三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

現代住宅デザインは資産たり得るのか

2015年11月30日 06時54分37秒 | Weblog
最近、こんなようなことをよく考えるようになって来ました。
写真は東京・表参道の商業ビル。
一見、目を奪うようなガラス建築だけれど、
この建物は今後のエネルギー有限社会のなかで、
はたして存続していけるのか、
激しい疑問を感じざるを得ませんでした。
経済の規模が拡大して、建築もファッションのひとつになったのか。
次世代への存続などを考えるよりも、
刹那的な商業的イメージの訴求メディアとして使われている。
RCとガラスというものが建築を変えたことは事実でしょう。
しかし、いま作られつつある日本社会の建築、住宅デザインには、
サスティナビリティはあるのかどうか、
わたしたちの社会の今の審美眼には、
永く資産として継承しうる長期的視点があるのかどうか、
きわめて素朴な疑問を持たざるを得ません。
「長期にわたっての審美眼」という部分で
現代は非常に困難を抱えている。
むしろこういった刹那的なメッセージ性に新奇性を見出そうとして
より長期的な存続性には顧慮しない。
どんなものでも造形できるということと、
どんなものが永く愛され続けていけるのかということの間に
大きな段差が横たわっているように感じます。
建築デザインはどのようにこうした問題を克服できるのでしょうか?

戦争に負けたことで価値感は大きく転換し、
人類史上にも残るような大量空爆、大空襲によって
首都の木造民家が焼き尽くされた結果、
なにがしかの「価値感」の喪失があって
戦争に至った社会のすべてが勝者アメリカによって否定されたけれど、
では、そのあと展開されたデザインは、
なにを基本的な基軸的価値感にしてきたのか?
結局いびつな「個性表現」という社会的混乱に終始したのではないか。
今に至って、この混乱は一向に収束点が見えてこない。
住宅の社会的な「資産価値」の低下を
社会全体が放置し続けてきているなかで、次世代の人々は、
何をよすがとして、資産づくりをして行けばいいのか、
その方向性に迷うのではないだろうか、
そんな、自分一個では重すぎる思いが募ってきております。

コメント
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