三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【札幌円山自然林・オオウバユリ満開宣言】

2017年07月21日 05時56分26秒 | Weblog
毎朝の散歩路で見続けているオオウバユリ。
わたしのボケで、季節の記憶がいい加減だったので、
ことしはなかなか見当たらないと書いたりしていましたが、
まったくの杞憂で、いまや札幌円山自然林の里山的な森の中で、
無数に咲き乱れ、まさに群舞のような姿を見せてくれている。
この花は、ご覧のような面白い咲き方を見せてくれます。
すっくと高く立ち上がって、その先端部でいろいろな方向に花を伸ばしていく。
その先でユリらしい花弁がおちょぼ口のように開くのです。
この花はその球根部に養分が蓄えられて、食用に供される。
北海道での先住のアイヌの人たちにはきわめて貴重なデンプン質を提供する植物。
かれらの命を支えてきたソウルフードと言ってもいい。
以下、Wikkipediaの記述から要旨。

〜トゥレプの名で食用にされ、アイヌ民族が用いる植物質の食品の中では
穀物以上に重要な位置を占めていた。
旧暦4月をアイヌ語で「モキウタ」(すこしばかりウバユリを掘る月)、
5月を「シキウタ」(本格的にウバユリを掘る月)と呼び、この時期に女性達は
サラニプ(編み袋)と掘り棒を手に山野を廻り、オオウバユリの球根を集める。
集まった球根から、以下の方法で澱粉を採集する。
1 球根から茎と髭根を切り落とした後、鱗片を一枚一枚はがし、きれいに水洗いする。
2 鱗片を大きな桶に入れ、斧の刃の峰を杵がわりにして粘りが出るまで搗き潰す。
その後で桶に水を大量に注ぎ、2日ほど放置する。
3 数日経てば桶の水面には細かい繊維や皮のクズが浮き、底に澱粉が沈殿する。
繊維クズは「オントゥレプ」を作るために取り分ける。桶の底に溜まった澱粉のうち、
半液体状の「二番粉」と粉状の「一番粉」を分離する。
これら2種類の澱粉は乾燥して保存するが、その前に水溶きした一番粉を
イタドリやヨブスマソウなど、空洞になっている草の茎のなかに流し込み、
灰の中で蒸し焼きにしてくずきり状にして食べたり、二番粉を団子に丸めて
蕗やホオノキの葉で包んで灰の中で焼き、筋子や獣脂を添えて食べたりする。
乾燥して保存された澱粉のうち、日常使用されるのは二番粉である。
団子に加工しサヨ(粥)に入れる。一番粉は贈答用や薬用で普段は口にできない。
一番粉を水に溶いたものは下痢止めの薬として飲まれていた。
なお一連の澱粉採集作業の間、「酒」と「色事」に関する会話はタブー。
澱粉が落ち着かなくなり、うまく沈殿しなくなるという。〜

季節の呼称にまでこの植物が関わっている、ということなどを知って
この花に特別の思い入れを持っている次第なのです。
札幌の円山公園自然林は、札幌都市計画のごく初期から
自然保護林として指定されてきた経緯があって、
原札幌の植生がほぼそのままで維持され続けてきたのでしょう。
ただ、市内中心部の「北大植物園」内ではあまり見掛けない。
「やや湿り気のある林内、林縁に自生する」という条件がこの地域で
格好に満たされていると言うことなのでしょう。
このような自然保護を継続させてきた昔人に深く感謝の思いを持ちます。

と書いて、さきほど本日散歩してきたら、


というような状況で、一斉に花弁が落ちていました。
6割ほどはこういった様子になっていて、
まことに「花の命は短くて・・・」を実感させてくれますね。
かれらオオウバユリにして見れば、これから種子を結実させるのであって、
ここからが種の存続にとっていちばんの頑張りどころなのでしょうが、
見ている側、人間は勝手に花の美だけを求める。
まことに因果な存在ですね、人間という種は・・・。
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【チョー面白屏風絵発見 in ニセコリゾートZABORIN】

