三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

「疑惑捜査」の奇妙な熱心さ

2010年01月11日 12時43分41秒 | Weblog



年が明けてのいきなりの3連休ですが
つい難解な天皇についての記紀の本とかに嵌っていまして
抜け出せない状態であります(笑)。
というような前振りは、ブログの更新が遅れた言い訳ですね。
で、本日はちょっと最近の不可解な政治的動きについて・・・。

ここんところ、民主党政権の行く末に
いろいろな不明瞭要素が漂ってきています。
どうにもわからないのが、小沢幹事長に対する疑惑の一件。
繰り返し、このような疑惑が取り上げられてきているけれど、
これを主導している勢力はいったいどういうものなのでしょうか?
東京地検特捜部は、いったいどのような思惑でもって
小沢幹事長を狙っているのか、
どうにも不可解な気分がしています。
政治家というのは、多かれ少なかれお金の問題は避けて通れない部分だろうし、
職務権限を巡っての「受託収賄」というようなことであればいざ知らず、
そうでもなければ、その捜査意図はある程度、国民的理解が不可欠だと思う。
野党の指導者の時代でのお金の動きについて
いまの特捜部の問題の仕方に、奇異な印象を抱かざるを得ない。
小沢さんの疑惑については、選挙前に問題にされて
それに対して民主党の代表を降り、しかもそれをわかった上で
国民の選択としては民主党を選択したのが先の国民の民意。
そういうなかで、執拗にリークをし続けている
東京地検はなにを目的にしているのでしょうか?

この手の事件では、大手新聞社マスコミは
ほとんど主語のない「・・・が関係者の証言で明らかになった」
式の、地検側のリークだけを書き飛ばすのが常。
まことに不透明な世論誘導が行われてきている感じがしてなりません。
政治家に聖人君子のような潔癖性を多くの国民が求めているという
神話のような前提に立って、このように追求することのどこに、いま意味があるのだろうか?
小沢一郎という政治家を抹殺したいというのは、
誰の利益につながることなのか、
その辺をしっかり整理しながら、この展開は見ていかなければならないと思っている。

巨視的な視点で考えてみると、
小沢の師事する田中角栄のロッキード疑獄が思い起こされる。
あれは一体何だったのか。
あれはどうも、アメリカの思惑を越えて中国と手を結んだ
田中角栄に対する見せしめ的な疑獄事件だったのではないかと思われるのです。
民主党は、表向きはアメリカとの関係に配慮する姿勢を見せながら
どうも実態としては、日本としてアジア市場に
大きくスタンスを向けていく方向を見せていると思う。
アメリカという市場の先行きを考えれば無理からぬ選択でしょう。
小沢の対中・対韓姿勢を見ていると、
そのような方向性が透けて見えてくると思う。
そういうのに対して、既得権益の側から必死の権力闘争が仕掛けられているのではないか。
どうもそんなような気がしてきています。
まぁ、あまり根拠のない推測なのですが、
あまりにも既存の追い詰め方・リークという手法なので、
逆にすごく違和感を感じている次第なのです。
ちょっとこの問題、どういう風に展開していくのか、
注目していかなければなりませんね。






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中学バスケ部名古屋遠征

2010年01月10日 08時22分02秒 | Weblog




きのう朝、坊主が名古屋へ行きました。
中学校のバスケット部で、「全国のレベルを知る」という目的のため、
名古屋に練習のために遠征に行くのです。
あちらでは、練習試合も予定されているとかで、
まぁ、コテンパンに打ちのめされて帰ってくるものと心配しております(笑)。
中学校で、そんな遠征をするなんていうのはあまり聞かないそうで、
それだけに受け入れていただける練習相手の側では
「北海道からわざわざ来るなんて、よほどの強豪チーム???」
という間違いだらけの情報が伝わっているそうで、
きっと拍子抜けにびっくりするものと思います(笑)。

