三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【鎌倉時代の建築仕事を伝えるメディア】

2019年08月21日 07時46分51秒 | Weblog


大好きできわめて貴重な民族資産だと思っているものに
「春日権現験記」があります。
1309年(延慶2年)に時の左大臣・西園寺公衡の発案で、
宮廷絵所の長・高階隆兼によって描かれ、春日大社に奉納された。
<最高峰の大和絵で描かれた社寺縁起絵巻の代表作であると同時に、
全巻が揃い、制作者が判明していることや、
当時の風俗が細かく描かれていることなどから、日本の中世を知る
貴重な歴史的資料とみなされている>というものです。その目的は、
<藤原氏一門の繁栄を祈願するために春日明神から受けた加護と霊験を綴った
絵巻物であり、詞書の執筆は鷹司基忠とその息子・冬平、良信(興福寺学僧)
冬基の3兄弟が担当し、編集は興福寺の学僧・覚円(西園寺公衡の弟)>
絹本著色、巻子装、全20巻(他に目録1巻)、三の丸尚蔵館所蔵。
春日大社なので、藤原氏一族の繁栄ぶりを誇るものとして
その当時の最高技術を結集した建築の詳細工事の模様を
かなり克明に「メディア化」した一級資料になっている。
700年前当時の大工職人さんを中心にした人間の生々しい表情が活写される。
絹本という、絹地に着色するという形式で描かれている。
そもそも絹地であり、それ自体が相当に高価なもの。
<絵画史上きわめて貴重な作品であるとして2004年から15か年計画で、
原本の全面的な解体修理と調査が行なわれている。
表紙裂の復元には、一般種の繭から作った絹糸では太すぎて風合いが
出せないため、天皇家が育てている古代種繭の「小石丸」を使用。>
と記述されているように、民族の宝物として現代技術の粋を傾けている。

わたしどもは住宅雑誌・WEBメディアを業としているワケですが
とくに建築が表現されている絵画部分について
そのはるかな先達として、仰ぎ見るような思いを抱く次第です。
大工仕事というのは体技技能としてカラダで伝承させるものであり、
絵画として具体的なイメージをもって「伝えられる」のはまことに稀有。
ここで描かれている大工さんや職人さんたちの体技、表情などから
まことにたくさんの「情報」を受け取ることができます。
デジタル時代になって、こうした情報資産が容易に共有されることは、
本当に素晴らしいことだと思われます。
この700年前の表現者のみなさんは、主に「大和絵」という
ツールを使って現代にまで貴重な情報をくださっているのですが、
現代では基本的には「写真」という媒介をつかって
わたしたちは日々、建築を「伝えよう」としている。
この表現を見ていると藤原氏の氏神礼賛という目的を遙かに超越して、
時代の空気感が直にカラダに伝わってくる思いにうたれる。
先人たちの息づかいに深く目を凝らされております(笑)。
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【204〜419年前 ご先祖さまからのメッセージ】

2019年08月20日 07時26分21秒 | Weblog


本日はわたしの「歴史好き」の機縁になっている家系伝承テーマ。
本来の住宅ネタはお休み。あしからずお許しください。
写真はわたしの家系に伝わっている希少な「書き物」。
文化12年乙亥4月という日付が記載されているので、
1815年4月というように特定できる。今から204年前。
世情は幕末で、活発に外国船が日本に来るようになっている時期で、
北前船交易で高田屋嘉兵衛さんが活躍した時代。
わたしのご先祖さまは尾道周辺で商家として活動していた。

で、わたしはいまは「三木」姓ですが、
江戸期までの日本社会は「家」は必ずしも血縁関係がすべてではない。
むしろ家の存続のために活発に「養子」とか「縁組み」がされていた。
なんと、1742年頃に原氏から「三木氏」に縁組みされているようです。
そういった経緯から、著述者である「三木寛蔵」さんが、
その血族として本来の縁である「原氏」の故地を探訪するために
下の写真のような位置関係で旅をして、そのときに見聞した記録を
後のわたしたちのために書き置きしてくれた書状なのです。
距離的には45km前後なので、往復と調査でたぶん4-5日程度の旅程でしょうか。
ちなみに書き手の寛蔵さんは年齢45歳なので歩いて1日の距離。
その記録で期日は明瞭ではないけれど、「慶長年中」に
「故あって」この探訪目的地・広島市河内町入野に入植したという記述。
慶長という年代はちょうど関ヶ原合戦が慶長5年(1600年)にあたる。
江戸時代というのは徳川の武家政権の時代であって、
こういう「お上」の支配する時代にあって「故あって」と書くのは
ふつうに考えれば、書き記すのに「憚って」ということと想像できる。
「往昔、紀州にて仕官たるところ」と書かれている。
この当時の紀州は豊臣秀長領で、代官桑山氏が実質領主の時代。
一応は縁も強いから表面的には西軍側だろうけれど、
主人・秀長亡き後、城代としては特段そのような思い入れはなかっただろう。
関ヶ原では桑山氏は東西両端を持していたことが容易に想像できる。
たぶん政治工作がうまくいって東軍側とされて生き残っている。
しかしわがご先祖はたぶん西軍側に「派遣され」その後、
勝った東軍側に転換した主家の方針から
自動的に「切り捨てられた」というような経緯が想像できる。
このような複雑な「経緯」すべてふくめて「故あって」と記載したのでは。
その後、入植した入野でそれほどの時間経過もなく「庄屋」になっている。
桑山さんから「退職・手切れ金」がそこそこ得られた可能性がある・・・。