2017年07月20日 07時01分47秒 | Weblog


きのうは社員研修を兼ねて、ニセコ地区での活況な建築群探訪。
知人で以前、Replan誌で写真撮影の仕事を依頼していたイギリス人がいて
そのかれが、この地域で飲食店や高級リゾートホテルZABORINを経営している。
イギリスからオーストラリアに家族で移住した後、
かれは単身で日本にやってきて北海道で日本人女性と結婚して住み着いた。
・・・っていうようなことについては、また機会があれば。

で、そのかれのやっているホテルZABORINのフロント正面に写真のような
屏風絵を発見したのです。
たくさんの建物を探訪する過程での1物件で、
総勢20人弱の当社スタッフと同行だったので、詳細までは聞けなかった。
入手したのは古美術品商からということ。
断片的情報としてはこの絵の他に同じ6双の対の屏風絵の片方があること。
そっちの方には、画家のサインがあるようだということ。
それは倉庫にしまっているということでしたが、
どうも受け答えの感じではかれ自身は強い興味を持って関与していないようです。
なのでそれ以上は突っ込みようもなかったというところ。
でも、どう見てもこの屏風絵は面白い。
わたしは屏風絵についての深い知識があるわけではありませんが、
それにしても制作年代はやはり相当さかのぼるように思われる。
タッチは古来の大和絵の伝統的スタイルと思われるし、
なんといっても色彩の感覚がなかなかに素晴らしい。
きっと欧米人のかれには、美観的にハマったものかも知れません。
画題としては、蝦夷地へ戦争に負けた武家の一団<奥州藤原氏or義経?>
が落ち延びてきて海岸地帯で現地のアイヌ民族と遭遇した一場面。
こういった画題を屏風絵に描かせた人物がいたわけですが、
制作年代、その人物像、またその製作依頼意図、「取材」の状況など、
深々と興味を刺激されて止まなかった。
こういう画題はやはり蝦夷地についての興味を持った人物の想像だろうし、
まさか、この絵に描かれた武家に連なる人物が描かせたということはないだろうと
思いますが、万が一そうだとしたら、そのことについても想像が膨らむ。



屏風絵というのは制作にそれなりに費用が掛かり、
取材にしても、それなりのスケッチなどが必要だっただろうと思います。
さらに屏風絵の依頼者からの「画題の指示」があったでしょうから、
そのような画題を選んだ意図について、まことに興味が尽きない。
見る限りでは、平安末期〜鎌倉初期の日本国内戦争での敗者、
たとえば奥州藤原氏などが北海道に落ち延びてきて、
現地のアイヌの人々に対して道を尋ねているシーンと思われる。
他のスペースについて説明に忙しいので、支配人さんにこのようなことについて
質問していましたが、どうも残念ながら詳細知識はないようでした。
「この絵について詳細まで聞かれたことは初めてでした」ということで、
あまりみなさん興味を持っていないようですね(泣)。
まぁなんでも鑑定団の曜変天目のこともあるので、真贋がどうこうとまでは
不明ですが、贋作としてもその意図・背景が面白い。
どなたか、こうした画題の屏風絵について、知識や情報をお持ちの方に
コメントをいただければと思います。教えてください。
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【欧米から日本へ「建築家」概念の受容と変容】

2017年07月19日 05時23分38秒 | Weblog


東大建築学専攻による「もがく建築家 理論を語る」への書評第2弾です。
明治までの日本には職能としての「建築家」は存在しなかったといわれる。
大阪城都市は権力者・秀吉が建て、江戸城都市は家康が建設したとされる。
ただ、断片的にはやはり名が残ったりもしているだろうと思う。
戦国から江戸期に掛けての「築城家」という存在、たとえば藤堂高虎などは
歴史的にも、建築史にその名を残しているともいえる。
また江戸の街割りでの大名庭園の量産、その設計者としての
小堀遠州など総合的「建築プロデューサー」は存在したと思う。
わたし個人としては、沖縄の中村家住宅の始祖・賀氏さんに興味を持っている。
武将・築城家としてその名を沖縄の歴史にとどめる護佐丸(中城城主)が
読谷から城を移したとき、共にこの地にその「師匠」として移ったと伝えられる。
後世ペリーが横須賀に来る前に沖縄を訪れたときに、
その城壁組石やアーチ門などを見て、この民族は容易ならない建築技術を持っていると
日本社会に対して強い警戒心を持った記録もあるそうです。
かれは中城の築城家であって、その建てた住宅が沖縄を代表する
古建築であるというそういった経緯も見れば、近世的個人職能としての
建築家と呼称して差し支えないのではと思っています。
ただ基本的には都市や中核的建築は権力者自身がその設計を担うものであり、
一個人がそういった建築に名を残すことはない社会が日本では続いた。