わが中学校では、
バスケットを教えてくれる先生が昨年はいなかったので、
坊主の年代の2年生は1年生の時、入部することができなかった。
その分、来ていただけた先生は大変熱心な熱血タイプで、
スパルタ的な指導方針の方で、
男の子たちには、大変楽しい体験をさせていただいているようです。
やはり男子は体育会系的な有無をいわせないスタイルが必要だと思います。
物わかりの良さそうな、優しさばかりでは人間教育にならない。
っていうことですが、
さて、どうなっていることやら、
ほぼ3日間、練習場と寝る場所との往復三昧だそうです。
名古屋は、坊主と愛知万博に行ったので、
多少は記憶があるかどうか、
05年だったのですが、いまそのころの写真を整理してみていて、
写真のような交通案内図がありました。
ちょうどトヨタの経営方針で作られた空港の開港直後だった気がします。
あれからほんの5年しか経っていないのですが、
あのような好景気を象徴するようなイベントは
もうちょっと、考えられないような気分が状況を覆っていますね。
やっぱり今の日本の気分は明らかにペシミズムに振れすぎていますね。
「もうこんな気分はイヤだ」というような動きが出てくる予感もしますね。







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中国国家との歴史的緊張関係

2010年01月09日 04時59分29秒 | Weblog




先日の岡田英弘さんの著作の続編です。
「倭国の時代」なんですが、
わたしにとっては、まさに目の覚めるような歴史観で、
古代史というものが、かなり明瞭に見えてくる部分がありました。
で、一貫しているのが、
アジア史全体の中で、中国皇帝権力というものとの
緊張関係という、アジア史の基本要因について
日本の伝統的歴史観はあまりにも触れてきていない、という視点です。
これはよくあるのですが、
江戸期の「鎖国」の影響がいまだに日本人の意識の基底にあるのでは?
と疑われるほどなのですが
海で国境が別れているという意識が強く存在する。
むしろ、古代人の朝鮮半島への出兵記録などを見れば、
その当時の人々の方が豊かでリアルな国際感覚を持っていたと思えるほどです。

北東アジア世界は、なぜ、ヨーロッパのように
各民族での独立国家的な方向に向かわずに、
「中原に鹿を追う」ような統一的皇帝専制権力構造に向かったのか?
中華、という世界観によって中国皇帝が世界を支配するという
まことに周辺民族にとって困る方向で歴史が推移してきた。
で、そのような強大な武力国家の脅威というのが
日本や朝鮮の歴史には色濃く反映しているのだという理解、
視点が絶対に欠かせないと思うのです。
朝鮮など、歴史的に常に中国との切迫した緊張関係にさらされてきた。
日本はまだ、そういう部分では直接的脅威が少なかったとは言える。
しかしそれは朝鮮との比較の問題であり、
とくに日本国家創成期、どうもそれは天皇の代でいえば
天智や天武の時期のようなのですが、
その時期までは、中国的な専制権力機構ではなかったものが
中国の脅威の中で、対応的に強い中央集権国家志向が高まったようなのです。
この時代、中国では超スーパー強大国家・唐が成立しており、
まさに日本の政治権力がそれにどう対応すべきか、
大きくゆれ動いていた時期なのですね。
白村江の敗戦、大化の改新や壬申の乱、近江令の制定など、
古代の動乱は、まさに唐との緊張関係の中で生起した事態だったのでしょう。
このような国際関係の把握が絶対に必要なのだと思います。

まぁ、日本人の心の中に
中国皇帝権力に対する嫌悪感、というのは相当に沈殿している
気分として、わたしたちには相続している部分はあるでしょうね(笑)。
ただ、現代のアメリカとの関係を想定すれば、
そういうなかで、なんとか切り抜けてやってきたのが歴史でもあるわけですね。
白村江の敗戦というのは、第2次大戦での敗戦と
同じくらい強烈な民族体験であったともいえる。
その敗戦の体験をなんとか切り抜けるために、
倭国から日本国という新たな体制を取った、という意味では
起点的な事態だったということ。
そのときに、いろいろな国内的な政治的思惑が複雑に絡み合って
古事記や日本書紀などの神話が便宜上作られた。
そういうものが、国家創成の経緯であって、
そのアンタッチャブルが今日まで続いている部分があるというのではないでしょうか。

