三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

安藤忠雄講演~感受性・自己責任

2015年04月20日 06時40分02秒 | Weblog

先週は、実にさまざまな体験・経験をしてきた。
整理整頓していかなければならないのですが、
長い時間のかかる、骨の折れることがらもあり、
徐々に取り組んでいきたいといまは考えています。
きっとそういう時期というのは、人生の中で何度かあるのでしょう。
ブログで書けない内容がいちばん大きいのですが、
そういう部分については、じっくり熟成させるしかないと思っています。

で、書けることとしては、やはり安藤さんの講演のこと。
ほかにもたくさんのテーマがあるのですが、
多くのみなさんが関心を持たれている建築家であり、
しかし北海道の立場としては、氏の作る断熱という概念のない建築が
あまりにももてはやされるのでは、困ってしまう。
そういった矛盾をはらんだ建築家だと思ってきました。
そういう意味で、敬して近づかないというスタンスしかないかもと
思ってきていたのが実際だったように思います。
氏の建築作品はいくつか体験もしているけれど、
いわば建築とはやや違いのある芸術作品的に感受していた。
たぶん、そういう種類のとらえ方で、そう間違いはないでしょう。
建築には芸術の要素が深くあって、このような志向性も理解はできる。
しかし、人類が遺し続けていく資産たり得るものとしての建築で、
コモンセンスということもまた、深く大切であり重要だと思います。

一方で、講演の中で、
氏の若い頃の、自らの感受性に投資するかのようにして
世界の名建築を実際に体験してきたという姿勢は、共感を強く持ちます。
それこそ「命がけ」で、見て、体験してくる中でしか、
捉えられないだろう、建築の本然の姿というものはあるでしょう。
建築を学校で学ぶのではなく、
自らの感受性で体験し、それを考える基本に置いて学んでいく姿勢は
気迫を感じさせられて、人としてリスペクトできるし清々しいと思います。
そういう体験の積み重ねの中から、むしろ日本を知るということに至る。
日本人的な感受性のとらえ方で、建築を作られてきたのでしょう。
そのことは良く理解出来る。
またいまの日本の現状に対する強い危機意識も深く共感できる。
中国やアジアの多くの人々、若者たちが「やってやる」という強い思いを持って
現状から飛躍しようと挑戦し続けているのに対して、
日本の若者、学生は寝ているし、社会もひたすら他責的な傾向に侵されている。
そんな社会に未来はないと思い定めているのは、まさに同意できます。

不勉強で、氏の住宅断熱についての意見は聞いたことがありません。
たぶん、安藤さんにとって建物の「断熱」ということは、
住む人間が考えるべき事柄だ、とでも言い切ってしまうのかも知れません。
氏の住宅作品の中のひとつの紹介で、公園に隣接した建物の施主が、
公園の古い木を切って新しい木を植えて、
自分が生きていく環境を自己責任で獲得すべく行動した、
その行為の違法性を公共から指摘された事例のように
生きていくために自分の責任において断熱を考え、暖房機器を選択し、
自己責任で、空間を管理していくべきだと思われているのかも知れません。
断熱ということをそのように捉えられているのかも知れないと
そんな印象を持ちました。
たしかに自分の建ててもらう建築に対して、ひたすら他責的な姿勢というのは
同意しにくいけれど、さりとて、断熱は建築者が無関心で良いことでもない。
以上、氏の書かれた文章とか不勉強だったので、
あくまでも氏の講演でのことばを聴いた範囲で
そこで得られた情報範囲で、感受したことを書いた次第です。


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義経時代の奥州藤原氏・北海道進出拠点

2015年04月19日 06時51分41秒 | Weblog


いろいろな事柄が同時進行していて
こころ的には多忙な毎日なのですが、不思議と落ち着きはある。
睡眠はたっぷりと取れているし、寝付きも良い。
きのうも、休日の1日、気になっていたひとを訪ねて
その様子を確認して、安心したりしていました。
なんですが、そんな時間を縫って、
歴史好きらしく、タイトルのような場所を探索して参りました。
上の写真は道央圏地域地図の現在と、「海進」状況であった1100年代頃を
想定しての比較であります。
その下に、比定地であるポイント図示を試みてみた次第。
現代の海岸線からは10km程度は奥まった内陸地点に存在していますが、
こういった「海進」状況を勘案してみると、
より実態状況の把握がしやすくなるのではないかと思います。
このように見る必要があるでしょうね。
下の写真は、比定地であるポイントの現在の外観図。
現在の地名で言うと、北海道厚真町宇という地域であります。

