三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

北海道建築の歴史

2008年05月23日 07時49分09秒 | 歴史探訪

表題のようなことをさらっと考えながら、
しなければならない仕事にいま、かかわっております。
で、いろいろ、写真を整理したりしている中から
北海道開拓の村に再建されているこの旧・北海道開拓使庁舎が出てきました。
今現在、北海道庁として赤煉瓦庁舎になる以前の建物。
明治の初年、それまで東北津軽が最北端だった日本の概念が
北海道地域まで拡大したとき、
それまでの日本とは違う、脱亜入欧の理念で開拓に当たった。
こういうデザインは、明治期の指導層が長期にわたって欧米を
視察し、一刻も早く列強並みの国家にしたいという思いから選択したものでしょう。
いま、見返してみれば、日本的な部分は一切顧慮せず、
早急に追いつかねばならないという必死さが伝わってきます。

古代の日本国家成立時期も、
中国に強大な世界最強国家が成立したことで、
その文化体系まるごとを移植して、権力機構から法体系まで
全部、コピーしたそうですから、
こういうことには歴史的な経験値が高いというのが日本人なのか。
こうした明治期の建築って、全国的にも数多いけれど、
とりわけ、北海道はここから歴史的積み重ねがスタートしているといって
過言ではないのですね。
わたしたち、北海道で生まれた世代の人間は
こういう建築が「伝統」的な建築と言うところから始まっている。
奈良、京都の歴史的建築物群は、教科書として学習するものなんですね。
まぁ、あるがままに見る、というしかないのです。
はじめに近代合理主義的なDNA的刷り込みがあって、
そのあと、歴史などの情緒性が追いついてくる、という感じでしょうか。
そういうことでの「違い」というものが
いろいろなところで、否応なく感じることが増えてきています。
日本の中で、北海道の建築って、
今後、どういうような存在になっていくものかどうか、
見定めていくことは、興味深いことだと思っている次第です。

きょうは岩手県で、新住協の総会出席。
寝不足気味ですが、気合いでがんばりたいと思います。ではでは。
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胆沢城跡

2008年05月22日 05時56分22秒 | 歴史探訪

最近になってようやく、高橋克彦さんの歴史小説「炎立つ」を読むことができまして、
なんだ、もっと早くに読めば良かった、と思っています。
っていっても、まだ半分くらいしか読むことができません。
盛岡在住らしく、東北地域のことが克明な描写で書かれていて、
わかりやすくて、とてもいいと思いますね。
写真は先日足を伸ばして見てきた「胆沢城」発掘センターで見た配置図。

東北地方に奈良から平安の時期に建てられた「城」って、
戦国期の城とは、概念も違うようなものですね。
多賀城が典型的なのですが、
基本的には「政庁」としての建築であり、
武によって制圧する、という概念よりも、
抜けがたく、文化性とか、律令的国家体制の尊厳性を訴求する、
まつろわぬ民人に、ありがたき「政~まつりごと」を施す、というイメージに近い。
従って、きれいな方形に敷地を区切って、
侵しがたい神聖性や、権力の透明性などを理解させる様式を取っている。

ただし、位置は北上川と支流・胆沢川の合流点という
当時の戦略的要衝点を押さえてはいる。
きれいに四角く区切られた築地塀は、幅が2mで、高さが4mほどで
延長距離はここでも2km以上にはなっていたようなので、
古代世界で考えたら、たいへんな土木工事。
周辺住民の税金的労働提供・搾取によって実現させたものですね。
建前としては、新開拓地として住民を移住させ、
それらに農地を貸与しているわけですから、
税金徴収として、それなりには合理性があったのでしょう。

最近は、地図の下の方にマーキングされている
「伯済寺遺跡」の調査が進んでいるそうです。
この地域は、胆沢城に勤務していた「官人」たちが住居した地域なのだそうです。
そう考えると、この北上川のまわりに古代的・中世的な
「都市」が形成されていたと考えられますね。
当然、「政庁」ですから、税金としての農業生産物の収受が基本機能。
そうしたものを運送する必要もあっただろうし、
そうした関係から、多くの人たちがここを訪れただろうから、
ひととものの集散があるわけで、都市的なものだったでしょう。
どんな様子だったのか、興味が湧いてきますね(笑)。
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日本の公共空間デザイン