まぁこのように整理した歴史観が見えてくると、
日本の社会のシステム整理にも、大きな知恵になってくると思います。







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北方日本の暖房の歴史_6

2010年01月08日 06時35分21秒 | Weblog




さてふたたび、暖房の歴史であります。
考えてみると、こういうふうに北海道の住宅に関連する
進化の歴史って、身近すぎて
振り返るような機縁がないように思います。
あまりにも即物的な事柄なので、より新しいものへの興味はあっても
過去の状況については、否定的な部分ばかりに目が行って
まっとうに意味合いを考えるということが少ない。

大体、35~6年前くらいの状況まで書いたのかなぁと思います。
で、わたし自身はそのあたりから8年間ほど
北海道をあとにして、東京暮らしをしておりまして、
大学・就職という事でございました。
その間にも、札幌でオリンピック冬季大会が開催されたりしたことで、
急速な都市化が進行していた時期だと思います。
帰省する度に街の変化の忙しさにびっくりしていた記憶があります。
で、8年経って札幌暮らしになったのですが、
その当時は賃貸住宅ですので、
きわめて一般的な暖房形式、固定式FF灯油ストーブですね。
マンション暮らししていた父母世帯も、
そっちは兄夫婦に譲って、ふたたび木造の兼用住宅の方に移っており、
そこでの暖房は、同様に固定式FF灯油ストーブでした。
まぁ、いろいろの試行錯誤はあったけれど、
結局は石油の安価さが、市場を席巻していたと言うところだと思います。
そして一部では、高断熱高気密という試みが継続していて、
そういった住宅ではセントラルヒーティングが普及してきていた状況だった。
いずれにせよ、暖房費というと石油タンク換算で語られるのが一般的な理解だった。
暖房機の名前だったか、融雪穖の名前だったか忘れましたが、
「トーユクワン」(灯油食わん)という直接的な名前もありましたね(笑)。
って、灯油食う、っていう言い方、北海道独特なのかも、
と最近感じていますが、どうなんでしょうか?

そういう状況のなかで石油ショックが襲ってくる。
はじめて、エネルギーには限界があるのだ、という実感を植え付けられた事態だった。
そこから、本格的に「省エネ」ということが大問題として浮上し、
北海道の住宅では、暖房費をいかに安くできるか、
ということから、住宅性能の向上が緊急の課題となってきたのです。
とにかく限りあるエネルギーをどうやったら低減化できるか、だったわけですね。
結局、こういうショックが一番効果的に事態を進めていくものなのでしょう。
室蘭工大の鎌田先生の一連の住宅性能向上の提案、
それをもとにした新住協の活動が始まったりした時期です。
北海道でも「北方型住宅」というコンセプトが打ち出されて
本格的なアプローチが開始されたのです。

そういった状況の中、
高断熱高気密住宅が普及しはじめる時期をとらえて、
灯油ストーブ・セントラルヒーティングの牙城を揺るがしはじめたのが
「オール電化住宅」というコンセプトでした。
高断熱高気密住宅で、燃焼機器を使うことはどうなのか、
ということが提起されたのですね。
以下、明日以降に。





