今のように電気による通信手段がなかった頃のフネ同士の連絡は、主に手旗で行われました。
そして、海上の艦船と視覚信号で交信連絡をし、必要に応じて大本営、海軍省、各鎮守府に
有線通信で知らせるポイントが全国各地の島や岬に作られました。
これを望楼といいます。
1894(明治27)年、 勅令第七十七号として「海岸望楼条例」が公布。
当時、日清戦争直前であり、全国海岸の要所に望楼を設置し、沿岸監視態勢がとられました。
そこでは、陸上と艦船との信号、海上監視、気象観測などが行われました。
1900年に海岸望楼は「海軍望楼」と名称を正式に変更します。
現在、史跡として観ることのできる望楼跡で有名なものは、稚内にある宗谷岬の望楼です。
当時、ロシア海軍は太平洋艦隊(旅順艦隊・ウラジオストック艦隊)、バルト海艦隊(バルチック艦隊)、
黒海艦隊に分散しており、開戦した場合バルチック艦隊が太平洋艦隊に合流するものと予想されていました。
いずれ対戦するロシア海軍の動きを監視するために1902年この地に設営されたものです。
さて。
本日タイトルの都留艦長とは、あの『伝説の男』都留艦長。
都留艦長が手旗を振っているわけではないので、勿論都留艦長がこのように通信するようにと
手旗信号員にやらせているわけです。
下関西方の六連島に望楼がありました。
ある日、しれっとして通り過ぎる観たことも無いフネ。
「ナニブネナリヤ」(船の名は?)
するとたまげたことに
「当ててごらん」
ときた。
望楼員たちは呆れながらみんなで相談の末
「オンドナリヤ」(隠戸ですか?)
すると
「よく当てたその通り」
このフネはあの名物艦長都留雄三大佐のフネ、特務艦隠戸でした。
このときオランダ領インド(インドネシア)のタラカンから原油を積んで帰ってきたところだったそうです。
このあと、
「イズコヘ」
とチャーリー浜のような問いかけをする望楼員に
「ワレハイクナリトクヤマヘ・ハイゴメン」
と答えて隠戸は去っていったというおまけが付くのですが、どうもこのオチは余計な気がするので、
(というか、どうもここは後に付け足された伝説のようです)マンガではボツにしました。
それにしても、無線が発達する前の原始的な通信方法ならではの呑気なエピソードです。
もちろん、こんな風に手旗手に通信させる艦長は都留大佐くらいでしたでしょうが。
海軍望楼は無線通信の発達によって次々と廃止され、大正12年には全廃になりました。
これは、望楼が廃止される直前の、古き良き時代の海軍のお話です。