三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【中世都市・堺の街区計画】

2016年09月14日 06時27分14秒 | Weblog
日本史の中で、中世都市・堺という街は異彩を放っている。
写真は境市博物館で展示されている江戸期の街並み図。
もちろん撮影OKというものなのですが、
わたしが探している信長に屈服する以前の独立中世都市・堺とは違う。
学芸員の方に聞いたら、その時期の街割り図はやはり現存していないそうです。
堺というのは大航海時代の世界と日本社会との接点。
どのような勢力からも独立を貫き、鉄砲の販売を主軸に
海外産物の交易と国内流通の利権を一手に握って、
自衛組織を傭兵などによって確立していたとされている。
その時代の奈良で、堺からもたらされた輸入の「ファッション」が
若者たちの心を捉えて、大ブームになったというような記録もあるそうです。
たぶん、わたしたちの社会の中で長く生起した海外文化への憧れが
この時代になって、完全にそれが堺の「町衆」に独占的利権になった、
そういうことを伝えてくれているのだろうと思います。
堺という地名は、そういう自由とか開明性とかの象徴のようなものとして
感受性の強かった信長、秀吉などの世代に大きな影響を与えたに違いない。
そういえば家康ですら、信長の横死直前に堺見物に行っていた。
戦後の横浜、神戸などが占めていた文化的位置の嚆矢として
この堺の街は日本史の中に存在し続けていると思う。
この街においては、ほぼ完全な自治が達成されていて、
ほかの日本社会でどんなに敵対的関係にあっても、
この街内部では、その敵対関係による騒乱行為が禁じられていた。
商人たちによる独立自治が日本国内で完全に成立していた。
街区間には木戸が設置されていて、
夜間にはそれが完全に閉じられて、治安も維持されていたとされる。
たぶん、その後の江戸の街割り、街区形成などに
その到達した都市計画思想は反映されてはいるのだろうと想像しています。

かれら内部での行政的自治機構がどんなものであったのか、
そして街割り、都市計画、住宅のかたちはどんなものであったのか、
この絵図面に魅入りながら、想像力を働かせていた次第。
いまも時空を超えて「取材」してみたいと強く思っております。
コメント
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