ガラスの発明進化は、人類が経験した空間による精神変化の中でも
相当に高いインパクトだったに違いないと思っています。
そしていま、20世紀から21世紀にかけた局面では
大型ビルなど、建材として
いわば透明な壁として壁面を構成する部材の位置まで占めるに至っている。
ガラスが進化したことのプロセスはそのまま
現代文明が作り出した人類環境変化を表しているといえる。
わたしたちは、たとえば100年前の王侯貴族もけっして夢見れなかった
自由で伸びやかな「視線環境」を生活の中で得てしまっている。
一部の王侯貴族だけが文化を享受するよりも
もっと多くの大衆が集団的に享受するほうが進化のスピードも速くなる。
民衆化、というか、民主主義が進展し、市民という自立した個人の
衆議による政治社会環境が徐々に実現していったけれど、
逆の見方をすれば、産業革命は大きな「市場」を生み出すために
こうした社会変化をもたらした、ともいえる。
日本の現実で言えば、江戸期までの住宅への考え方の進化とは
比べものにならない速度で、環境変化が進んでいる。
そうしてガラスによる窓、
という今日あたりまえの空間性が現代住宅で実現している。
こういうふうになってみると、
それをどのようにコントロールしたらいいのか、とか、
生活の中で、窓辺を楽しむというような文化はむしろ出てこなくなるのか。
どうもそんな気分がしています。
写真は明治初年の異人館の窓辺。
窓のかたちも装飾も、実に丹念に考えられている様子が伝わってくる。
たぶん、日本の住宅とは「壁厚」に大きな考え方の違いがあり
重厚な壁がもたらす「出窓」的な空間が装飾性を生み出すのだと思います。
それに対して日本はやはり薄い壁の感覚が強い。
しかも、どうも最近の住宅の状況からすると
北海道では外界の景観を取り込むという自然志向が強いけれど、
本州以南地域では、やはり外光取り込み主体なのだと感じます。
この辺でも、北海道、寒冷地の住宅と温暖日本の住宅デザインは
枝分かれしていく運命であるのかも知れない。
また、最近の北海道の住宅ではより重厚な壁厚を目指している部分もあって、
さらに欧米的窓辺の価値観に近づくのかも知れません。
いろいろな興味を持って、生活文化の推移を見ています。