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白村江の戦い

2010年01月07日 06時42分52秒 | Weblog




本日は「暖房の話」、ちょっと一休みさせてください(笑)。

歴史家・岡田英弘さんの著作を読み続けています。
っていっても、購入したのはもう10年以上前の文庫本で、
気が向いてから、寝る前の睡眠薬として活用してきたので(笑)
最近になってようやく、その本格的な部分が見えてきたという次第。
タイトルは「倭国の時代」です。
外国の、たとえばギリシャやローマの歴史などは
詳細なテレビ番組などになったりしていて、
かなり西洋の古代史の研究っていうのは進んでいますが、
中国の古代史と比較しても、どうも日本の古代史は、霞と闇の塊のようで、
天皇制という触れられない部分が関わらざるを得ないので、
スッキリと見えなくなっている部分が大きい。
しかし、たとえば白村江の戦いなど、
「日本国家」成立と深く関わっている時期の国際関係はかなり明瞭。
白村江の戦いって、中国に唐という超強大国家が出現し、
それと古代以来の部族連合的国家群との戦いだったと思われます。
朝鮮半島から日本列島にかけては、
古代的な部族国家がたくさん存在するような状況だったのではないか。
倭国の卑弥呼などの調整型権力というような存在が
この列島社会の伝統的な「王権」のありようだったと思います。
それに対して、明確な国家体制としての「律令」を持つ専制国家・唐が
軍事としても文化としても、圧倒的な威圧感をもって登場してきた。
そういうものに明確に敗戦したのが、白村江の戦いだった。
ときの天皇が九州北部に居を移し、実質的な宰相だった皇太子・天智天皇が
直接軍を指揮して戦って、敗戦したのですね。
「にぎたずにふなのりせんと・・・」という万葉の歌は、
この戦役に向かう軍船団の出航の様子を謳った戦争の歌なんですね。
この敗戦の結果、やはり進んだ律令国家体制をこの列島社会に作らなければ
唐に占領支配される、という強い危機感が支配層に充満した。
敗戦後、国防的な一連の処置を行ってからでなければ、
天智は即位もできなかった。
で、白村江の戦いをともに戦い破れた、百済からの難民を受け入れたのが
関東であったのですね。
そういえば、古代で関東の中心だった「毛野国」の豪族長とおぼしき人物が
白村江の戦いの指揮官として名前も見えている。
そして、天智の死後、天智の息子との武力衝突・壬申の乱によって
王権を得た弟・天武は、関東の武力を利用して勝利者になったといわれる。

このような光景が、どうも見えてきた。
岡田さんという方は、ずっとこういうスタンスで古代史を
説き続けてきているようです。
で、このような古代史の最大事件の周辺で、
「日本」という国家が目的的に創設されてきたのだ、というのが結論的な部分。
古代史というと、魏志倭人伝や、古事記・日本書紀だとかの
「ために創作した」と思われる記述に振り回されて、その記述解釈に
血道を上げているような傾向が強いなかで、
まさにクリアに見えてくるような著作だと、感銘いたしました次第です。
東アジア3カ国・日本・韓国・中国による
共同歴史研究って、きわめて大切だと思う次第です。
最近のNHK歴史番組などでも、たとえば元寇の元の撤退の真相分析など、
たいへん客観性に満ちた歴史が立ち現れてきています。
どうも、日本の歴史学会や認識が世界標準からはだいぶ、ずれていると感じます。
このような研究の一層の進展に期待したいと思います。

きのうから本格的な仕事が始まっていまして、
さっそく長期出張が始まりそうな様子なんですが、
きょうは久しぶりに爽快な歴史ロマンのお話しで、一服清涼感を感じています(笑)。
写真は、北海道中世の上ノ国の軍事集落再現模型です。
まぁ、昔から軍事と権力は一体のものですね。






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北方日本の暖房の歴史_5

2010年01月06日 05時25分46秒 | Weblog




1968年当時のわが家、
わたしが高校に入り立てのころなのですが、
そのころの暖房形式は、スチームによるセントラルヒーティングでした。
時代は高度成長期であり、暖房もどんどん変化していくことが
それがそのまま、北国社会の暮らしの豊かさの実現であったような気がします。
ただし、この暖房形式は初期のセントラルヒーティングで
配管の問題とか、技術水準がまだ十分ではなく、
頻繁なメンテナンスが必要であり、
やがてもっと体感的にもやさしく、目に見える暖かさも感じられる
輻射も考えられたFF式石油ストーブが主流になった。
従来の「温風吹き出し型」は、その「乾燥感」が嫌われたと思います。

