本日は東北に移動。久しぶりに北東北なのでフェリーで移動。
2〜3年前までは、体力的にも全然大丈夫ということで、
とくに震災直後など頑張っておりましたが、
最近はややわたし自身はやや足が遠のいております。
年齢も加わってくきたので、どれくらい駆け回れるか、であります。
なんですが、それとは別に個人的なルーツ探検、
先日の紀州・和歌山探訪の旅の成果として、
大阪府立図書館さんのWEBレファレンスサービスを利用して、
なんらかの情報にたどり着けないものかと期待していたのですが、
その返答がきまして、どうも芳しくない状況であります。
慶長年中、という今から400年以前のことですから、
手掛かりはなかなかないようであります。
どうもわが家のご先祖様は、紀州・桑山重晴という
豊臣秀長の代官として紀州和歌山に城を構えた家中に
「仕官」していたようなのですが、
この「城代」としての、事実上の「大名家」という存在では
正史としての文書記録などはなかなかないようです。
一部要旨抜粋は以下のよう。
『和歌山県史:中世史料 2』(和歌山県史編さん委員会/編 )
p.441-444に桑山重晴宛ての書簡が収められている
「護念寺文書」が収録されています。
巻末の「護念寺文書」についての解説には
「桑山氏の在城時代(1585~1600)に松屋町に移し、
城の鬼門の守護となし、その名も護念寺と改めた。・・・・
当寺は豊臣氏の城代桑山法印重晴(号果報院)と縁故が深く、
桑山氏関係の文書を所蔵するに至ったものであろう。
11通の書状のうち、前後を欠いたものもあるが、
すべて桑山法印(重晴)に宛てたものと思われ、差出人は
羽柴秀長・小西長政・大谷吉継・前田利家等の武将のほか、
天満年寄中というものもある。残存量の少ない桑山時代の史料として
貴重なものである」(p.1078)と書かれています。
なお、この資料には家臣に関する記述はありません。
というような状況。
この桑山家は、関ヶ原において両端に侍する立場を取っていたので、
たぶん都合の悪い側(西軍側)の立場で行動した家臣たちは
そのため戦後、家のために身を引かざるを得なかったのではと推測される。
そういうこともあって、記録手掛かりもないのでしょう。
う〜〜む、ルーツ探し、完全に暗礁であります(泣)。
まぁ趣味の世界ですので、気長に突破口を探したいと思います(笑)。
本日は、ややテーマズレでした。あしたから本題に戻ります。
2〜3年前までは、体力的にも全然大丈夫ということで、
とくに震災直後など頑張っておりましたが、
最近はややわたし自身はやや足が遠のいております。
年齢も加わってくきたので、どれくらい駆け回れるか、であります。
なんですが、それとは別に個人的なルーツ探検、
先日の紀州・和歌山探訪の旅の成果として、
大阪府立図書館さんのWEBレファレンスサービスを利用して、
なんらかの情報にたどり着けないものかと期待していたのですが、
その返答がきまして、どうも芳しくない状況であります。
慶長年中、という今から400年以前のことですから、
手掛かりはなかなかないようであります。
どうもわが家のご先祖様は、紀州・桑山重晴という
豊臣秀長の代官として紀州和歌山に城を構えた家中に
「仕官」していたようなのですが、
この「城代」としての、事実上の「大名家」という存在では
正史としての文書記録などはなかなかないようです。
一部要旨抜粋は以下のよう。
『和歌山県史:中世史料 2』(和歌山県史編さん委員会/編 )
p.441-444に桑山重晴宛ての書簡が収められている
「護念寺文書」が収録されています。
巻末の「護念寺文書」についての解説には
「桑山氏の在城時代(1585~1600)に松屋町に移し、
城の鬼門の守護となし、その名も護念寺と改めた。・・・・
当寺は豊臣氏の城代桑山法印重晴(号果報院)と縁故が深く、
桑山氏関係の文書を所蔵するに至ったものであろう。
11通の書状のうち、前後を欠いたものもあるが、
すべて桑山法印(重晴)に宛てたものと思われ、差出人は
羽柴秀長・小西長政・大谷吉継・前田利家等の武将のほか、
天満年寄中というものもある。残存量の少ない桑山時代の史料として
貴重なものである」(p.1078)と書かれています。
なお、この資料には家臣に関する記述はありません。
というような状況。
この桑山家は、関ヶ原において両端に侍する立場を取っていたので、
たぶん都合の悪い側(西軍側)の立場で行動した家臣たちは
そのため戦後、家のために身を引かざるを得なかったのではと推測される。
そういうこともあって、記録手掛かりもないのでしょう。
う〜〜む、ルーツ探し、完全に暗礁であります(泣)。
まぁ趣味の世界ですので、気長に突破口を探したいと思います(笑)。
本日は、ややテーマズレでした。あしたから本題に戻ります。