きのうは北海道神宮のご神体「開拓三神」が北海道に来られて
最初に腰を落ち着けられた「一の宮」について書きました。
でもそれよりも前に、北海道開拓判官・島義勇さんの札幌入地の推移が
当然、想像力の根源事実として抑えておく必要がある。
ということで、札幌区史にそのあたりを検証してみる。
明治2年5月の五稜郭戦争終結後箱館を10月頃に発して
いまの小樽市銭函で仮役所を建てて滞在した島義勇の下僚4名が、
まず先発隊として札幌に入って、円山の丘から(とあるけれど100mほどの
小さな山ですので、たぶん登頂してそこから見たのでしょう)
全体の地形を観望して、いまの大通り西4丁目に仮小屋を建てた。
明治2年11月10日に至って島義勇も雪を冒して札幌に入地し11-12日で
「開拓本府の縄張りをおわり」と区史には書かれている。
そして大工の福原亀吉・伊勢屋弥兵衛・稲田銀蔵、
木挽金十郎・土方裕次郎及び由松などを指揮し、南部地方より募集したる
職人135人(うち大工35人、木挽50人、鍛冶50人)をもって、
まずいまの北1条西1丁目の地を相し、(札幌本村の)大友亀治郎の
役宅を移し、一官邸の建築に着手せりとある。
この大友亀治郎さんは創成川の元になった「大友壕」に名を残す
江戸幕府の役職者として札幌経営の基礎を築いている。
この「役宅」を北1条西1丁目に移すことで、当座の役宅としたものでしょう。
写真の「住宅」には「島判官が住んだ家(推定)」という説明書き。
区史編集段階(明治44年)でも確認ができなかったのでしょうか。
しかし雰囲気からは、この写真が役宅だったように思われます。
島判官は、明治3年(1870年)1月19日、志半ばで解任されたので
この短期間に住むだけの住宅をわざわざ建てるとも思えない。
そう考えると、この家は江戸から明治移行期の象徴的住宅とも見られる。
大工棟梁3名と木挽き職人、土方職人など総勢135人で
当座のおおまかな縄張り、計画を策定して突貫工事にかかっていった。
総設計者である島義勇は、銭函と現場を馬で行き来して工事を督励した。
しかし時すでに降雪にいたっており工事は「寒中施工」に突入した。
「昨日築いたところが、朝来てみたらみんな雪の下になって埋没」状況。
佐賀藩出身の島義勇には想像を絶する気候条件が襲ってきた。
「よって前夜にムシロを工事現場に敷き並べ速く除雪できるようにした」
などと、今日の「ブルーシート養生」同様の対処をしている。
そういう工事の結果、20日間で竣工したとされるので、
前後関係を整理すれば、12月3日には竣工し島は入居している。
島義勇は翌年1月には罷免されているので、この家には1カ月ちょっとしか
在所していない計算になる。
このことには、漁業権についての政治的利権争闘があったようです。
Wikipediaの記述では以下のよう。
「(島義勇は)石狩や小樽など西部13群の場所請負人を呼びつけて
請負人制度の廃止を通告した。すると函館から、制度名を「漁場持」と
変えて制度自体は「従前通リ」とするよう通達が回ってきた。
そして判官の後任になる岩村通俊が制度廃止を時期尚早とし、
開拓費用を彼ら請負人に負担させるべきという意見書を書き送っている。
開拓長官・東久世通禧とも予算をめぐり衝突した。
明治3年(1870年)1月19日、島は志半ばで解任された。」
しかし工事計画はこの島判官入居後も活発に行われた様子が活写される。
勇払土人を雇い上げて(札幌)元村地方で木材伐採させて近隣地に
職人さんたちのための「長屋建築5戸続き2棟」を建設させたり、
同所に米蔵および倉庫2棟を築き、高級官僚住宅数棟や「御本陣」という
旅宿施設、倉庫建築、病院などの施設建築を進めさせている。
こういった建設工事と同時に道路工事などにも活発な計画が進行。
稀有壮大な計画進行だったことで島義勇は解任された事情がみえます。
どうも明治政権の累卵期で試行錯誤が見られたということなのでしょう。
そういった最初期を経て札幌建設は緒に就いていった。
<参照資料:札幌市公文書館講演会
「島判官の本府建設と札幌経営」札幌市公文書館 榎本洋介>
〜平成30年5月28日 於:札幌市公文書館講堂〜
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