2170

縄文以来、日本の地域特性として、
海岸線での漁撈と後背地のブナの森が定住をもたらしたことを考え合わせると
たぶん、現在小高い山のようになっている場所は
平坦地になっている当時の海面からやや浮き上がった
陸地と海との境界になっていたことが想像できます。
たぶん、そうした地形は「ミサキ」という古語の実感に近く、
神が宿るに違いない地形と認識されていたと思われます。
そういった場所に、ひとびとの参集する拠点などは設定されたに違いない。
このポイントにも、現在でも神社が置かれており、
ひとびとの口コミ伝承的な知識としても、
ある霊性、あるいは由緒因縁のエリア認識があったのではと思います。
当然、1100年代のころの人々も、そのような認識を共有し、
この場所に、特別な意味合いを見出していたのではないか。
平泉に独立政権を樹立していた、北方出自と自己認識していた
「奥州藤原氏権力」が、北海道の檫文時代のひとびとと、
自らは鉄製品・自在鉤に下げる鉄鍋を主な交易品として提供して、
檫文からアイヌ文化への生活文化革命を促進させていた。
この鉄製品は、津軽地方で一時期盛んに生産されていた記録が残っている。
一方で北方からは、藤原氏側に、タカの羽根やアザラシの皮革などが
ヤマトの都びとたちの「高級需要」を満たす交易産品として提供されていた。
同時に、藤原氏は仏教王国という建国理念から、この地に
「経塚」を納めた。高級陶磁器である常滑焼容器に、末法思想から
救済される仏教の教えを記した経文を
数十億年後のひとびとをも救済する手段として地中に埋蔵した。
そのタイムカプセルが「不時に」50年前に発掘され、
つい最近、その出自と背景が解明されつつある、ということなのです。

まだ、学会の定説として確定するかどうか
わたしにはわからないのですが、最近読んでいる弘前大学・斉藤利男先生の
最新著作で、日本史の画期的発見として紹介されています。
そこから、上記のような想像力を膨らませて、
ワクワクするような妄想世界に耽溺させられている次第なのであります。
さて、どのような人々がこの地で、どんな交流を果たしていたのか、
そして、頼朝による藤原氏殲滅戦争の余波は、
この地にどのように影響を与えたのか、
藤原氏が保護していた「義経」は、このような北方交易ルートと
まったく無縁であったのか、
妄想はどんどんと湧き出てきて、止めがたいのです(笑)。・・・

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安藤忠雄に聞く~地方の生き残り~

2015年04月18日 06時14分59秒 | Weblog
ここんところ、いろいろな人と会っていまして、
それぞれに真剣に向き合っていると、なかなか骨が折れます。
そんななかですが、建築に関連する人間として
不勉強ですが、安藤忠雄さんというのは一度もお会いしたことも
お話しを聞いたこともない方でした。
コンクリート打ち放しの建築を作っていること、
家の中で移動するのに、雨の日には傘を差してトイレに行くような
そういう家を建てて、世の中を驚かせてきたことなど、
ほぼ断片的な知識・情報しか持ち合わせていませんでした。
ただ、世界的に高名になるにつれて、
氏の姿勢の弊害があちこちで出てきていることについては
一定の情報も持っていたと思いますし、建築としては
トマムの水の教会とか、先日観た秋田県立美術館などの体験があります。
一度はきちんとご意見を聞いてみたいと思っていたら、たまたま今回
札幌で講演会があると言うことでしたので、聞いてきました。
どうしようかと考えたのですが、
地域の住宅メディアとしての取材という申し入れはしませんでした。
そういうことなので、講演について
写真撮影や動画記録などは主催者側から禁止されていて、
そのルールに従って、一般的な講演聴講として聞いてきました。
ただ、個人としてではあれ、取材者として聞いていたので、
記録メモは取りながら、話を聞いていたいと思って
途中までは、詳細にメモを取っていたのですが、
途中、セビリア万博日本館のくだりで、講演写真がストップしたあたりから
アドリブでの安藤さんの話の方が面白くなってしまって
記録は途切れ途切れになってしまいました。