一方欧米では都市や社会の「建築」に責任を持つ建築家という社会文化があった。
一種の芸術家であり、都市や建築についてのプロデューサー職能。
明治以降、そういうことから東京大学に「建築学科」が創設されて、
日本でもそういう職能を根付かせようとしてきたのだと思う。
その流れがあって、ようやく戦後の大量建設時代になって、
主に「公共建築」量産時代があり、そこで丹下健三さんなどが活躍された。
かれはモダニズム全盛時代に、戦争での荒廃からの社会復元、
新規再生のような時代に国家アーキテクトとして活躍した。
東京大学で建築を教え、多くの教え子を世に輩出した。
その後、公共から民間主導へと大型建築発注主体が変化して、
欧米的アーキテクトともまた違うニッポン的「建築家」像が一定存在した。
たぶんこの変わり目に於いて、社会全体への目配り、思想家としての
「建築家」から、より商業主義的な職能へと変化したのではないかと思われる。
国家や社会全体を見渡しての思想家から、資本の論理の先導者としての建築者へと
機能が大きく変更されたのではないかと思うのです。

東大工学部には伝統的に次代を担う人材への問答試験があると聞きます。
それは、東大工学部は国家を建設するという使命感の強制だと。
この東大建築学専攻による「もがく建築家 理論を語る」を読んで、
とくに磯崎新さんの世代において、東大安田講堂事件など
70年安保を契機として、吹き荒れた学生の反乱を経験して、
大きな断絶が存在したのではないかと気付かされました。
いくつかの事実がそこには記載されていましたが、
丹下健三さんへの弟子の建築家たちの「乗り越え」過程に
こういった消息が見え隠れしている気がしてなりません。
それがちょうど、国家プロジェクトとしての1964年東京オリンピックと同時進行した。
それが終わって以降、資本の論理による大規模建築が日本建築の主流になる。
読み進めていくうち、良くも悪くも、こういった経緯が容易に推量された。
この出版プロジェクトが、2020年国立競技場設計者に選任された
隈研吾さんが大きく関わって推進されていることに、符号も見る思いです。
その隈研吾は、建築家概念は「すでに賞味期限が過ぎている」と結論している。
ニッポン国としてはこういった流れの理解でいいと思うのですが、
しかしこの本ではまったく触れられていないけれど、
この間、一地方である北海道ではまったく違う社会的要請があり、
そのなかで性能進化を果たした地域建築人の動きも同時進行したと思っています。
こうした事柄について、次号のこの本「技術」篇で触れられるのかどうか、
注視していたいと思っている次第です。でも、取材対象は安藤忠雄さんか・・・。

<写真は報道発表資料、WEBから転載しました。>
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【東大建築学専攻 「もがく建築家、理論を考える」】

2017年07月18日 07時42分00秒 | Weblog


東京での出版広告関係の知人から、
「この本についての意見を知らせて欲しい」ということで、
写真のような本が送られてきていました。
1週間くらい前だと思いますが、昨夜から本日早朝にかけて、
ようやく読了できました。やった(笑)。
内容は、東京大学建築学専攻(略称T_ADS)という隈研吾さんと小淵祐介さん、
どちらも東大で教鞭を執られているふたりが中心になった企画。
「1945年の敗戦から、1964年の東京オリンピック、そして2020年の2回目の
東京オリンピック。このあいだの日本の建築は、あらゆる意味で近代の矛盾を
引き受けてきました。よく世界の人たちから
“日本の建築はどうしてこんなにおもしろいのか”と聞かれますが、
それは日本の建築がそれだけ矛盾にさらされて、矛盾の中でもがいてきたから。
そのもがき方がおもしろかったんだと思う。今回の企画では、
そのもがきの渦の中で戦った建築家たちの肉声を通じて、
日本建築のおもしろさを感じ取ってもらいたいと思います。(隈研吾)」
という趣旨がカバーに書かれています。
大きさは新書版の大きさでしかし、260ページで3cm近い厚さがあり、
装丁デザインのめずらしい工夫として、2枚目の写真のような帳合。
紙質もやや厚めで、見開きで開いてもきれいに2ページが読みやすい。
ちょっと面白い綴じ方だなぁと思いました。

