松浦武四郎という人は、江戸末期から明治にかけての人物。
1818年から1888年までの命を生きた。
北海道を探検して歩き、その後明治政府がこの地を開拓する号令を発したとき、
一時期は政府の役職にも就いていたし、地名を北海道とすることにした
その地名発案者であったとされているので、北海道人には馴染みが深い。
この松浦さんというひとの来歴を見ていると面白い。
江戸時代というのは、武士が「支配階級」という建前の社会だけれど、
社会発展とはあまり関係のない階級で、この松浦さんも
郷士・庄屋という階層の4男として生まれた存在だけれど、
むしろこうした階層の方が経済的には恵まれていて
自由気ままな生き方を選択している。
学問をある程度受けて、16歳のときから全国を旅して生きている。
その果てに当時の化外の地であった蝦夷地を探査する旅をしている。
それだけの「自由人」としての生き方がこの階層には可能だった。
そうした生き方が「先を見る目」を養い、蝦夷地開拓の透明な目線を持った。
明治維新当時はその慧眼が新政府の目に止まることになり、
政府の役職にも就くことになるけれど、しかしその腐敗した内実を知り
自ら役を辞してふたたび自由人としての生き方を選択する。
本来であれば、武士階級という存在こそが先を見通し
国家百年の大計を企図するべき存在であるのに、
かれらはただただ無為徒食するか、その地位に恋々とし自己保身していた。
今日の「国会議員」という存在のムダさを見るにつけ、
既視感が大きく感じられるのはわたしだけでしょうか。
そのように自由人として、とくに北海道の地域にとって
有益な活動を成していただけたのですが、
江戸期の「庄屋階級」という実質的な経済社会運営者の存在が強く浮かび上がる。
間宮林蔵さんもそうだけれど、北海道の開拓にとって
このような江戸期の自由人を生んだ階層に注目させられます。
またかれらをそのような活動に向かわせた動機はなんだったのか、
というようにも考えさせられます。
写真は松浦武四郎さんが残した北海道の絵地図。
丹念に「科学的態度」で実測して、後の世のこの地の発展のための
必要欠くべからざる作業を行っていた志の部分に強く思いを持たされます。
1818年から1888年までの命を生きた。
北海道を探検して歩き、その後明治政府がこの地を開拓する号令を発したとき、
一時期は政府の役職にも就いていたし、地名を北海道とすることにした
その地名発案者であったとされているので、北海道人には馴染みが深い。
この松浦さんというひとの来歴を見ていると面白い。
江戸時代というのは、武士が「支配階級」という建前の社会だけれど、
社会発展とはあまり関係のない階級で、この松浦さんも
郷士・庄屋という階層の4男として生まれた存在だけれど、
むしろこうした階層の方が経済的には恵まれていて
自由気ままな生き方を選択している。
学問をある程度受けて、16歳のときから全国を旅して生きている。
その果てに当時の化外の地であった蝦夷地を探査する旅をしている。
それだけの「自由人」としての生き方がこの階層には可能だった。
そうした生き方が「先を見る目」を養い、蝦夷地開拓の透明な目線を持った。
明治維新当時はその慧眼が新政府の目に止まることになり、
政府の役職にも就くことになるけれど、しかしその腐敗した内実を知り
自ら役を辞してふたたび自由人としての生き方を選択する。
本来であれば、武士階級という存在こそが先を見通し
国家百年の大計を企図するべき存在であるのに、
かれらはただただ無為徒食するか、その地位に恋々とし自己保身していた。
今日の「国会議員」という存在のムダさを見るにつけ、
既視感が大きく感じられるのはわたしだけでしょうか。
そのように自由人として、とくに北海道の地域にとって
有益な活動を成していただけたのですが、
江戸期の「庄屋階級」という実質的な経済社会運営者の存在が強く浮かび上がる。
間宮林蔵さんもそうだけれど、北海道の開拓にとって
このような江戸期の自由人を生んだ階層に注目させられます。
またかれらをそのような活動に向かわせた動機はなんだったのか、
というようにも考えさせられます。
写真は松浦武四郎さんが残した北海道の絵地図。
丹念に「科学的態度」で実測して、後の世のこの地の発展のための
必要欠くべからざる作業を行っていた志の部分に強く思いを持たされます。
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