お話しのテーマ自体はたいへんにわかりやすく、
地方が生き延びていくのは、そこに責任を持つ人間の力しかない
という至極、当たり前のことだったように思います。
パッションや、人間の体験力の鈍磨について危機感を持たれ
日本の現状に強い危惧を持たれている様は
まことに共感させられるものでした。
以下に講演でのいくつかのキーワードを上げてみます。
1 日本を知る
2 考える力
3 組織力
4 発想力・持続力
5 総動員する
6 美意識を高めていく

建築家らしく、北海道という地域の生き残りには
この地域が持っている独自の美を、地域の人間が正しく捉え
それを活かして、世界に対して情報発信していく努力を重ねろ、
というようなメッセージが伝わってきたように感じました。
最後に近いあたりで、
いま、真駒内の墓地での仕事についての紹介がありました。
この墓地は、モアイ像が並べられたりしている墓地として
地域では「微妙な」立ち位置にある施設なのですが、
そこにある奈良にある大仏の等身大コピー大仏を
それまで露出させていたものを、
「土をかぶせて埋めましょう」と安藤さんは提案したのだそうです。
たぶん、安藤さんの力はここなんだろうなと思われました。
土で埋めて、アタマだけ地表に出す。
くりぬいた土の山を造作して、仏像部分だけはそのまま空気にさらす。
冬には雪が仏体を埋め込んでしまうかも知れない。
その北海道らしいありようの光景を、山の麓からトンネルを通って
ずっと足下だけを見させようやく仏体にめぐり会ったときには、
下から「仰ぎ見る」ように見上げる。
そういった「体験」を企画立案し、なお、実現できるように
そのプロジェクトが完成できるように、人を集め、知識を集め、
それこそ地域を「総動員」して、地域にパワーを付加していく。・・・
たぶん、安藤さんの「地域」へのメッセージは、
そういったあたりにあるのだろうなと、
面白く、また強い共感を持って聴いておりました。



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60代工務店オヤジ本音トーク 2

2015年04月17日 05時29分07秒 | Weblog
ということで、きのうからの続きであります。
工務店グループ・アース21例会での会員間意見交換会の様子2です。
なんですが、わたしの気まぐれでタイトルは微妙に変化した(笑)。
このタイトル、しばらく忘れていたのであります。
以前、こういう似たようなタイトルのメーリングリストをやっていた。
けっこう、みなさんのウケが良かったのを忘れていた。
まぁこれも、寄る年波の影響が大きいわけですが(笑)・・・。
きのうのアクセスはふたたび上昇傾向顕著でして
こんな「共感を呼ぶ」テーマにはみなさん、興味津々なようであります。
では、ランダムに出てきた悩み、つぶやき、愚痴その他たくさんを・・・。