東大の教授経験者を中心にして、
戦後の東大建築学の始祖として国立代々木競技場を設計した丹下健三を
軸線に据えながら、磯崎新、香山壽夫、藤森照信、大野秀敏、妹島和世、隈研吾の
6人の建築家に対して、このようなテーマで似合う作品を挙げてもらって、
その建築について作者自身が語り、そして建築の「理論」を
インタビューしていくという形式の本です。
というか、この企画自体はWEBでの全世界公開の無料オンライン講座が
タネ元のようで、詳細な様子が公開されているそうです。
「現代日本建築の四相」という講座のようで、現在はこの「理論」篇が公開されている。
面白そうなのでわたしも登録したのですが、まだよく確認できていない(泣)。

という次第で、わたしのような地方住宅雑誌ごときが
その内容についてあれこれ言うようなことではないと思われるのですが、
まぁせっかく送られてきたことだし、内容はすこぶる面白かった(笑)です。
個人的には、次号「技術」篇では安藤忠雄、難波和彦が登場するということなので、
そっちの方をぜひしっかり熟読したいものだと思っています。
モダニズムと日本文化の統合を果たした丹下健三を基本軸にして
それ以降の東大建築学を舞台にした日本建築の葛藤が、紹介されている。
その推移を論議レベルを下げることなく、一般にも伝えたいというのが趣旨とのこと。
なので、わたしのような人間にも縁があったのかも知れません。
いくつか、気付くこともあったのですが、明日以降、
それをテーマにして考えを整理して、いく篇か書いてみたいと思います。
きょうは、新住協の研修会で丸田絢子さんの話も聞きますので、
いろいろ考えも聞いてみたいと思ってもおります。
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【3万年前からの利用痕跡〜北海道白滝の黒曜石】

2017年07月17日 08時29分33秒 | Weblog



連休を利用しての遠出。きのうはずっと関心を持っていた、
石器時代から稀有の「黒曜石」産地として知られている北海道白滝探訪です。
白滝の黒曜石は、サハリン南部での遺跡でも発掘されたり、
新潟県でも発見されたりしている。石器時代の人類交易を物語るものとして
しばしば、考古や歴史のなかで大きなインパクトを持つ地名。
以下に、黒曜石の要旨をWikkipedia等から抜粋します。
〜黒曜石というのは、動物をハンティングするときにトドメを刺す決定的要素道具。
火成岩の一種。黒緑色でガラス質。割れ目は貝がら状。装飾用・印材・文鎮などにする。
石器時代には、やじり・刃物などの材料にした。
刃物として使える鋭さを持つ黒曜石は、金属器を持たない民にとって重要な資源であった。
現にヨーロッパ人の来訪まで鉄を持たずに文明を発展させた南アメリカは、
15世紀頃まで黒曜石を使用していた。メキシコのアステカ文明などでは
マカナなどの武器を作り、人身御供で生贄の身体に使う祭祀用ナイフもつくっていた。
一説にはアステカが強大な軍事力で周辺部族を征服し帝国を作れたのは、
この黒曜石の鉱脈を豊富に掌握していたからだともいう。〜

で、北海道産出のなかでもチョー有名な白滝の黒曜石について
一度、その様子を知りたいと思っていたのです。
おおむね30,000年ほどの黒曜石利用痕跡が確認できるのだそうです。
この白滝のジオパークは、オホーツク方面と旭川道央を結ぶ高規格道路の
工事の結果、たくさんの考古出土があって、一気に解析が進んだということ。
皮肉ですが、そういう自然破壊があらたな知見を掘り起こしてもくれる。
興味深い展示施設でさらに学芸員で所長の松村愉文さんからお話しを伺ったりと
まことに充実した見学をすることができました。感謝。