わが家ではそういう選択になったのですが、
一般的にももちろんFF式石油ストーブが一般的な形式になりました。
しかし、一方でセントラルヒーティングも配管技術が向上し、
徐々にパネルによる輻射暖房として、
多くの支持を集めるようになります。
なんといっても、FF式石油ストーブが個別の居室暖房、局所暖房であるのに対して
セントラルヒーティングは基本的に全室暖房が可能になったのです。
それは、ブロック住宅の失敗から
もう一度、木造住宅の性能向上を目指しての試みだったのですね。
いわゆる「高断熱高気密」への本格的取り組みが始まって、
いろいろやってきた戸建て住宅の性能向上努力が実を結びつつあったのです。
しかし、わが家ではその当時の一般的風潮となっていた
札幌オリンピックを契機としたマンションブームに乗ってそれを購入しました。
折から地下鉄がわが家のすぐ近くに駅ができたので、
父は新築されたマンションを購入したのですね。
まぁ、その当時、居住用だけの戸建て住宅を建てようか、
という計画もあったのですが、
なかなか戸建て住宅の性能は、信頼感が薄かったのですね。
そのマンションでも、暖房は温水循環のセントラルヒーティングでした。
しばらくは、こうしたFF式石油ストーブとセントラルヒーティングの
並列的な状況が続いていたと思います。

さて、きのうは健康診断でした。
おかげさまで、特段の変調もなく
まぁ、やや太り気味で(笑)、そのへんの数値が一般値からはややオーバー気味。
っていうような状況でございました。
一方で、視力はやはり落ちてきているようですね。
老眼鏡が必須になってきたようです。
それでも0.4と0.8っていうことなので、まぁ、まだまだ。
ことしも健康には十分に留意して、頑張っていきたいと思います。





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北方日本の暖房の歴史_4

2010年01月05日 06時55分19秒 | Weblog



きのうはブロックで建てたもやし育成室の事を書きましたが、
はるかな後年、わたしが家を新築したとき、
なぜかブロックで家を建てる建築家と意気投合して
建てたとき、新築の祝いの席までそのことを忘れていて、
「なぜ、ブロックの家を建てたのか、そのわけは」
というお話しをする段になって、はじめてこの父の建てた育成室のことを思い出しました。
「あ、そうか、あの建物のことが記憶に刷り込まれていたのか」
と、不思議な邂逅感に包まれたことがあります。
まぁ、ブロックの家はその父の建てた当時、
北海道知事が北海道にふさわしい建築工法であると宣言して、
住宅金融公庫の融資、この工法にだけ認めるようにしていたほど。
三角屋根のブロック住宅の計画が進行していて、
郊外の新興住宅地には整然としたブロック住宅が供給され始めていたか、
そのちょっと前くらいだったのですね。
しかし、この工法は断熱をブロック駆体の内側で行っていたので、
致命的な内部結露を起こしてしまいました。
そういう失敗もあったほどなので、父の建てたブロック育成室の
建築技術的水準がどの程度であったのか、不明ですが、
やはり建築的には失敗だったものと思います。
わたしが建てたブロックの住まいは、その後の技術的進歩を反映して
外断熱工法を採用して、築後19年になりますが、
いまでも気密性能1.0cm2レベルを維持しています。