2008年05月16日 07時46分29秒 | 歴史探訪

写真は足利氏の本拠に建てられた寺院の正面からの外観。
よく歴史巡りなどをすると、日本では決まって宗教的な施設になる。
この足利氏の発祥地とされる居館跡地も
お寺として存続しているのですね。
京都に残っている建築も多くがそういう残り方をしている。
金閣は足利義満が私邸、迎賓館的に造営したものだし、
京都中、歴代の権力者が妄執に駆られて造営した建物がそういう形で残る。
なにやら、現代の宗教法人の無税特典というのは日本伝統の文化なのかと、
つい、疑ってしまいます(笑)。

こういう敷地の大きな建物空間の場合、
そのなかにいくつかの建物が共鳴するように配置されます。
よくあるのが、背の高い建築~塔のようなもの、
校倉のような倉庫状の建築、
そして、大きな屋根のデザインで見せる主建築。
きっと、このような配置デザインって、中国の影響から来るものでしょうね。
地形と方位などを考えて、良い気が満ちるように考えられているのでしょう。
そして、時間を掛けて植栽が施され、
独特の東アジア的な「公共的空間」が演出されてきているのだと思います。
で、そういうなかでもやはり、この写真のように大きな屋根の
デザインというものが、一番直接的にひとびとに訴求してくる。
屋根はいろいろな建築的検討の結果、選択されるのでしょうが、
この建物など、大変ユニークな造形を見せてくれる。
寄せ棟を基本にした入母屋ですが、ちょっと寸詰まりなのが楽しい。
日本人はいちばん、寄せ棟というのが心情に似合っているのでしょうか?
寄せ棟は、台風などの風の被害に対して柔構造のような気がします。
まずそういう気候風土に対する適格性があって、
そのうえで、心情的なものが積み上がっていくものなのでしょう。
古民家などでは、ほとんどの屋根が寄せ棟です。

やっぱりこういう空間性には、ほっとするようなものがありますね。
日本人ということを意識させられる部分。
でも、北海道では、なぜか寄せ棟はほとんど採用されない。
たぶん、日本と北海道を分ける最大のものは屋根デザインでしょう。
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江戸期の婚姻

2008年05月14日 06時18分30秒 | 歴史探訪

きのうもご紹介した「歴史人口学」。
なかなか奥行きがあって、興味深いテーマですね。
そのなかに江戸期の一般的な婚姻年齢について触れていました。
というか、婚姻と言うこと自体についても研究されている。
そういうなかで、江戸期の「小作農」という社会的存在が
日本人の基準的規範の基礎になっているというような部分があります。
「伝統的家族観」とでも呼べるようなものが、
実は江戸期の「小作農」を基準とした「家族構成」だとしています。
直系家族を単位とした「家族3世代同居」型の単位が
江戸期に社会の基本因子と規定されたのだ、と。
婚姻率というのも、こういう社会的なシステムが常識化して
「皆婚」に近い率になっていった、というわけなんですね。
それより以前には、婚姻率って50%すら切っているような社会。
小作農にとっては、家族を基本とした労働集団が経済単位にもなっているので、
婚姻は、家を存続していくという子孫づくりの側面と同時に
直接的に嫁としての労働力獲得と言うことでもあったのです。
婚姻の年齢は男性で平均的に27,8歳前後、女性で20歳前後。
一度、このような「常識」が根付いて、
それが長い時間、「伝統」的とまで思われ続けて存続してきている。
現在でも、核家族化の進展はあるけれど、
基本的社会規範としては、この常識が基本になっている、ということ。

このように指摘されれば、ふむふむなるほど、と了解できます。
で、平均的な寿命は40歳前後だったそうなので、
婚姻というものは、都合10年前後ほどの期間、維持されるものだったことになります。
わたしの仕事は住宅を考える仕事なので、
住宅というものの基本因子である婚姻や家族というものを考えるのは大前提。
そして現代が、どのような家族関係に向かっていくのか、
見通していくためにも、こうした視点を持つというのは大変重要。
いろいろ考えさせられますね、ふ~む。