わたしが一番興味深いと思っているのは、この白滝産の黒曜石が
遠隔地まで運ばれている事実と、その方法・手段について。
石器時代には、それこそ生活に必要なほとんどのものが石でまかなわれた。
動物を捕らえる最後の決め手は、この黒曜石の鋭利さだったでしょう。
また、その獲物から肉を削いで皮革を利用するにも、
切断や刮ぎ取るなどの利器として、黒曜石は決定的だった。
そういう道具についての繊細な感性を石器時代のひとびとは持っていただろう。
だからこそ、この白滝の石が遠くまで運ばれて、交換された。
来て見ると、やはり地形的にオホーツク海にそそぐ湧別川が流れている。
この川流域からは点々と黒曜石の摩耗石が見られることから、
自然観察が生存の大きな部分であった石器時代人には容易に黒曜石産地として
この地域が特定され得ただろうとのこと。
いまのような温暖期ではない石器時代には、この周辺には森林はまばらで、
容易に黒曜石「露頭」も視認できただろうとされていました。
さらにこの地から同じように川を伝って、内陸部、十勝方面へも
交通ルートがあったと想定されている。
この地にはサハリン方面から進出してきた狩猟採集民、オホーツク文化人も
その道具として黒曜石を採掘していたとも推定される。
基本的には「遊動」が行動原理であった時代の人々にとって、
広域的に狩猟して回ることは、ライフスタイルでもあったのでしょう。
まことに興味の尽きない、雄大な時間を超えたジオパーク見学でした。
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【建築は都市のOS、釧路と毛綱毅曠MOO】

2017年07月16日 07時07分54秒 | Weblog
いま読み進めている「東京大学建築学専攻」編の
「もがく建築家、理論を考える」という「建築理論」的な本の中に
西洋には建築を都市環境形成のオペレーティングシステム(OS)とする考えがある、
というように書かれていて、ある種納得させられていた。
ただ、そういう考え方は西洋に限られた伝統とも言えないのでは、
あるいは、秀吉の大阪城とか京都都市の再編とか、
東アジアでの都市造りにもそういった考え方は広範にあるように思います。
またそもそも都市というのは、旧石器時代にもあったとされていて、
その形成の過程では、人々が集まるための建築は中心的な役割を果たしてきた。
都市というのは、その中心施設がシンボリックに印象を占有する。
そういうものなのだろうと思います。

釧路の街を想起するときに、
この写真のように、「幣舞橋」から複合型商業施設MOOを見る視点は
毎朝のローカルテレビ局の定型パターン。
たぶん、そういう「ランドマーク」的な意味合いが都市の個性に
非常に大きな影響力があることは誰しも自明だろうと思われます。
この建物は、釧路出身の建築家・毛綱毅曠の設計として有名。
地元出身で当時前衛的建築家として華々しく活躍を見せていたかれに
地域の都市として、釧路市は大きな希望を見出したことは間違いない。
釧路市にはかれの生家である「反住器」という建物をはじめ、
その設計になる建築は多く遺されている。
毛綱毅曠(1941年-2001年)。日本建築学会賞作品賞など多数受賞。
釧路に取材ではじめて訪問したとき、この「反住器」に伺って
急な申し入れにもかかわらず毛綱さんのお母さんからOKいただいたりした。
毛綱という名字は、長州藩士として代々「馬廻り役」だった家系伝承をあらわし、
「毛利家の手綱を持つもの」という由来だと聞いた。
北海道で旧長州藩士の家がどのように暮らしていたのかまでは聞き漏らした。
ただ、そういう家系意識が毛綱さんにまるで維新期の高杉晋作のように
自分自身を社会の「前衛的存在」たらんとさせた部分が
あったであろうことは、十分に推測させられた。
結局未発表に終わったその写真はいまも、ストックとして保存してある。
一度だけ電話でお話ししたけれど、屈託のなさそうな話しぶりに好印象も持った。
それ以来、自分としては好きな建築家だったのだけれど、
今の時代で言えば、あまりにも若くして毛綱さんは亡くなった。
残されたMOOは決して順風とは言えない経緯をたどりながら、
いまも、この街の象徴的存在としてあり続けている。
いまでもきわめて個性的なその外観は若々しく、挑戦的に立っている。
この建物を見てたたずむとき、
幸多き建築であれと、願い続けてきている。そこから先はわからない。
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【釧路廃屋凝視 & Facebook「いいね」感謝】

