三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

明治開国の残照

2014年01月14日 06時43分38秒 | Weblog



写真は神戸異人館のなかのワンカット。
装飾性、という言葉がこだましてくるような空間美。
明治の開国以来、横浜や神戸、函館といった開港地域が
海外からの文化受容の中心地になったことの残滓が、
これらの地域の文化資産になっている。
たくさんのヨーロッパ文化的な建築が建てられた。
写真の家もドイツ人建築家が設計して、地元の宮大工が施工した。
そういった時代から百年以上の月日が経過しているけれど
阪神大震災での被害から、修復を経て輝きを増しているようだ。
明治の開国の時、
異人さんたちが住宅を建てる時になって、
みんな高台の敷地を希望したことに、当時の日本人は奇異の念を抱いたそうです。
それまでの日本人には低地の利便性のいい土地が至上で
もっといえば、「◎◎谷」という地名の土地が
伝統的日本人感覚ではいいとされていたと言われる。
それは農業土木がわずかな努力で豊かな水田になる土地、
という先験的な感覚があって、よもや高台という
水利の不便な場所に、という思いが強かったのだという。
しかし文明開化と共に、かれら異人さんたちの生活文化様式を知り、
その奥行きと文明の圧倒的先進性に圧倒され、
日本人として何度目かの「積極的受容」に向かっていった。
「国家」を受け入れ、支配のための思想としての「仏教」を受け入れ、
「律令」を受け入れ、支配のためのツールとしての「漢字」を受け入れてきた
極東のアジア人独特の民族的習性が発揮された。
受け入れるとなると、日本人は徹底できる。
この点が、儒教に縛られている中国や朝鮮とは違う。
やがて、日本人は感性レベルに置いても、
「◎◎が丘」の地名の方にブランド感を感じるように自己変革を遂げていく。

それにしても、
こういう空間美を理解して、
その美の実現に丹念に取り組んだであろう、
職人としての大工棟梁たちの手業の巧みさを思わずにいられません。


コメント
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