<写真は近所の公園の様子>
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歴史人口学

2008年05月13日 06時20分10秒 | 歴史探訪

面白い本を発見して見ておりました。
人口から見る日本歴史、ということなのですね。
いまわたしは、どちらかというと平安末期の時期の動乱期の歴史を
いろいろに興味を持って見ているんですが、
こういうのに掛け合わせてみると実に面白い。
日本の戦争、土地争奪の歴史って、
織田信長がはじめて(といわれている)専従の軍事組織を作るまでは
兵農が一体で、分離不可能という状態だったのだろうと推定できる。
古代の頃の戦争にしても、兵は募兵が基本。
ということは普段の仕事は別にある人間が「いくさ稼ぎ」で駆り出されていたのが実態。
そしてその多くは、農民の次男三男ということだったのだろうと推定できる。
そういうひとびとを練兵して、戦場で使ったのでしょう。
平安末期の戦争の兵の実態を調べた本などでもそのあたりが見えてくる。
兵隊の数というのは、どうもいい加減ではあると思うのだけれど、
それにしても、富士川の合戦~関東に武権を樹立した頼朝軍が対峙した
平氏の側の「朝廷軍」が12万人とか書かれている。

それに対して、この人口学の本によると
その当時の日本の人口が全体で680万人ほど、となっている。
実際には現地周辺での募兵が大きかっただろうと思われるので、
東海地域で見てみても、総体で43万人あまり。
女子ども、老齢者もいるわけで、そう考えたら
この当時の「戦争」って、いったいどういうものだったのか、
色々に興味深いものがあるのですね。
確かに政治軍事貴族たちの争乱ではあっただろうけれど、
そういう意味合い以上に兵站や運輸、兵糧の提供などなど、
現地にとっては、たぶん一大ビジネスという側面はあっただろうと思われる。
現地の人間にとっては、どっちが勝つとか負けるとかはあんまり関係なく、
誤解を恐れないで言えば、
いわば公共事業的なものでもあったのかも知れない。
昔は、「家」単位が基本の社会であって、
たとえば戦死しても、家が存続して行くことの方の価値観が大きかった。
個人の死というものの考え方がいまとは違う。
そういう「無常」感に、仏教という宗教も拡大できる素地があったのかも知れない。

というような次第なんですが、
この人口学って言う物差しで、歴史を見ていくって
ものすごく大切な視点を提供してくれるようですね。
考えてみれば、経済が、700万人程度の人口とその程度の生産段階での争いなんですね。
で、一般大衆はたぶん、ほとんどが明日の生活のことしか考えられない社会。
どうも、かなりのリアリズムが見えてくるような気がします。

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東北の中心って?

2008年05月05日 05時06分01秒 | 歴史探訪

北海道に生まれたわたしが、一番関わることになった
それ以外の地域が、東北です。
まぁ、首都圏地域にも学生時代を含めて8年間ほどいたのですが、
主に仕事で主体的に動き回れるようになって
関わることが大きくなったという意味合い。

そういうなかから、生来の歴史好きが目覚めてしまって、
東北の各地域を巡り歩くようになり、
知らず知らず、考えるようになります。
ようするに、歴史的にも地政学的にも「東北の中心ってどこ?」という点。
今はもちろん、仙台がそういう位置を占めているのは事実。
伊達「陸奥守」が江戸期を通じて存在し続けてきているわけですし、
幕末では「奥羽越列藩同盟」の盟主にも伊達氏がなっているのですから、
近世においては仙台が中心となっていたとは言える。
しかし、日本史のはじめ頃から繰り返されてきたのは
仙台平野地域までの日本の権力範囲に対して、
それ以北の地域住民の反抗の歴史。
仙台平野までは、古墳が残されたりしていて、
比較的早くの時期に日本の生活文化様式を受容していたと推定できる。
しかし、その時期には多賀城が王朝の現地中心地域であったことは明白。
地政学的にも、多賀城に伊達氏は入城すべきだったのではないかと思われてなりません。
しかし、その多賀城も、どうも中心とは言えない気がする。
歴史的に見ればやはり、東北という概念を初めて権力としても
明らかに現出させたのは奥州平泉の藤原氏政権。
基本的には王朝国家の体制の中での現地軍事警察権力を握る形で
相対的に独立的な権力を樹立した。
伊達氏が仙台平野を中心とする60万石程度の地理的支配範囲だったのに対して
「白河から外ヶ浜まで」という、現代の「東北」に相当する地域を
概念上も、明示的に支配していたと言えるのです。
東北を代表する大河、北上川を水運として活用して、
関西の日本中央地域とも物流・情報とも直結していた。
現代の地図で見ても、平泉の方がはるかに「へそ」に位置する。
さらに歴史的に見て、北東北地域にその権力基盤を持ち、
それ以南の地域に対しても、中央権力との調和という形で存在していた
奥州藤原政権の方が、「東北」という概念に親しい。