2017年07月15日 09時56分59秒 | Weblog
故あって、本日は釧路にて朝を迎えております。
きのう終業後、カミさんと弾丸ツアー交代運転旅です。
しばらく釧路まで足を伸ばすのはなかったのですが、
いまは道東道が、「阿寒」まで伸びていますので、
札幌の事務所・自宅から阿寒まではおおむね300km。
そこから市内中心部までは26kmというナビ案内でした。
ほとんど渋滞のない道東道ですので、案外と疲れは感じない。
夕方6時ちょっと前に事務所を出て、釧路の急遽取ったホテル到着は夜10時。
休み休みではありますが、渋滞・信号待ちの中心部走行もありますから
まぁまぁ、こんなドライブは北海道ではごく一般的かも知れません。
ただ、年齢からすると頑張りすぎのスケジュールかなぁ(笑)。
本州地区の方からすると、1日掛けても行かない距離かもですね。
で、けさは釧路市中心部・幣舞橋周辺まで散歩していました。
年とともに、写真のような廃屋に視線が向かって仕方ありません。
こういうフェッチをなんと説明すればいいのか、よくわかりません。
自分自身も加齢してきて、その歳月感が身に染みているから、
このようなくたびれてなお、という状態を観察することに
ある種、「戦友」を見るかのような心情に満たされると言うことか。
ただ、釧路はご存知のように北海道でも地震の多発地帯。
この建物はそうした土地の素性をそのままに表現してもいるのですが、
やはり正視すれば、これは崩壊の危険が差し迫っている。
ガレージシャッターの1階部分はたぶん、耐震壁量が不足していて、
画面左側に斜屈してみえる。
こういう状態で地震を迎えれば、倒壊の危険が高いように、
わたしのような耐震構造素人の目にも見える。
全国の旧中心市街地の、とくに1階の壁量の少ない商業建築に、
こういった「空き家」は多いように思います。みんなで正視しなければなりませんね。




<Facebook投稿への「いいね」、46日で4,000増加>
今週初め、ふたたび三度、Facebookから写真のようなメッセージ。
どうも頻繁に来るようになると、それなりに気になってくる(笑)。
そのあたりが、Facebookの深層心理的作戦だろうとは推測できるのですが、
たわいなくも思わず、前回のメッセージとの経過日数を計算してしまっていた。
前回は5月27日にこの「いいね」84,000というのが来ていました。
なので、46日で4,000という数字になっている。
1日あたりの「いいね」は86.9回という計算になります。
多いのか少ないのか、ふつうなのか、まったくわからないけれど、
多くのみなさんの声は、もっと頑張れという叱咤と受け止め、
これからも情報発信、頑張っていきたいと思います。どうぞよろしく。
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【居住と遊動〜丸木舟とクルマ、家】

2017年07月14日 05時58分38秒 | Weblog


やや不鮮明で恐縮ですが、上の写真は、先般東京で見学した写真博物館で
Fujiフィルムの方からいただいた「横浜写真」集パンフレットから。
幕末〜明治のころに来日して横浜で欧米からの来日観光客相手に
英国人カメラマンがはじめた「日本土産」ブロマイドの中の一写真。
きっと当時の巨大な撮影装置を担いだり移動手段に乗せたりして、
日本各地を移動しながら、その「風俗」を記録していた。
そういうなかで北海道まで来て、アイヌのひとたちの風俗を撮影したようです。
写真を撮られるということの緊張感も多少はあるだろうし、
初めて見るだろう紅毛人たちへの好奇の表情も写っている。
写真を撮る側も取られる側もおたがい、未知との遭遇感があって興味深い。
・・・のですが、やはりハレの舞台のようで
家と丸木舟をワンセットで、誇らしげに見せよう、撮影しようという
両方の意識が画面から伝わってくる気がします。
そうなんです、家と同時にかれらアイヌの暮らしの誇らしいアイデンティティとして
丸木舟という移動手段はあったのだろうと思います。
考古的にかれらの暮らしぶりを学び続けてきて、
活発な「交易民」であるかれらにとって、移動手段はまさにプライドそのもの。