「厚生年金とか、未加入でやってきたけれど、
加入しろという圧力が強まってきている。しかし、いまさら・・・とも思って・・・」
「次の人に会社は譲っているのだけれど、会社の方向性について
十分に定められていないと感じている。その部分は自分がやらねばと
思っているけれど、迷いが多い。
住宅についての国の方針というのが出てきて・・・」
「設備についてあれこれ考えさせられるように国は言ってくるけれど、
ハッキリ言って、ユーザーの幸せとは無関係だと思う」
「国が、やれ省CO2だとか、省エネだとかと誘導してくるけれど、
そういうのは、うまく利用すれば良いだけだと思う。断熱外皮重視で
ぶれずに作って行くのが正解だと思う。」
「仕事の受注状況はかんばしくはない、けれど、一方で人もいない。
事業承継では、娘がやりたいようなので、娘でもやっていける工務店
という路線で考えていきたいと思っている」
「すばらしい。今の時代、男性の草食化が激しく、活力を感じない。
一方で、女の人のバイタリティには脱帽させられる。
現場でも、大工さんたちも女子の言うことをよく聞いてくれるように思う」
「住宅づくり、注文住宅づくりはディテールでは圧倒的に女子力の世界。
顧客との関係性でも、その方向は正しいのではないかと思う。」
「住宅新築の需要は確実に減少していくだろうけれど、一方で
老健施設については、木造での需要がきわめて強い。」
「コンクリート製の老健施設では、人間性が疎外され人間関係も難しいけど、
木造だと、そういうストレスが少ないのだと思う」
「北海道内の地方では、こういった老健施設入居を首都圏などの高齢者に
アピールしていくのが面白いのではないか」
「十勝の上士幌は、若い世代の中学校までの医療費を無料にしている。
それが契機になって、人口増、若い世代が増えているのだそうだ」
「そうだ、税金はそういうようにタネ銭的に使っていくのが正しい」
「移住という契機を利用して、首都圏での人間疎外の暮らしから
地方での楽しい老健施設での逆転人生を提案するのもいいのではないか」

・・・最初は「いま、困っていること」という暗いテーマでの話し合いでしたが、
さすがに激動の昭和・平成を生きてきた60代。
最後の方ではすっかりアジテーション大会の様相を見せてきて
まさに談論風発、あいつの政策が悪い、
いや政策以前に、不倫問題などあきれてものも言えない議員だなど、
格調高く論議が活発化していき、ほぼ収拾不能の状態に突入(笑)。
やはり人間、怒りを持って社会正義を実現する目的意識が
正しい生き方を呼び起こすのだと、深く実感させられました。
60代からの本音、いかがでしょうか?

<写真は無関係。網走の北方民族資料館でのワンカット。
しかしなんとなく怒れる中高年オヤジに似合っている??(笑)>

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60歳以上工務店経営者の本音トーク-1

2015年04月16日 07時03分46秒 | Weblog
きのうの工務店グループ・アース21総会後の
「グループ討議」の様子。
「いま、困っていること」というテーマでの話し合いでした。
テーマ設定自体がまことに直接的で、話し合うことの意味合いは深い。
話し合いは前後2回に分かれていて、
1回目は「年代別」での話し合い。
わたしは63歳なので、60代以上グループに参加。
なんですが、みんなから「ホント、60歳以上なのかい」と
見た目とのギャップを指摘されていました(笑)。
申し訳ありません、若めに見えすぎるオーバー60ということで、
奇異の目にさらされ続けておりました(笑)。
以下、さまざまな意見・発言がランダムにありました。

「人手不足もあるし、経営の意欲も低下してきた。
たまたま公共事業の指定業者資格もあり
そこに他社から経営譲渡の申し入れもあって会社を譲渡した」
「全般的に高齢化してきていることが、経営的に問題になってきている」
「仕事上で直接困っていることはあまりないけれど、
なかなか後継者を決めることができずにいる。」
「なかなか会社にお金を貯めることができず、
50で辞めたかったけれど叶わず、60で辞めたかったけれどできず、
いまは75歳でなんとか辞めたいと考えている」
「仕事を辞めたら、自分は山の中に1軒家を建ててサカナ釣って
畑を作るような暮らしを夢見ていたけれど、
カミさんからは街中の方が良いと言われて、夢が破れつつある」
「みなさんのように仕事的に順調とは言えない。仕事が途切れていて
これまでのように顧客を獲得できずに、悩み、落ち込んできている。」
「渾身の力で提案してもお客様から受け入れられず、
もう自分の家づくりの考え方は通じないのではないかと
ややうつのような心情になってきている」
「提案要素と、柔軟に受け入れる要素のバランスが大切でないか。」
「顧客からは、年齢的に自分たちとは開きがあるので、
ずっとお付き合いしますと言われてと、引かれてしまう・・・」
「そういった部分については、グループ内で協同化というような方向も必要」
「自分には趣味らしい趣味もなく、働くことしかできない。
継続して働けるようにするにはどうしたらいいか、考えている」
「工務店の資産は、経営者が作ってきた家と建て主さんとの人間関係。
そういう目に見えない資産を、見える化して継承を考える必要がある」

