三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

浅草の原風景

2010年02月22日 07時57分13秒 | Weblog




浅草寺はいま、屋根の葺き替えなど平成の大改修中。
屋根瓦をチタン合金製に改修するのだそうですね。
こういう大寺院の改修ではよく受注する清水建設の施工と言うこと。
まぁそういう話題は本日のテーマではありません。

浅草寺の参道には縁起を示す絵が掛けられていまして
わたし、こういうのが好きでして
ときどき凝視して見ております。
浅草寺というのは頼朝も参詣したり、保護したりしたと言うことですから
相当古くからの開闢を誇る民間信仰寺院。
民間信仰なので、初期はよくわからないのでしょうが、
寺の伝えに依れば、この近辺のこんな風景の中で
漁師の兄弟が砂の中から一体の仏像を探し当てたということが
きっかけとなっているという伝えであります。
江戸という場所は、その後の自然改造を経る前には
こんな風景だったのだろうなぁと、わかりやすかった。
Wikkipediaを覗いてみると

『浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、浅草寺の草創の由来は以下のとおりである。推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像は、現在の埼玉県飯能市岩淵にある岩井堂観音に安置されていたものであるという説が有力である。この時より100年程前に、岩井堂観音の御堂に安置されていた尊像が大雨によって増水した成木川に御堂ごと流され、行方不明になったという記録が残されており、この時の尊像が成木川から入間川、荒川を経由して隅田川に流れ着いたと推測されている。下流にて尊像発見の報を聞いた人々が返還を求めたが、かなわなかったという記録も残っている。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、「土師真中知」(はじのまなかち)とも)は出家し、屋敷を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像であると言われるが公開されることのない秘仏のため、その実体は不明である。

まぁこういう風景ですから
さもありなんというような印象があります。
推古天皇期など古代においては
関東の中心は、北関東地域・毛の国の方だったといわれていますから
おおむね間違いはないのでしょうね。

遠くには富士山が綺麗に見える砂浜で
隅田川の流れが東京湾に注ぐ河口に位置しており、
古くから交通の要衝的な位置にあることは明らかですね。
こういう風景ですから、漁をして生活していた人々は数多かったでしょう。
最近の調査では縄文人でも関東の人々と東北北海道人とは
違いがあるということだそうです。
生活文化も全然、文脈が違うのでしょう。
でもまぁ、こういう絵に描かれた時代も
世知辛い生きがたい世ではあったでしょうが、
なんとも甘美な時代感が感じられてきて
そういうロマンの中に浸っていたいと感じられる次第であります。




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コメント
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