三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

出羽国府

2007年10月21日 07時03分12秒 | 歴史探訪

きのうから酒田に来ています。
本日日曜日に今回出張の最後の取材があるので、
前日から入っているのですが、ものすごい天気が悪い。
さて、どうなのか、と思っていたら今朝はやや青空も見え始めています。

なぜ、早めに酒田に来たのかって、歴史好きの血が騒ぎまして、
「出羽国府」をこの目で見てみたい、というのがあるんですね。
東北はご存知のように、陸奥の国と、出羽の国という2地域があり、
それらを合わせて「奥羽」となります。
古代律令制国家は、蝦夷の地であったこの両地域を治めるために
政治と軍事の中心を定めているのですが、
一方の陸奥では、多賀城がそれに相当。しかし、
出羽の方では、諸説があって、「国府」所在地が確定していないのです。
ようやく近年になって、この酒田市東北方の遺跡・城輪柵が
どうも、出羽国府として確からしいと確定し始めているのです。
多賀城については有名な碑文が発見されたり、
その後背地としての松島や、「宮城野」が王朝文学に謳われたりして
資料の豊富なものになっていますが、
出羽国府は、そのようではない。
まぁ、一種、なぞのような存在なのですね。

行って参りましたが、周囲はひろやかな田園と住宅地が広がる場所。
まだ、遺跡としての整備もそれほど進んではいません。
酒田市の係の方に位置の確認で電話しても、その方も
上手に説明できないくらいなんです(笑)。
当然現地には管理するような施設なども置かれてはいないというのが現状。
「せっかく、出羽国府有力地なんだから、もっと整備されたらいいですよ」
などとお節介の言葉も出してしまった次第です。もったいない。
東側の門と、南大門、その周囲の築地塀が復元されている、というところ。
ただし、発掘作業の結果、
「一辺約720mの築地塀で区切られた正方形の外郭と、その中央に一辺約115mの築地等で囲まれた政庁部分によって構成される総面積52万㎡の遺跡である。 外郭の各辺中央にある門からは、政庁中心に向かって大路が伸び、政庁の配置もこれにあわせた律令制官衙様式となっている。」~以上、Wikkipediaより。
ということで、いわゆる律令制国家の政庁の基本様式をぴったり押さえた遺構。
越後、いわゆる「越の国」から、出羽の国への律令国家の進出の
経路として、この酒田・庄内地方というのは、
陸奥の国における宮城県に相当する位置だったと言えますね。
陸奥の国については関東からの陸路、というのも相当比重が高かったと推定されるのに、
出羽の国では、基本的に日本海の海の道が基本ルートのようですね。

ということで、酒田・庄内地方というのは、
律令制国家経済の基本、田んぼによる米作が大変豊かな地域だった。
きわめて古くから経済的に重要な位置を占めている地域なのです。
その後も北前船交易の重要な湊になり、
江戸期には12藩への大名貸しまで手を広げた大商家・本間家を生んだりしている。
現在は「山形県酒田市」ということになるのですが、
どうも、そういう意味では京文化や上方経済圏との結びつきの方が、
同じ山形県内内陸部よりも強い地域だと感じますね。

さて、読売さん、寝たまんまCSシリーズ終わってしまいました。(笑)
どうも、短期決戦の戦い方、全然用意できないで、経験不足がもろに出た感じ。
なんとも情けないような戦いだったですね。
パリーグの手に汗握る熱投に続いて、期待してみたのですが、
あまりの淡泊さに、拍子抜けするようでした。
プロなんだから、もうちょっと「気迫」みたいなものは見せられないの?
というところでしょうか。やはり、日本シリーズを昨年経験した中日には
「短期決戦的闘争心」という部分は感じられました。
今回はそういう差だった気がします。
しかし、準備の期間もあったわけで、なすすべがない、みたいな敗北は
ちょっと、やはりいただけません。少なくとも来年まではCS続くのですから、
読売さん、がんばって欲しいものだと思います。
コメント
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