さて、暖房の歴史です(笑)。
どうしても住宅性能と密接に関わるテーマなので、
話も寄り道気味になってしまいます(笑)。
石油ストーブが一般的に普及し始めるころには
「セントラルヒーティング」という考え方も導入されるようになります。
わたしが高校1年のころに新築移転した工場併設住宅では
暖房はスチームによるセントラルヒーティングを採用していました。
熱源としては、工場の方の重油ボイラーを援用していたように思います。
この時期(1967年前後)としては、やはり最新の設備だった記憶があります。
本来であれば24時間連続運転すべきだったと思いますが、
やはり木造で建てた住まいの方は、住宅性能的に問題もあって、
連続運転ではさすがに燃料費がかさんだのではないかと思います。
朝、シュワシュワという、パイプの中を蒸気がいかにも通っている
っていう音とともに暖気がやって来るという装置でした。
この項、まだまだ、続きそうです。
明日も続くか、ちょっと休むか、あした乞う、ご期待(笑)。

さて、本日は年に一度の健康年貢の納め時、
健康診断であります。
さぁ、何を言われるか、ちょっと不安ですが、最近は健康そのものなので
まぁ、大丈夫だと思います。が、さて・・・。






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北方日本の暖房の歴史_3

2010年01月04日 07時30分28秒 | Weblog




石炭の暖房のことを書いていたら、
それはそのまま、北海道での冬の暮らしのスケッチになることに気付きます。
石炭収納庫は、たいてい戸外にあったのですが、
今日出没しているという「石油泥棒」のような
石炭泥棒みたいな話は、聞いたことがありませんでした。
石炭が、北国での生存維持の不可欠要素であることが
共通認識として共有されていて、最低限のルールが存在していた気がします。
残念ながら、社会としての倫理観、
人間社会としての住みやすさという意味では、
あのような不便な時代の方が、勝る部分もあったのかも知れません。

ともあれ、石炭の時代から石油の時代に
世界規模では小さな、地域社会にとって見ればきわめて大きかった
エネルギー変換が訪れてきます。
自動車の普及による石油製品の需要の増加が、
この石炭から石油への変換には大きい要素だったのでしょう。
圧倒的にコストが違っていたので、あっという間に市場は変化していった。
しかし、今日の価値観で考えれば、
同じような化石燃料の使用であり、であれば地産地消という観点からは
もう少しオリジナルな産業的工夫はありえなかったのか、
やや忸怩たるものを感じます。

ともあれ、石油に「ストーブ熱源」の位置は移り変わった。
石油ストーブでは、火力も大きく初期には温風吹き出し型のタイプが多かった。
より大きな面積の部屋を暖房することができたけれど、
すぐに、空気流動にともなう室内空気質も問題になってきた。
暖房に使用する燃焼用空気を外気から取り入れて
排気空気もすぐに外に出す、という「FF式」が当初から出荷されていた。
それまでの冬の暮らしを支えていた「煙突」が家から消えていった。
かわりに、主暖房室周辺に吸気と排気の丸い突起が露出していた。

この頃から同時に、住宅性能についての研究努力が始められた、
というか、一般にも普及が始まった。
暖かい住宅はどうしたらできるのか、ということが
暖房の問題と同時に、住宅それ自体の問題であるという「常識」が
北海道民の一般的理解として普及していったのですね。
ちょうどそのころ、わが家では食品製造業の家業の生産施設として
温室的な装置の新築を考えていたのですが、
足繁く建築工務店さんが出入りして、最新の建築工法を取り入れていた。
「ブロックの家っていうのがいいらしい」
というような会話が交わされていたのを記憶しています。
そして、実際にブロック造の「むろ」と呼ばれる工場が建てられました。
わが家では「もやし」を生産していたのですが、
その育成には、高温多湿な室内気候条件が求められる、
それも一定の常温的環境が不可欠だったのですね。
当然、建築としての性能条件と、暖房性能の安定性というものが求められた。
しかし、そういう技術的成熟はまだ、求めても研究開発されていなかった。
されていても、大規模な生産システムとしては実用レベルではなかったのです。
とくに暖房熱源については、試行錯誤が行われていた。
結局、練炭を七輪に入れて使っていたのです。
広い育成室をくまなく一定温度にするために多数の七輪暖房を行っていた。
2酸化炭素が発生するのだけれど、もやしのためには、
むしろそれを植物として吸収する、とも考えたのかどうか。
ともあれそのような工夫を行っていた。