などなど、たくさんの発言があり、
まことに身につまされる部分ばかりで、共感を持ちました。
しかし、いろいろな悩み事について、お互いに気遣って
アドバイスとも言えないけれど、いろいろな考え方を話し合いする中で
少し開かれた考え方が見えてきたりもしていました。
たぶん、そういう部分が話し合うことの意味、いや、
高齢者の「智恵」の部分なのだろうなと感じた次第です。
あしたは、また違う意見に基づいたテーマ展開を続けていきます。



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アース21総会2015

2015年04月15日 06時11分35秒 | Weblog
きのうは北海道の工務店グループ・アース21の
年に1度の総会に出席。
写真は、講演中のパッシブハウスジャパンの松尾さん。
主に健康と住宅性能という視点から、日本の住宅の問題点を
開示していただき、温暖地における住宅意識の啓蒙について
興味深い講演を聞くことができました。
松尾さんは、全国で講演されることが多いのですが、
わたし自身は旧知の方ですが、お話しを聞くのは初めてでしたので
ご意見をしっかり聞くことが出来てまことに有意義でした。
その後、懇親会では先日のドイツ国交省住宅政策担当官を招いての
国際セミナーで司会役を務められていた
北海道建築指導センターの山田理事長と、意見交換。
山田さんも、年に1度の総会には来賓として
あいさつされていた次第であります。
国際セミナーでは、ややもすれば誇大的に受け取られている
ドイツの住宅施策について、その実態も正直に開示されていて
いわば「等身大の交流」を先方も望んでいる実情も見えて
地域としての北海道の立ち位置についての
あたらしい想像力も垣間見えていました。
そうした流れを踏まえて、セミナーを起点とした
「北海道ードイツ」の住宅技術交流について
突っ込んだ意見交換をすることができました。
わたしどもの方でも、ようやく同時通訳の文章化のメドが立ってきたので
各方面と連携しながら、いろいろな可能性を掘り起こしていく
ひとつのきっかけにして行きたいと思っております。

その後、多くのみなさんと活発な意見交換、情報交流。
やはり、北海道でもフロントランナーといえるみなさんとの交流は
多くの気付きをもたらせてくれます。
もちろん、松尾さんとも楽しく意見交換しておりましたが、
なんと、氏はお酒がまったくダメということ。
でも、そういったことはまったく感じないほどリラックスした雰囲気で
貴重なお話しを聞くことが出来ました。
さて、本日は引き続き総会2日目の日程であります。
札幌市内での総会開催ですが、
わたしも会場のホテルに宿泊して参加しております。
札幌人なのに、札幌のホテルに泊まるというのはなんか、
お尻が落ち着かない感じではありますが、
取材、情報交換に努めていきたいと思います。




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散華

2015年04月14日 06時41分52秒 | Weblog
沖縄にいる娘から、久しぶりのLINEの便り。
まだサクラも咲いていない北海道の父母に
「今年最初の花火大会だよ」と知らせてきた次第。
人類が言葉をコミュニケーション手段として活用してから
紙に情報を書きしるしての手紙での交流の歴史は
郵便制度が始まって以来として考えて、日本で約150年くらい。
それ以前の飛脚による情報交換って、
たぶん、一般民衆には生活文化として存在しなかっただろうけれど
それも計算に入れて遡ってみても、しかし300年くらいでしょう。
そう考えると、コミュニケーション手段が、ITに置き換わってきた時代に
わたしたちはいま、過ごしていて、
こんなふうに情報交流できるようになったことは、
大変喜ばしく、また、もっと進化し続けていくのでしょうね。
手紙というような形式に囚われることは、たぶん、なくなっていくのでしょう。
変化は不変ということの方が確からしい、・・・しかし。