いま、世界遺産の登録審査が近づいてきていますが、
この平泉地域がより正当な評価を得るためのひとつのステップになり得る機会ではないかと
密かに期待している次第です。
って、東北地域に対してはエトランゼな人間なのですが、
でもだからこそ、歴史を知れば知るほど、
このような思いを強くしてきているというワケなのです。

<写真は、仙台城の復元想像パノラマ>
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奥州藤原氏館方向から束稲山を見る

2008年04月28日 06時25分29秒 | 歴史探訪

平泉の周辺はことし、世界遺産の登録審査を迎えると言うこと。
今回初めて、中尊寺以外の平泉地区を訪れてみて、
その中世都市としての広がりを少しイメージすることができました。
写真は都市としての平泉が持った最大の交通手段、北上川と、
その東方対岸に見える束稲山の様子です。
撮影したのは、柳の御所と呼ばれた奥州藤原氏の主要居館方向。
北上川は南下すると石巻あたりで太平洋に出て
太平洋岸の湊・伊勢などから京都へ、はるかに連なっています。
この物資の大動脈を通って、黄金をはじめとする
東北地域の物産が都へ運ばれ、同時に都を通して
世界中のものがこの平泉の地にもたらされてきたのでしょう。
マルコポーロが書いた「黄金の国・ジパング」というイメージも
この平泉の繁栄ぶりを誇張した表現であったのではないかと思われます。

中世都市の場合、そこにひとびとを引きつける魅力って、
宗教的な「極楽浄土」にもっとも近い、という要素があったでしょう。
日本の権力争奪者たちが折り重なるように宗教施設を建ててきた
京都や奈良の街を見れば明白。
その意味で、権力と宗教的魅力とは一体的なものであり、
主要な寺だけでも、毛越寺・中尊寺・立石寺という巨大伽藍を配していた
この平泉は、まさに独立王国的な存在を誇示していたに違いない。
対面している束稲山は、西行によって桜の名所として謳われましたが、
その後、藤原氏滅亡後は桜はほとんど維持できなかったそうです。
藤原氏がこの山に桜を大量に植えたという記録があり、
大切に保護し続けていたのが、自然林に戻ってしまった。
桜というのは、そのように人間による手間暇がかかる森なのですね。

現在は一部に桜が植えられているようですが、
奥州藤原氏全盛の当時は、全山桜色に染まるような光景だったに違いありません。
桜に異常なまでの好き心を見せた歌人・西行が
都から遙かにこの地を訪れたというのもむべなるかな、です。
中世都市・平泉を再現復興するようなプロジェクトが
世界遺産登録によって促進されることと思います。
平成の大合併に当たっても、平泉が合併を避けたのは
きっとそのような思惑が強く働いた結果なのではないかと思われます。
北上川河岸に沿って国道4号線と合流するバイパスが造られ、
太平洋岸方向へ、新しい道路も建設されています。
こうした開発行為に対して批判的な声もあると聞きました。

こうやってみてくると、
やはり東北地域の固有性の中心って、やはり仙台と言うよりも
この平泉を中心とする一帯の方がふさわしいと思われます。
そういう地域文化の再生という意味では
世界遺産登録という機会をうまく生かしていくのが賢いでしょう。
地域の誇りを作り出す、という側面から考えたら、
よい税金の使い方のような気がしてきます。いかがでしょうか。
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毛越寺・開山堂

2008年04月26日 07時45分10秒 | 歴史探訪
平泉に足を伸ばして、一度も見ていなかった毛越寺や
「柳の御所跡」などを見学して参りました。
ことし、平泉の一帯は世界遺産申請される予定になっています。
きっと、そのころからは大変なブームになるかも知れません。
日本史の中でも、きわめて謎の多いのが奥州の興亡史。
頼朝による軍事制圧によって、東北地方はその歴史を断ち切られたのでしょう。
その後は、関東の武権が東北地方を蹂躙してしまって、
それを背景とした鉢植え的権力がながく支配する地域になっていった。
要するに、奥州の独立性はその痕跡を含めて関東によって
歴史的に圧殺されてきて、正しい奥州の歴史が見えなくなっている。
この平泉を中心とする地域は、鎌倉幕府の正史である吾妻鏡でも
「わが国無双の伽藍なり」と記載されているように、
相当のレベルの文化を持っていたことは明らかです。

