三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

ニッポン人の基底文化、非農耕定住・縄文

2015年08月24日 06時28分32秒 | Weblog
歴史というのを、文字に書かれた記録からだけ見るのは
やはりかなりヘンなことなのだと最近、強く思ってきます。
文字記録はたしかに、人類の大きな革命ではあったけれど、
それはどうやら「農耕」とワンセットの文明装置にしか過ぎなくて、
これまでの「歴史」では、その記録以前には、
そもそも「知性」が存在しなかったかのようになっている。
ほとんど半裸のひとびとが、ひたすら野山を駆けまわっているイメージ。
でも、こういう考え方、仕分け方では、
人類進化は、農耕社会化からしか始まっていないようなとらえ方になる。
考えるまでもなく、その段階までに成し遂げられていた生活革命が
文字記録によって書き留められるようになったということでしょう。

日本列島を現生人類の「グレートジャーニー」が通ったのは、
たぶん、3万年かくらいの以前なのでしょうが、
その段階では、基本的に陸上動物の狩猟が食糧確保の基本戦略。
その土地での陸上動物の個体数と人類の個体数バランスで
食糧確保の定量が定まり、それを飽和する数の人々が
さらに北方を目指して、アリューシャン列島からベーリング海に向かった。
基本的には列島内部で、狩猟採集生活を営む人類がいただろうけれど、
そうしたかれらのなかから、生活革命がはじめられたに違いない。
1万3千年前くらいから、海生動物を主要な食糧源とする定住が始まった。
それまでの狩猟生活が主に陸上生物資源の捕獲だったのが、
魚類を主要食源に変えたというのは、たいへんな「生活革命」。
そこから、大陸で始まったコメ農耕技術、社会がこの列島にもたらされる、
直近の2000~2500年前からの弥生まで、
この縄文社会が、1万年程度継続して、くらしが営まれていた。
たしかに農耕とワンセットである文字記録は、文化としてそれを持たず、
「歴史」ははじめられなかったかも知れないけれど、
この列島でのくらしようの「基底」的な文化伝統は形成された。
読書スピードが遅くて、このブログでご紹介した
「人類史のなかの定住革命」はまだ読み終えていないのですが、
先日の新潟出張でチェックした長岡市の新潟県立歴史博物館で
写真のような克明なジオラマを見ることができました。



まさにいま、読み進めている「非農耕の定住」世界が、
非常に鮮明なビジュアルで迫ってきておりました。
この縄文の暮らしの中で、発展してきたさまざまな「知恵」が、
わたしたちの血肉の中に、たくさん息づいているに違いないと確信します。
文字記録はそれらを前提にして、それを記録はしただろうけれど、
暮らし方それ自体の創造は、縄文1万年の積層のなかで行われた、と。
この写真で言えば、魚類の種類に合わせた調理・処理の仕方の文化、
その季節的循環を「旬」として認識する生活感受性。
漁撈生活を支える道具の考案とその生産システムの案出。
こういった一例のような「生活文化」が、積層されたのだと思うのです。
そして、そういったなかから、
わたしの基本興味分野である、定住の基本としての
「住宅づくり」も開始された・・・。
まことにくらしようを創意工夫する文化の揺りかごとしての
縄文文化は、いまもわたしたちの生活の基底的部分で息づいていると。
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