写真を見ていて、
高校の頃の友人の「現代の散華」という「現代詩」を思い出した。
学生運動華やかな時代で、わたしたちの高校で
扇動者・オルガナイザーをやっていたヤツがいて、
父母とも前衛芸術家という家庭環境でもあり、
学生運動もそのような芸術家としての素質の発露と見ていたが、
案の定、バリケード封鎖している学内の壁一面に
ある日、「現代の散華」という「現代詩」を書き殴って、出奔した。
その「壁新聞」のようなメッセージは、運動指導部からさっそく
ペンキで完璧に塗りつぶされてしまった。
でもそれはまさに、わたしたち友人たちへの「あばよ」という
「置き手紙」のようで、中身はもう憶えていないけれど、
強烈な印象は少年の日の記憶に深く残った。・・・
学生運動からの明瞭な逃亡宣言だったのだけれど、
ある種、「おお、ついにやったか」というような気分で、
そのことを受け入れたような気がしていました。
その上、かれの父母は駆け落ちして結ばれていたのだそうで、
かれもまた、高校生ながら、女子のある同級生と駆け落ち逃亡した・・・。
きっと、なにかのトラウマのように追体験してみたのか。
人はいろいろなしがらみのなかで、もがくように行動するけれど、
結局、ヤワな内面を抱えて、行き詰まってしまうこともある。
そういうことに、むしろ、強い共感にも似た心情を持っていたことに
最近になって、深く気付かされている・・・。
しょがないヤツだけれど、愛すべきヤツでもあった、みたいな。

なんか、ヘンなブログになってしまった(笑)。
単にたのしい花火の写真からの不埒な妄想であります、お許しください。

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五十嵐淳設計住宅見学in旭川

2015年04月13日 06時44分24秒 | Weblog
風邪からの体調回復最優先の日ではありましたが、
やはり住宅見学の機会があると、足が向いておりました。
北海道佐呂間在住の建築家・五十嵐淳さんの最新住宅見学会。
旭川市内での見学会と言うことで
往復でもだいたい5時間前後、夫婦で交代で運転すれば、
カラダもラクだろうと踏んで、行ってきた次第です。
見学会では、見知ったみなさんにたくさん出会いました。
風邪の末期なので、他のみなさんに移してはいけないと、
マスクを掛けていたのですが、まったく効果はないものですね。
人間、目だけでもけっこう判別されるものなのでしょうか?

いつもいろいろな建築設計手法で、ユニークな空間作りに挑戦している
五十嵐淳さんらしく、今回の住宅もごらんの通りの外観。
たくさんの積み木を市街地に広げてみました、といわんばかり。
積み木は、いろいろな大きさですが、
どうも見た感じでは、おおむね四角形のようです。
上の写真方向で一番大きな印象を与えるのは、隣居のボリューム。
住宅としてのボックスの大きさ、ボリューム感が小さくて
このような外観では、まったく「主張性」は消えていくかのようです。
敷地環境との対話という側面から見ると
下の写真方向の方が、わかりやすいかも知れません。



当初三角屋根ブロック住宅の集住形式の街が造成された一角。
時代変化を経て、あるいは一部が建て替えられたりしている。
そういった地域の角地の敷地にこの住宅は建っている。
ただ、住宅というボリューム感はイマイチ、持ちにくい。
そういう「違和感」こそが、作り手の仕掛けなのでしょうか?
ただ、外観だけ見ていると、「これはなんだろう?」
という素朴な疑問の方が強く感じられて、
近隣のみなさんと、どのような「関係性」が築かれていくのだろうか、
その部分に興味を覚えました。
たぶん、近隣の子どもたちにとっては、まことに突っ込みどころ。
公園の遊具の感覚に近い「建築」で、
ほどよい「高さ」なので、ちょっと上ってみたくなるような
そんな「誘引力」を持っているかも知れないな。という印象を持ちます。
五十嵐さんの作品はいろいろ取材掲載もしてきているので
そういった発展形として、予定的受容の範囲ではあるのですが、
計画を作って行く「手法」的な部分に興味があって質問してみました。
そうすると、外観的意図は別に、住宅内部側からの発想としては
「動線を最重視して計画しました」という答え。