写真の毛越寺・開山堂は、慈覚大師円仁がこの寺を開いた記念施設なのだとか。
慈覚大師円仁とは、以前このブログでも触れましたが、
平安初期、新仏教として朝廷の庇護を受けた天台宗の3代座主。
唐代中国の最新文化を、苦難の大旅行の末に日本にもたらした
日本仏教史のなかの大スターなんですね。
日本で初めて「大師」号を受けた僧侶なのです。
まぁ、今の日本では比肩しようもないのですが、
日本第1級の学識者であって、朝廷権力の信頼も厚く文部科学大臣も兼務している、
みたいな存在だったのですね。
そういう人物が、この平泉地域の毛越寺や、立石寺・中尊寺などの
仏教文化施設をすべて開山したということなのです。
当時の平安朝廷にとってこの地域がいかに重要であったのか、
指し示すなによりの証拠のように思われます。
いったい、なぜここまでの傾斜を朝廷権力は奥州地域に対して見せたのでしょうか?
奈良の大仏開眼に際して発見された奥州地域の黄金が
すべての鍵と言うことになるのでしょうか。
その後の、源氏一族による異常なこの地域権力への執着。
前九年・後三年戦役を通してかいま見えるのは関東武士たちの
ぎらぎらとした欲望そのものであったと思います。
八幡太郎義家が戦争では勝利を得ながらも、朝廷権力によって
「私闘」であるとされ、結局は奥州藤原氏にこの地の権力が認定されていったのは
どのような政治的経緯によるものなのか。
いろいろな想念が沸き起こってきます。
頼朝による、先祖の復讐にも感じられる奥州征伐の様子を見れば、
いかにこの地域が魅力的なものであったか、証明もしているでしょう。

って、どうも飛び飛びになってしまいますね(笑)。
円仁さんの開山を記念した建築ということで、
見てみたら、ほかの仏閣とは壁の様式などが違っておりました。
建築様式でも、どのような系譜のものなのか興味をそそられます。
塗り壁と木とのコントラストが、寒冷地を意識した意匠なのかどうか、
よく調べてみたいと思います。
まぁ、何回か焼失してきている建物らしいのですが、
再建されてきている以上、その基本デザインは踏襲されてきたと考える方が自然。
あんまり日本の正史に登場してこないけれど、
平泉を中心とする地域って、相当、日本史に強い影響をもたらしてきたのは明らか。
さらに、大いに興味がふくらんできます。う~む。
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近江商人の残照・盛岡旧市街

2008年03月25日 05時38分58秒 | 歴史探訪

江戸期の経済活動について興味が高くなってきています。
盛岡市を先日、訪れた際、
旧市街の商家の成り立ちを聞く機会がありました。
江戸期の旺盛な経済活動を支えていたのは、
複式簿記を操っていた近江商人たちの活動であり、
いろいろな部門で、商機を見いだして、ビジネスを展開したかれらの
活動が、ベースになって歴史は展開していると感じさせられた次第。
商人たちの歴史というのは、あまり見る機会がない、と思います。
しかし、指摘されてみると、今日に至る日本の活発な経済活動で、
商人たちの動きが顧慮されていない、というのはおかしい。

秀吉などは商業の発展を自らの政権運営の基盤に据えていたに違いなく、
その幕僚には、小西行長などという有力商業資本とおぼしき人物もいたし、
石田三成という人物も、近江出身であり、
秀吉政権成立時の活発な軍事運動を支えた兵站輸送など、
相当な数学的能力で、運営していたことは想定される。
秀吉によって九州制圧の夢を絶たれ、経済的に行き詰まった薩摩藩に
藩経済の運営方法を指南した、という辺り、
石田三成という人物も、そのような近江商人的気質のなかにいた人物だと思われます。
こうした近江商人たちは
場所請負制を取っていた一時期の蝦夷地の漁業運営をも手がけていたそうで、
きっと、歴史の裏舞台で、さまざまな決定的役割を果たしたに違いないと思うのです。
一度、蝦夷地の場所請負制のことを書物で見たことがあるのですが、
そもそもなぜ、幕府が直轄領にした蝦夷地の経済の中心であった漁業を
商人たちにゆだねたのか。
要するに幕府の役人たちが運営してみたら、まったく赤字の連続だったのですね。
そのため、効率よく利益を生み出せるように商人たちに直接
「場所を請け負う」形にしたんだそうです。
その決算報告が連年、文書として残されているワケなのですが、
さすが、商売人たちですね、こちらでもきれいに若干の赤字計上になっているのです。
それはそうだと思います。かれらにとって、
幕府のために汗水垂らして黒字をあげて尽くす必然性はない。
「お役人様たちでも赤字なんですから、わたしどもではとても・・・」
などといいつつ、その実、継続して場所請負が続けられるように
抜け目なく賄賂などを配って、継続してきたに相違ないのです。
そのようにして蓄積した富を幕末に至る商業資本の蓄積にしてきたのでしょう。
明治政府側に資金提供した旧財閥系資本とはそういうものだったのだろうと思います。