もやしは冬季用の野菜であり、まさに暖房と建築性能が必須だったのですね。
しかしそれでもなかなか冬期、安定的な生産はできなかった。
どうしても不安定な育成プロセスを監視するために
父は、このような育成室で寝泊まりするようなことも多かった・・・。
まぁ、そういうことが健康を害することにつながってしまったのです。
このテーマ、なかなか簡単に書き飛ばせるものではありませんね(笑)。
明日も続くと思います。





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北方日本の暖房の歴史_2

2010年01月03日 06時29分13秒 | Weblog



石炭による暖房って、案外その寿命は短かったと言えるでしょう。
わたしの記憶では、昭和40年代にはすでに石油に
メインの位置を譲っていたように思う。
しかし、石炭による暖房は、道民気質というようなものを生み出すのに
大きな役割を担っていたと思います。
火力に変化があって、強まったり弱まったりする。
なので、始終見続けていなければならない。
そういうわけで、基本的には「ガンガン焚く」という方向に行きやすい(笑)。
家の中にはストーブは基本的に1台だけなので、
居間に家族が集中し、それ以前の「採暖」形式である囲炉裏と
さして変わらない光景が展開していた。
大体家族の座る位置も決まっていて、それ自体で家族の一体感を演出していた。
家長は石炭を焚く位置、石炭投入口に面した位置に座っていたと思う。
わが家では少なくとも、父がその位置にいた記憶がある。
家族の越冬を支える責任者、というような無言の表現があったように思う。
来客があると、家長から見て左手近くに来客が座って、
母はその対面側に座って、ストーブの上に掛けたやかんから湯を取って
お茶を入れたりしていたように思う。
そういう意味で、「家制度」をそこに映し出す装置でもあった。
団欒、という言葉の実質の光景がまざまざと展開していた。
家の中には厳しい温度差が存在していて、
暖房室以外は、寝室の機能を果たすだけで、
子どもの勉強もその周辺のちゃぶ台テーブルなどを利用していたと思う。
そういうことなので、自然、兄は弟の勉強を見る、という光景もあった。
寝室に寝に行くのには、結構な決心が必要で、
気合いを入れて布団に入る必要があった。
そのため、よく「湯たんぽ」を利用せざるを得なかった。
暖房性能的に言えば、局所暖房であり、
室内から燃焼空気を利用するため、外気からどんどん燃焼用空気を導入していた状態(笑)。
要するに、どんどんと「隙間風」が室内に入ってくる「低断熱・低気密」の家。
ストーブに当たっているカラダの表側は火照るほどに暑いけれど、
背中側は常に新鮮外気にさらされている実感があった。

そういう状況が屋根面軒先に巨大氷柱となって結果する。
また、暖房を切った朝方には、家中の水が凍結しているような光景を生み出す。
家風呂の水が、凍って盛り上がっているのは日常茶飯事。
水道はもちろん毎日水を落としておかなければ、凍結してしまう。
朝起きたら、まずはストーブに着火しなければ生活を始められない。
一方で、そういう住宅なので、室内に漬け物などを置いてあってもまず腐ると言うことはない。
それよりも白菜の漬け物など、上に張った氷を割る必要があった。
手を切るように冷たい水を扱いながら、
朝ご飯の支度に向かっていた母の背中を見ていた・・・。
カラダは布団の中でぬくもっているけれど、
顔の表面にはうっすらと氷が張っているようにも感じられた(笑)。
衣服は頭の上に整えて置いてあった、
布団の中から、気合いを入れて起き上がって即座に着替えなければ寒くてたまらなかった。