それはわかりやすいなと思われました。
たくさんの積み木状ブロックがつながり合っているワケですが、
そのひとつひとつはシンプルな四角形ボックスであり、
それぞれに主目的が割り振られた空間になっている。
それぞれの用途に対して、空間としての機能性・光環境などは
まさに過不足なく満たし、居心地も考えられている。
とくに天井高さ・床の高低差は、メリハリが利くように各ボックスごとに
全然違う空間感覚になっている。
そのように配置された各ボックスが微妙な角度で
お互いに接続されている。
居間と想定されたボックスのとなりに、食堂ボックスがあり、
その先に寝室とおぼしきボックスがつなげられ、
食堂が「ハブ」になって、キッチン・お風呂・トイレとつながっている。
それらをつなぐための主要な決定要素として「動線」計画がある、
というのは、わかりやすい解題だと思った次第です。
家具なども含めて「配置計画」が決まったら、
その各機能の間を、居心地良く「移動していく」ためには、
おのずとこの「動線」になるだろうと計画し、そのように建築的に
「固定化」させてみた、というのが実質のようだと感じました。
見学客が多数でしたので、五十嵐さんに話を聞く、
聞き取り取材はこの程度しかできませんでした。
外観的なワケわからなさと内部計画的な簡明さ、ということで、
建築を再度見直してみるきっかけになる、面白い住宅でした。

断熱は壁で充填100~120mm+50mm板状断熱材付加、
基礎は板状断熱材外断熱、
屋根で板状断熱材150mmとされていました。
屋根は水勾配もない、完全フラット屋根。
サッシは一部で木製、ほかは樹脂製でした。
<とくに説明はなかったので、所員の方に聞き取りした次第>


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征夷大将軍と鎮守府将軍

2015年04月12日 07時13分34秒 | Weblog

きのう、わたしがずっと研究してきている北方日本の歴史についての
最新知見を満載した弘前大学の斉藤利男先生の著作の
読書感想を書いたら、以下のような反響がありました。

・奥州藤原氏といえば金が財源と言われていますが、
それだけではないはずですね。歴史の敗者ですから
勝者に都合の良いことが残っているはずですね。
斎藤先生の史観には興味をひかれます。

ということでしたが、まことにその通りであります。
そうでなくても日本語では、というか、
漢字文化圏では、一般的に負けると「敗北」と書いて、
けっして「敗南」とか、「敗東・敗西」などとは書きませんね(笑)。
だいたい北は負けるべき者にされてしまう傾向があるのか?
そもそも農業が広がると同時に、その記録のために
文字が発達したのだと言われますから、
当然のように北は荒蕪の地であり、
恵みの薄い方角であるとされる刷り込みが強いことを表していますね。

で、本題。わたしは北海道に住んでいるので、
その地域の「歴史」を掘り起こしていきたい興味がどうしても強い。
その願望にいちばん可能性があり得るのが、
この奥州藤原氏・平泉独立政権についての歴史経緯の発掘。
仕事で北海道から東北へと事業範囲を広げていった経緯もあって、
この平泉についての研究は、牛歩の歩みながら、
多くの知見ネットワークを、広げてきております。
きょうのテーマタイトルは、そんななかのひとつの大きな問題。
日本史で「将軍」というと、「征夷大将軍」というのが
歴史的な重さが強いけれど、その名詞の登場前後からのことを見ると
さまざまな「将軍号」があり、そのなかでも、
「鎮守府将軍」という号の方が、
すくなくとも鎌倉幕府以前で考えると、一般的だった可能性が高い。
奥州北部には日本国家権力が及んでいなかった時代、
陸奧守と鎮守府将軍は、兼任する例が多く、
それ以北のまつろわぬ民に対する武権として、
鎮守府が最前線軍管区として設置され、その長官としての
権力が、「鎮守府将軍」号であった。
そして、平家、関東、奥州と天下が三分されていた源平争乱期、
平家側から政治的懐柔策として
平泉側に、鎮守府将軍号が贈られることになったのです。
今回の著作を見ると、その「就任披露式典」が実に盛大に挙行されており
そのための権威付けのために城郭都市・平泉が
大きな堀の開削でショーアップ効果を上げただろう、土木工事跡の
発見についても開示されていました。
具体的な儀式での装束衣装の采配記録まで出土したとか。
関東に成立した頼朝と反乱軍団が、京都国家権力体系との
関係性をどうしていくか、決めかねていた源平争乱期に、
一方で、北方の平泉側にこのような政治的恩恵を与えていた。
その後、頼朝と国家への反乱軍団は、京都の政治的承認を得ることなく
この鎮守府を攻撃して殲滅し、
やがて「征夷」大将軍号を下賜され、鎌倉に「幕府」を開く。
違う見方をすれば、鎮守府将軍が「幕府」を開設する歴史も
日本にはあり得たかも知れないし、分権的な
状況がもう少し続き得たかも知れない。
なかなかに魅力的な歴史の断面が見えてくるワケなのです。