少なくとも、番頭・手代といった商業の階層的ネットワークで、
どんどん、独立自営していきながら、そのネットワークが生み出す
「情報力」によって、機敏に経済をリードしていただろうことは推定されます。
盛岡は南部藩の首都ですが、
北上川の物流ネットワークで江戸への流通ルートが確保されていて、
そのような全国経済に参加していたことでしょう。
天明の大飢饉の引き金になったとされる
八戸周辺での大豆生産への過剰な傾斜というのも、
勃興しつつあった関東・野田の醤油生産活動への原材料供給が発端。
そうした経済活動は、近江商人たちのネットワークの中で
「商機」として見いだされた側面が生み出したことだと思います。

盛岡の旧市街に展開している商家の
「町家」の家並みの様子を見ながら、
そんな想念が思い起こされていました。
そういった「商人の歴史」みたいなものを調べてみたいと思っています。
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奈良期の巨大建築

2008年03月01日 08時30分52秒 | 歴史探訪

最近、またまた歴史系の話題になっています。
どうも、年齢的に自然とそういう指向が強くなってくるものかどうか(笑)
まぁ、ここんとこ、決算の関係での仕事が多くて
住宅取材とかの機会が少ないということもあります。
と思ったら、来週はふたたび、「東北住宅大賞」の審査の仕事で
東北全域を駆け回り、その後も取材が山積み、ということ。
なので、本日も歴史ネタです。

先日、斉藤裕さんの「日本建築の美、黄金の塵」という講演を聴きまして、
たいへん面白かったのですが、どうも、
斉藤さんは茶道関係の団体などから依頼されて
調査研究活動をしたようで、その成果としての取材結果に基づいた講演だったようです。
で、そのなかで、たいへん興味深かったのが、
奈良期の巨大木造建築がなぜ、文化として続かなかったのか、
ということへの示唆として、
単純に自然状態の巨木が少なくなったという事実。
朝鮮ではこの間、南大門が焼失したニュースが流れましたが、
朝鮮さらに中国でも、奈良期の巨大建築に見られるような巨木は
遺されている建築には見られないのだそうです。
仏教に国家運営の道具としての利用価値を見いだした権力は
写真の東大寺を始め、全国に「国分寺」を造営しましたが、
それらは今日に至るまで、何回かの焼失を経ながらも存続してきています。
こういう巨木による建築は、世界的にたいへん珍しい。
世界遺産であること、むべなるかな、なのですが、
インド洋~ヒマラヤという地球規模の気候条件の結果として、
日本は湿潤で、巨木を育むのに適した自然条件を持った地域。
そういう条件で、木造の文化が栄えてきたという側面はあるのでしょう。
しかし、司馬遼太郎さんの書かれたものによると、
平安期以降しばらく、戦国期まで、
巨大木造は忘れられたようになるそうです。
巨木が盛んに伐採され、それが再利用可能なほどに復元するまで、
700~800年の時間が掛かったということなのか、
このあたり、重ね合わせて考えて、たいへん面白い指摘だなぁと思ったのでした。

こんにち、地球環境問題から木造への関心がヨーロッパで高まり、
盛んに集成材技術を使っての巨大木造へのチャレンジが行われているそうですが、
その「サスティナビリティ」の枕詞として、
奈良期日本の巨大木造建築が最先端の脚光を浴びているのですね。
写真は、昨年夏の旅行の折の写真なのですが、
たしかに欧米やアジアのみなさんの姿が多く、
そのような関心というのも頷けるものがありましたね。
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