同期の桜
同じ戦死でも、たとえば関行男大尉や真珠湾の特殊潜航艇で散華した横山正治、古野繁實中尉、
あるいはやはり二階級特進であった笹井中尉の葬儀の際は、
その戦功と武勲を讃える相当の計らいがあり、たとえば海軍大臣が弔問に来るといった、
いわば「花道」がありました。
しかし、海軍に奉職し覚悟の上とはいえ、同じ命を捧げるのでも
「普通の戦死」「殉職」では遺族にとっては「割り切れない」思いが残されたようです。
ましてや軍人として戦うことなく病死してしまった場合、家族はいたたまれない気持であったと思われます。
本日画像に挙げたのは宮島巌大尉。
海軍兵学校67期卒で、終戦時は洲崎海軍航空隊の分隊長兼教官でした。
終戦の次の年、昭和21年の12月4日に肺結核で命を閉じました。
この宮島大尉の卒業した67期生徒のうち、なんと17名もが病死しています。
そのほとんどが当時死病であった結核でした。
この宮島大尉は兵学校卒業後すぐ肋膜炎を患い、退院後艦隊勤務(赤城、山城)を経て
航空科特修生として訓練後主に教官職に携わっていたようですが、
その肋膜炎から来たと思われる結核でわずか二十八年の生涯を終えています。
この宮島大尉の兵学校での親友が上村貞蔵大尉でした。
二人は同じ信州の中学から海兵合格を果たし、一緒に江田島に行った仲ですが、
上村氏言うところの「奇妙な因縁」で結ばれていました。
上村生徒が一号になり、慢性胃炎を患い入院したとき、この宮島生徒も慢性気管支炎で入院していたのです。
どちらも慢性病で入院も長きに渡ったのですが、こんなこともありました。
仲よしの二人が同じベッドに入って寝ていると、看護長が来て
「そんなことをしてはいかん」とブリブリ小言を言います。
「男と女ならともかく、男の友達同士が一緒にいたからといって、おかしなことを言う看護長だ」
と二人は言いあったということです。
「今ならその怒られた理由もほぼ想像がつくのだが」
とは戦後の上村氏の言―。
さて、この後卒業し、遠洋航海が始まるのですが、宮島候補生は最初から病院へ。
上村候補生は途中で艦を下ろされ、横須賀病院に入院すると、またもや同室で級友と再会。
どういうわけか、この二人は常に同じ配置になり、横須賀海兵団、館山の城山砲台、航空兵器の特修科学生、
洲の崎航空隊の教官、常に同室か隣りの部屋で遭遇したそうです。
もうこうなると二人は夫婦のようなもので、何もかも知りつくし理解し尽くすことのできる仲、
財布の中身までお互い精通していて
「貴様は無かろう。俺は少しあるからひとつレスへ行こうじゃないか」
などと言いあうほどになっていました。
そのころ、上村中尉は特攻の意見具申をしています。
特攻を志願してから「レス交じりに磨きがかかっていた」ある夜、
近頃こんな歌が、と宮島中尉が「同期の桜」を教えてくれました。
この「同期の桜」は、元々は西條八十の「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で、昭和13年発表されたものに、
後に回天の第一期搭乗員となる帖佐裕海軍大尉が海軍兵学校在学中に替え歌にしたと言われており
(同じく潜水艦乗員であった槇(旧姓岡村)幸兵曹長説もある)
終戦末期に兵学校の教官を中心に歌われ広まったと言われます。
宮島大尉は教官であったためその曲を誰かに聞いたものでしょう。
その夜士官室のベランダで、月を眺めながら涙を流しつついつまでも二人はその歌を歌い続けました。
そして敗戦。
特攻に行くことなく終戦を迎えた上村氏が戦後の生活に追われていたある日。
「巌が上村さんに逢いたがっています」
という宮島大尉のお母さんからの連絡を受け、自宅に見舞いました。
「こんなに痩せてしまったよ」
と寂しげに笑いながらも、その夜上村大尉を引き留め、二人は語り明かします。
翌早朝、家人のただならぬ声に起こされました。
その朝友の手を握りながら宮島巌大尉は永遠の眠りについたのです。
「上村さんが来るまで死ねなかったのだね」
家族は誰に言うともなくこのようにつぶやきました。
「血肉分けたる仲ではないがなぜか気が合うて離れられぬ」
まるで自分の分身のようであった盟友が突然いなくなったことを夢か現か判じかねるまま、
上村氏は埋葬のあと、宮島大尉に教わった歌を唄いました。
初めて唄ったあの日のようにとめどなく涙を流しながら。