦映画の名作、と勝手に位置付けてしまいます。
帝大出で短歌の歌人だという主計長が防空壕で
「日本人の優秀さは千年に一度の国家の危機尋常ならざる時に出てくる。
たとえば万葉集の防人の歌や吉野朝の忠臣の歌に表れるように。
雷撃精神とはそのものではないのか」
と、文学的な日本人論をぶちますが、これも士気が上がるという感じのアジテーションではありません。
この映画のどこが素晴らしいと言って、この三上が率いる一式陸攻の最後です。
果敢に攻撃中敵艦の高角砲に被弾。後ろの電信員らが「ダメです」という風に手を振ります。
三上はそれを聞き、最後の雷撃を成功させるために操縦員の間に立ち、雷跡を見極め
「用意・・・・撃て―っ」
雷撃が成功し、破顔一笑、手を叩きあう後ろの隊員。
次の瞬間三上はただ一言。
「自爆!」
本日画像は、陸攻の機内でそれを言うとき、一瞬対空砲火の曳光弾に照らされる三上の表情。
それを聞き、後ろの搭乗員は黙って鉢巻を締め直し、拳銃を取り出します。
表情も変えず、操縦員と交代し操縦桿を握る三上。
あの戦争で、数知れず実在したのであろうこのような瞬間。
それが、何の演出もなく、涙も、万歳も、さよならも、何もなく、
ただ宿命を受け入れるかのように泰然と無言のうちに。
誰も知るよしのない搭乗員たちの最後は、こうであったのかもしれない。
そう思わずにはいられません。
そして「男たちの大和」の号泣シーンでは決して泣けないわたしが、この最後には必ず涙するのです。