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見学していたそのときに、ふと気付いていたことってたくさんある。
そういうことはしかし、通常の仕事の流れの中で、あるいは
スケジュール的な時間進行に埋もれてしまって、その場だけの
気付きに留まってしまうことが多い。
取材写真の再整理によって、そうした「点」が「線」になることがある。
提示した写真は、上の写真が2006年沖縄の「おきなわ郷土村」で見学した
「王国時代の民家」の室内の一隅に置かれていた「敷物」。
琉球王国時代(1737~1889年の間)の住宅ということなので約200年前ころ。
下の写真は、2005年に見学した吉野ヶ里の「権力層の人間の家」寝室。
吉野ヶ里は、だいたい3世紀(200~300年)頃を復元想定しているよう。
その両方で見た、畳の祖形とおぼしき敷物であります。
どうもその「類似性」に気付かされていた次第なのです。
しかし、時代としては1500-1600年くらいの間隔がある。
九州と沖縄、社会発展には多少の差異はあったとはいえ、
この時代、琉球は薩摩藩の実質支配という歴史時間に相当する。
自然にある植物繊維質を「編み上げて」敷物として利用する、という発想は
人類に広く存在しているけれど、
日本でだけ、畳という敷物が発達して主流になった。
その祖形がムシロのようなものから発展したことは、自然でしょう。
この写真の両方から、ムシロをさらに重層化させている様子がみえる。
琉球王国の時代というのは、江戸期の身分制規範が連動した時代で、
庶民の住宅にはいろいろな「建築制限」が設けられていたという。
〜身分によって屋敷や家屋の大きさが制限され、
農村では屋敷(敷地)が9間角(81坪、265平方m)、
家屋は4間に3間の主屋一棟と、3間に2間の台所一棟に限られました。〜
この時代、当然「畳」というものは開発され流通もできたであろうことは
明白ですから、この「制限」によって畳が禁制されて、
その法令逃れのため「いや、これはムシロですよ」という便法をとったのか?
よく見てみると、骨組みも木材や竹で組まれているようで、
その表皮としてムシロ状の素材によって被覆構成されている。
吉野ヶ里の場合には床は土間が想定されていて
その土間に段差を付けて一段高くした箇所を「寝室」としている。
その土間上に、こうした寝具敷物が敷かれていた。
一方の沖縄では、この家の床は竹で仕上げられています。
壁も植物繊維を組み上げて壁面を造作していると同時に
床面も土間から少し上がっていて空気流動が仕掛けられている。
蒸暑気候に対しての室内環境制御として、なんとなく「うっとり」するいごこち。
そこでの寝具・敷物として、こういう装置があったようです。
やっぱり、土間や竹の床だけよりも、こういう繊維素材の方が
カラダにとって、就寝時には好適な環境を作ったのに違いありません。
どちらでも「掛布団」状のものがありませんでしたが、
まぁ一般的に考えて、ムシロ技術で応用造作されたのでしょうね。
どちらも復元住宅ではありますが、
それぞれの地域の気候風土を考え合わせると、
人間居住環境への最大限の努力追求の痕跡があきらかだと思えます。