わたしは住宅の雑誌を作って、その周辺で生きてきた人間ですが、
一方でその必要性からも、いろいろな土地に「移動」する生活をしてきました。
まぁ現代人なら、ごく普通のことではありますが。
わたしが生きた60数年の中でも、この北海道島でも移動交通網は大きく変遷した。
広域的に活動できるようになったのには高速道路網の整備などが大きかった。
すぐにでも気軽に出掛けられる現代的移動手段、クルマは
この写真のアイヌの人たちの丸木舟と同様機能だろうと気付きます。
対比の意味でわが家と2台のクルマの様子の写真を(笑)。

人間が定住する生活に移行したのは1万数千年。
列島社会は比較的早くに石器時代から狩猟採集だけれど
「定住」であった縄文という時代に移行した。
それ以前の人間行動様式は、ほぼ「遊動」的な暮らし方。
遊動するためにはその手段が不可欠であり、歩行の他に有力な手段として
この丸木舟のような水上交通は、普遍的に存在した。
そもそもアフリカから出発した現生人類7万年の歴史では、
その最大事業は、地球上の全大陸に進出したこととされています。
そんなことを考えていると遊動の方が、居住よりも
より本能的な人間欲求の根源に近いのではないかと思える。
現代でも投資額でいえば、住宅とクルマの比重はどっちかといえば
クルマの方が、買い換え続けるという意味ではより大きい。
わたし自身で考えても、自宅は1軒だけ建てたけれど、
クルマは単価としては費用は1/10程度かも知れないけれど、
人生で10台近くは購入もしてきた。
そのことにまったく悔いも感じていないし、今後も投資はありつづける。
人間と家、移動手段の相互関係、きわめて面白そうだと思っています。
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【教会をアートに改装〜リノベが作る不思議空間】

2017年07月13日 07時39分17秒 | Weblog



先週日曜日に訪れた札幌近郊・由仁町のショップです。
ベヌー・ギャラリーアンドカフェ (BENNU Gallery&Cafe) というお店。
BENNU 由仁町三川722番地 0123-87-3929
イギリス人陶芸家:ケイト・ポムフレットさんという方がやっているお店だそうです。
芸術センスのある方で、3枚目の写真は建物敷地の中で
ウエルカムで来客を歓ばせるために置かれたオブジェ。
根曲がりの木を見つけてきて、それに足をつけたり、
彩色したりして、ありえない造形を作っていた。
カラダ部分を見たらなんとなくイヌのようだけれど、
アタマや顔の部分を見るとニワトリのようでもある、面白いアイドルペット的造形。
で、この造形表現からは、あるものを活かしてそれに手を加えて
まったく違う表現物とするというコンセプトが伝わってくる。
で、この建物の由来をお店の人に聞いてみたのですが、
ご主人の陶芸家:ケイト・ポムフレットさんは不在で、
頼まれてお店を切り盛りしている方の断片的な発言を整理すると、
この建物は地元にオーナーのいる借り上げ物件。
もとの建築用途は「教会建築」であったということ。
それを陶芸家:ケイト・ポムフレットさんが「自由に改装してもいい」という条件で
借り上げ、店舗内装、外装を自由にリノベーションした建物ということ。
カフェ機能もあり、また作品展示販売機能も持っている。