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平泉独立政権と北海道島

2015年04月11日 08時19分03秒 | Weblog
きのう、仙台から帰還しました。
なんとか体調も持って、無事にToDoは消化。
で、本日はその疲れを休めながら、
土日二日間で風邪からの完全復活に努めたいと思います。
本日は、ここんところ読み続けている斉藤利男 弘前大教授の著作
「平泉」の読書感想です。著者の斉藤先生のご自宅について、
記憶では住宅取材したことがあるはずなのですが、
それは歴史や考古学での先生の事跡を知る以前だったので
いまは、記憶が定かではありません。今度、しっかり取材記録を確認し、
先生にごあいさつしたいと考えています。
平泉の奥州藤原氏、それに先立つ安倍・清原氏、さらに
後代の「日の本将軍」を名乗ったといわれる安東氏などの
北方に成立した地方権力について、先生は興味深い研究をされています。
近著のこの「平泉」は、最新の知見が満載で深まりがすごい。
とくにその平泉政権、奥州藤原氏の北海道・厚真に設けられた
「交易管轄施設」とおぼしき遺跡発見に関連した部分で
ほとんど目が点になっておりました。
以下、北海道新聞に掲載された先生発信の関連情報を抜粋します。

「平泉」の文化史的意義~世界遺産登録決定によせて
~斉藤利男 弘前大教授のまとめ
独立政権と北方支配~栄華を支えた蝦夷ヶ島~
・・・奥州藤原氏が権力を生み出した秘密はどこにあったのか?
通常であれば,北奥の金と馬を商品として得た富と答える。
しかし,平泉政権を支えた地域はもうひとつあった。
それは,蝦夷ヶ島,現在の北海道である。
・・・最近,北海道胆振管内厚真町の宇隆1遺跡で,
常滑焼の壺が出土した。時期は常滑第Ⅱ期(1150~74年)で,
北海道発の発見。入手ルートは平泉経由と考えられる。
壺の形状と遺跡の立地から,この地に作られた経塚の外容器の
可能性が高いと判断されている。
厚真は室町時代に和人海商の交易拠点が形成された鵡川に近く,
北は富良野・上川,東は十勝から道東に通じる陸路の結節点である。
これらのことから,この地に平泉時代,平泉政権から派遣された
和人が居住し,おそらく現地の首長たちと共同して鷲羽や水豹皮を
恒常的に入手するための交易センターを設け,
仏教の普及にも努めていたと思われる。
平泉政権は,「交易」を通じて北海道の蝦夷の人々を
管轄した権力であった。厚真での常滑焼の壺の発見は
新しい平泉像を開かせてくれるものである。<抜粋ここまで>

いわゆる「考古的遺跡」というイメージとは違って
これは「歴史」という、なまなましい人間活動の痕跡が
この平安末期に北海道で営まれていた事実を伝えてくれている。
1150~74年といえば、源平の争乱時期に相当してくる。
そういう時代に、平泉の政権は、北海道島でこのような交易拠点を
継続的に維持していた証拠になるのです。
ついに、というか、北海道中世が、具体的な年号特定される
歴史事実の発掘に至るのではないかと、ワクワクしています。
この辺を突破口に、歴史としての北海道史が見えてくることを
この地に住む者として、期待している次第です。




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