まぁ、いま考えたらびっくりするような暮らしぶりの毎日だったのですね。
しかし、そういう厳しい生活だったから、
より一層、家族という共同体の意識は高いレベルだったのでしょう。
お互いを気遣い、助け合っていくことが生活の必須条件だった。
わが家の場合、その上、家内制手工業で食べていたので、
そういう生活プラス、毎日の仕事が朝起きるとすぐに始まっていた。
まぁ、毎日戦場のまっただ中にいるような生活だったんですね。
まことに厳しい暮らしだけれど、
いま思い起こしてみると、甘美な記憶とともに思い起こされます。不思議ですね(笑)。

そんなような住宅と暖房の状況が、石油暖房に変わって、
大きく変化していくことになります。<以下、明日へ>






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北方日本の暖房の歴史_1

2010年01月02日 07時21分28秒 | Weblog




北国に暮らしていく以上、暖房とは切っても切れない関係。
しかし、わたしが住宅関係のことを仕事にし始めてからでも
その変遷ぶりは大変に激しい。
日本の伝統的民家では、北東アジア全般に広がっていた
「オンドル」という、地中に排煙ダクトを作って動物の糞を乾燥させたような
燃料を燃焼させ、その煙で床暖房的な暖房を取る方式は存在していなかった。
北海道にいて、そのことがなぜなのか、
どうしても理解できない部分があります。
北方日本では活発な北東アジア世界との交流があったけれど、
こと暖房に関しては、こういう先進性導入の事実は見られない。
「オンドル」はそれだけ高度な煙道製作技術が必要であり、
そういった高度な技術者は、北方交易には興味がなかったのでしょうか。
それとも朝鮮や、バイカル湖周辺の民族と、アムール川河口周辺の
北方民族では、民族文化を異にしていたということなのか。
このテーマも、しっかり確認したいと思っている次第です。
今日まで残っている北方民族としてのアイヌの住居では
平地に炉を切って囲炉裏暖房するという形式。
当然調理熱源としても活用するので、年中炊き続けるということだったにせよ、
なんとも原始的な暖房方式だったと思わざるを得ない。
こうしたアイヌの住居より、それより前のオホーツク文化人などの住宅の方が
きちんと竪穴を掘って地中熱を活用する工夫が見られるだけ
むしろ、住宅性能は良かったのではないかと思われます。
アイヌ期以前の住居では、調理にはきちんと「かまど」を製作しています。
かまどというものも、日本文化との交流を物語っているのだそうです。
その後のアイヌの住居の調理は日本からの交易品であった
金属製の鍋だったので、自在鉤で簡単に調理ができる利便性があり、
竪穴を掘るというような面倒な作業をだんだん、敬遠していったものなのでしょうね。
長期的耐久性よりも簡便な住居建築方法に移っていったのでしょう。

明治の開拓は、ひたすら寒冷地北米の様式の輸入が計られた。
はじめて開拓総設計士としてのケプロンさんが北海道に来たときに
持ち込んだとされる「ストーブ」が導入されたのですね。
北海道での炭坑の発見もアメリカ人たちの技術で行われた記録があります。
大量に発掘された石炭は、暖房用燃料としてストーブに活用された。
発掘技術も未発達だったのか、周辺の河川では
石炭が大量に流失して、周辺の人たちはタダで利用していたそうです。
そうでなくても、石炭は越冬用の暖房熱源として
非常に安価に北海道民に提供されていました。
各戸には「石炭庫」という外部物置が設置されていて、
無造作に石炭が貯蔵されていましたが、
特段、「石炭泥棒」というような被害は記憶にありません。
たぶん、それくらい安価に提供されていたと言えるでしょう。
北海道人の冬の暖房の強烈さ、家の中での冬場のビール消費量が全国一だという
統計に表れる北海道気質は、
こういった格安な燃料代がなせるものだったとも言えるかも知れませんね(笑)。
どうもこのテーマ、いろいろありそうなので、
また明日以降も触れたいと思います。
新年早々、さっそく連載ブログテーマ、スタートという次第です。






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