たまたま、東京大学出版会から発売予定の
「もがく建築家、理論を考える」という本の販促、拡散方法を聞かれ
その本を読んでいる最中で、
リフォーム・リノベーションについての妹島和世さんの発言を読んでいたところ。
妹島和世さんは犬島という瀬戸内海の小島で
「島全体が美術館」というようなコンセプトでのプロジェクトが進展中とのこと。
そのなかで、島全体の古家も街並みも、道路空間も
全部を含めての再生利用というか、アート化プロジェクトのように捉えられていた。
発想の中に、街全体、島全体としての「環境」再構築という部分を感じる。
その全体デザインのなかから、個別の住宅への用途視線があり、
それらが協調しあって、人間環境を構築するという視点があった。
ひるがえって、現代の戸建て住宅群が構成する住宅街というものが、
未来へ引き継がれていくと考えたとき、リフォーム・リノベーションという
営為の意味合いは、きわめて大きいと再認識させられますね。
現代の戸建て住宅ははたして永続可能なのかという大問題もあるし、
人間は家に直接は住んでいるけれど、同時に「街やムラ」に住んでいる。
そういう意味での「環境」をも考えるのが、現代、求められている気もする。
リフォーム・リノベーションは両方の視線が必要なのでしょう。

そんな視線から、イギリス人陶芸家:ケイト・ポムフレットさんの
建築用途の変更、そのためのデザイン再構成を見させていただいていた。
建築的に見れば、温熱的に見ればどうなのよ、という点はある。
けれど、アーティストとしての建物への愛情は感じさせられる。
現代居住環境サスティナビリティの具体的取り組みがリフォーム・リノベーション。
ということで、北海道由仁と瀬戸内・犬島のふたつから考えてみた次第。

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【カンロ、アジウリもしくはマクワウリという名の果実】

2017年07月12日 06時10分25秒 | Weblog
わたしの両親は生まれは農家でして、
父親は現在岩見沢市に編入された「栗沢町上幌」という土地で農家を営んでいた。
母親は、三笠市いちきしりという土地での農家。
どちらも北海道の中では栽培型農業の盛んな地域にあたる。
北海道移民農家は、出身地での農業技術を基盤として、
それぞれ工夫を凝らして生産作物を考えていたと聞いています。
結婚して以降は、ふたりで協力して「ゆりね」などの希少商品を生産したとのこと。
戦前〜戦後初期にあたる時代で、農協組織が成熟していなかった。
なので自分で栽培した「ゆりね」の他に周辺農家でも栽培してもらって
それを一定数量にして大阪や東京の「市場」に専用借上げ貨車で出荷したという。
生産から出荷、販売まで全部手掛けていたという。
市場で一定の「生産地ブランド」にもなったという家族伝承もあります。
まぁ、そういうある意味「投機」的な商品生産・販売をしていたので、
いっとき、商品価格暴落危機を経験したりもしたようです。

っていうような血の「記憶」が刷り込まれている部分があり、
北海道のこの地域周辺の農業地帯での出荷作物には
ノスタルジックな思いを持つものがあります。
まぁ「ゆりね」などもそうではあるのですが、
個人的にはこの写真の「かんろ」、一般名は「アジウリ」、いや、
Wikkipediaで見たら「マクワウリ」という名前の方が通りがいいそうですが、
そんな名前は一度も北海道では聞いたことがない(笑)。
この果実が、わたしの大好物なのであります。
でもいま調べたらマクワウリというのは美濃国真桑地方名産の由来名なので、
わたしの母親の生家出身地域に近いようですね、新発見。
個人史的には、この果実の食味はカラダの奥深く感応記憶が鮮烈。
生まれ育った土地の記憶にかかわっているのではと推測。
というのはわたしは、旧「栗沢町上幌」での生活は生まれて3年しかない。
この幼少期記憶は当然定かではない部分があって、
こういう「味覚体験」「皮膚感覚」くらいしか残っていないのです。
いまでも「野焼き」の匂いにはチョー敏感だったりする。
が、結婚してからカミさんはこの「かんろ」にはなんの興味も示さない(泣)。
ただただ、わたしひとりで食べ続けてきた(笑)。
なので子どもたちの食味感覚には、カミさんの嗜好を反映して
ほとんど存在していない。このDNA嗜好操作。あぁくやしい(笑)。
ということで、日曜日出身地と似通った地域性のある長沼の農家ショップで
このかんろをゲットしてきて、ひとりだけでさみしく楽しんだ。
変わることのない食感を与えてくれ、随喜の涙を流しておりました(笑)。
あ、この表現ももはや死語かなぁ?

本日はごく個人的嗜好ネタで恐縮です。
あしたは、きちんと住宅ネタに復帰しますのでよろしく(笑)。
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