住宅の雑誌の仕事をしてきて、
だんだんと住宅への興味が深まっていくほどに、
いったい人間にとって住宅とはどういう意味があるのだろうかと
より本質的な部分に、思いが至る。
住宅を考えるということは、人間の本然を考える部分が大きいのだと
そんなふうに考えるようになってきます。
そうすると、歴史的な住居について自ずと本質的に知りたくなる。
ちょうど先日書いた、歴史作家の司馬遼太郎さんが、
「歴史とはなんでしょうか?」と問われたときに、
「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という
人生がそこにつめこまれている世界なのです」
というように答えることにしている、とその著作、
「二十一世紀に生きる君たちへ」の中で書いていますが、
そういったひとつながりが、わたしの場合には住宅、古民家において色濃く
人間やくらしをはるかに感受する機会として求めているように思います。
日本人は歴史的に5億人程度がこの列島に
1万年以上にわたって生き続けてきたとされている。
歴史人口学的なことです。
現在そのなかの1億3千万ほどが、現代を生きている。
そのおよそ3倍程度のひとびとが、歴史的にどう生きてきたのか、
古民家には、その機縁を感じられる空気感が遺されている。
さらにさかのぼれば、遺跡に残る復元された遺構にも
その残滓をたぐるよすがはあると思っています。
結局、人間の痕跡を見ることでなにごとかの対話を求めている。
もちろん、対象は無言ではあるけれど、
人間としての同じ感受力を働かせていけば、なにかのコトバが成立する。
そんな思いで、住宅というものと向き合っている次第。
現代の住宅を取材するように、こういう古民家を取材している。
「どう暮らしていたのですか?」
「こんな楽しみを感受していたのですね」
そんな質問に、ときに古民家は答えてくれるときがある。
こころの襟を正しながら、やわらかく声に耳を傾ける、傾聴する。
この神戸郊外にある箱木千年家には、2度ほどフラれてきた(笑)。
年末年始の休暇を利用して、はるばる北海道から訪ねたけれど、
はじめは年始休暇にあたっていて、たしか6日から公開と書かれていて、
その日に訪ねたら、「臨時休み」という無情のお知らせ。
やむなく飛行機で帰った記憶があります。
今回「3度目の正直」で、ご尊顔を拝し奉ることができました(笑)。
朝1番に入って約1時間半ほど、来客もほかにはなく、
ほぼ独占取材(笑)することができました。
そんな経緯もあったので、この家の方でもたっぷりと
時間をいただけたのではと、その因果応報を感じておりました。
おっと、肝心の住宅のお話しにたどりつかない(笑)。
あした、きちんと書きたいと思います、失礼しました。
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