大阪のJR環状線に大阪城公園駅(大阪市中央区)があります。
この駅は昭和58年(1983年)にできた新しい駅で、この駅の傍には大阪ビジネスパーク(OBP)という高層ビル群が建ち並んでいます。
このOBPと大阪城公園、それに駅の東側にひろがる大阪市交通局などの施設群をあわせた広大な土地には、戦前まで大阪砲兵工廠(おおさかほうへいこうしょう)の工場群がびっしりと建ちならんでいました。
周囲の民有地も借り受け、終戦直前の最盛期には6万4000人が働いていたといわれ、東洋一の規模を誇っていたそうです。
ところが、終戦前日の昭和20年8月14日、アメリカのB29爆撃機約150機が飛来し、1トン爆弾約700トンが投下されて、砲兵工廠をは徹底的に破壊されました。
近くの京橋駅も被害を受け、多数の犠牲者が出たことから、「京橋駅空襲」とも呼ばれています。
・ピンクの区域が大阪砲兵工廠のあった場所です。(ウィキペディアより)
戦後、砲兵工廠(ほうへいこうしょう)は廃墟のまま残され、鉄や銅など大量の金属類のカタマリやクズが散乱したまま放置されました。
これを狙って泥棒を繰り返したのが在日朝鮮人グループです。
彼等は「アパッチ族」と呼ばれ、日夜犯罪を繰り返していました。
アパッチとは、アメリカのニューメキシコ州、アリゾナ州に住むアサバスカン語族に属する言語を話すアメリカインディアンの一部族のことで、人口は約1万と推定されています。東部アパッチは特に機動力と武勇とで知られていたようです。
これに対し日本のアパッチ族は終戦直後の大阪砲兵工廠跡に出没した在日朝鮮人たちによるくず鉄泥棒のことで、彼等についてはよほど作家的な興味がそそられるのか、開高健が『日本三文オペラ』、小松左京が『日本アパッチ族』、梁石日(ヤンソギル)が『夜を賭けて』という作品をそれぞれ書いています。
日本のアパッチ族にはさまざまなグループがあったようで、各グループは夜になると「ほな笑いにいこか」と言いながら出発したということです。
因みに「笑う」とはドロボウの隠語です。
彼等は当時、環状線とほぼ並行して流れていた猫間川を粗末な船で渡ったり、弁天橋にあった守衛小屋のまえを強行突破したりして跡地に入り込み、それぞれが手鉤(てかぎ:鳶口)や金ノコ、ロープ、シャベル、ハンマー、チェーンブロックなどを持ち、火事場のナントカのような力を発揮し、巨大な鉄塊などを盗んだそうです。
もちろん警察官ともたびたび衝突したということです。
警察官を見つけたら仲間に合図を送りましたが、その時の合図の声が「ヒョウヒョウ」とか「ヒャアヒャア」というふうに聞こえたといいます。
『日本三文オペラ』によると、この合図の声や警察官をまく機敏な動きなどから、取材に来た新聞記者が「アパッチ族」と命名したということです。