きのうの稚内・瀬戸邸の続篇です。
北海道の日本海沿岸地域には、江戸期から昭和までの時代の
大型収奪型漁業で財を成した人々の痕跡が建築として残されています。
同じ北海道でも、内陸地域の農業を基盤とした生活文化痕跡などとは
かなり色合いが違います。
北海道には、まずネイティブとしてのアイヌの人々、あるいはそれ以前の
居住生活痕跡があり、その上にこれら海岸地域での漁業痕跡が積層している。
その後、明治期に入って官による強制的に北米建築が導入される一方、
それとも少し色合いが違う江戸期からの函館開港による洋館文化もあった。
そういった前史的なプロセスがあったあと、ようやく本格的に
明治政府の北辺防衛政策の一面をも持っていた「開拓」文化が始まる。
没落士族救済の側面もあった「屯田兵」入植なども挙げられるだろう。
この「開拓」にしても、基本的には本州地域からの「囚人」による開拓重労働が
森林伐採開発事業として基盤を形成してから、
払い下げのような形で、農民の移住が始められたと言われる。
特に有望とされた農業地帯、道央地域や旭川を中心とする地域が特徴的。
わたしの母の実家などは、日本有数の農業先進地である美濃からの入植で
その農地配分においては、かなり政府側の配慮が見られ、
政策的に農業成功者を出させたいという政治的期待が込められていた。
そして開拓初期の地味の豊かさもあって
比較的早くに移民たちが成功し、自からの故郷から大工職人・技術を導入して
自分たちのそれぞれの「生活文化」の残滓を感じさせる「民家」を作ってきた。
こうした移民たちの出自は千差万別で、
ある特定地域からの文化が主流を形成するということはなく、
寒冷地的な生活合理主義が、比較的に共通性を持って育っていった。
そういう「揺りかご」のなかから、「高断熱高気密」という技術進化が起こっていった。
こういった大まかな北海道の「住」文化の流れの把握からすると、
この写真のような稚内での漁業に生活基盤を持っていた生活者の
「成功痕跡」は、いまの北海道の生活文化の共通性とは
大きく違いがあるスタイルだと感じさせられます。
この家を建てた大工職人の出自は不明のようですが、
やはり基本的に「日本海文化圏」の匂いを強く感じます。
京都文化の影響が色濃く感じられ、
和の「高級感」基準というものが、基本の考え方として貫徹している。
昭和27年という戦後間もない時に
いわば成金のようにして成功した人間は、
「いい家」を建てたいと思ったら、こうした「京都文化」を移植したかった。
北前船による交易活動のひとつの形が、こうした漁業産業だった。
そういう意味では、江戸期からの和のファッション産業を支えた
綿花生産のための農地に供給するニシンの肥料利用が、
文化のありようを決定づけていたのだと思います。
移植された日本文化痕跡の発掘、
こういった面白みも、北海道の住建築探訪にはあるのだと思いますね。