っていうような、妄想をかき立てられる書状(笑)。
しかし妄想ではあっても、子孫としては有為転変の状況に
先祖がどのように対応してきたか、大いに想像力を刺激されている次第です。
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【WEB時代の「情報とメディア」変化の必然】

2019年08月19日 06時38分21秒 | Weblog
表題のようなことが、いま大きなテーマになって来ていると思います。
WEBの生成・発展のプロセスはそれこそリアルタイムで
わたしのビジネス環境として経験してきたことです。
業務にパソコンが導入されて、そのように仕事環境が再構築されていった、
そういった「導入期」を経て、その後はWEBという情報流通手段が発達した。
そういう環境にいち早く対応したいということで、
わたしは、既存の新聞やテレビという情報摂取スタイルから
WEBでの情報接触を中心にして、体感的に対応しようと考えた。
早々に新聞の購読をやめたり、テレビについてはもっと前から
そういう情報接触手段としては時間を大きく減らしてきた。
たぶんそういう「情報環境」になってからでも20年近くなっている。
こういう環境になってみていちばん気付くのは、
少なくとも日々の情報の中で大きな領域である政治・時事については、
WEB環境によって大きく社会が変動してきたということ。
つい先日もアメリカのトランプ大統領が韓国訪問に際して
北朝鮮の金正恩にTwitterだけの情報発信で「呼びかけて」
「近くまで来たから、顔を見せろや」的なノリで急遽、板門店で会談した。
国際政治情報でもWEBによる情報対応が、既存のメディア濾過されたものより
はるかに直接的に現実を動かし影響することを露わにしたと思う。
国際政治的にはトランプには「現状維持」が作戦であり、
金正恩個人の内面に「くさび」を打ち込んで、暴発させずに
確実な経済制裁によって北朝鮮が変化せざるを得ない状況に追い込んでいる。
そういった「対話」戦略に、Twitterが効果的に機能したのだろう。
こういった情報戦の「変化」に対して政治時事を主要な興味分野としている
既存の新聞メディアは対応できず影響を及ぼすこともできなかった。
既存の「思潮訴求型」メディアでは現実を捕捉できないことが浮き彫りになった。

WEBでは、まずはポータル・yahooなどの「トップページ」で
全体でのクリック数の多寡などによって「選別された」情報が提供される。
「いかに端的に伝えるか」に特化した「見出し」から情報接触が始まる。
<これは興味深い日本語の変化をもたらしてもいる>
このとき、ふつう情報提供先が朝日新聞か産経新聞かは、ほぼ顧慮されない。
そこから自分の「知りたい」内容に適合した「WEB情報取得」が始まる。
そういう個人の「情報接触傾向」はデータとして処理されて
「あなたへのオススメ」という情報項目がその下段に情報提供されている。
よく、WEB時代になって「社会の分断」が進行していると言われる実質は
こういったAI的な情報選択過程が反映されたその社会的表現なのだと思う。

ただ、こういった各自の「情報メディア」企業にとって、
主要な経済的構造は既存の紙メディア「販売」とその広告価値でしょう。
そのための広い意味での「広報拡散」としてWEB利用があるのだけれど、
どうしてもそこからの収益という構造がみえないままで来ている。
WEB課金というところでほぼ直帰するケースが多いのが現実。
全世界でメディア企業が直面している最大のネックなのだろうと思う。
しかし、ではこういう情報提供メディアがなくなった場合、
WEBの情報世界は大きく毀損するだろうことも見えてくる。
情報を掘り起こし、その意味を多くのひとに「伝える」仕事には
それを可能にするための「コスト」が絶対的にかかるのだ。
現状の情報提供環境では、このコスト循環構造が達成されていない。
21世紀はじめという現代での大きな問題としてこのことはあると思う。
巨大化した恐竜が地球環境変化に対応できず絶滅し、より小型の恒温動物である
哺乳類が地上を制覇したようにメディアも変化から逃れられないのでしょう。
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【人が映らない駅写真が撮れる 「地域材タモ壁」の旭川】

2019年08月18日 09時01分12秒 | Weblog


写真は2011年、オープンしたての頃に撮影していたJR旭川駅舎の内部。
平成29年度の統計では1日乗降客数が10,558人とのこと。
ちなみに北海道内のベスト15駅は以下で、旭川は全体の15位。
順位駅名乗降客数(人/日)
1位札幌19万5304人
2位新千歳空港3万2242人
3位手稲3万1178人
4位新札幌2万8534人
5位琴似2万3354人
6位桑園2万0590人
7位小樽1万8112人
8位千歳1万7498人
9位白石1万6154人
10位北広島1万5154人
11位大麻1万4470人
12位恵庭1万4460人
13位野幌1万3256人
14位星置1万2552人
15位旭川1万0558人
<「国土数値情報(駅別乗降客数データ)」(国土交通省国土政策局・平成29年度)>

単純に乗降客数だけが交通路線の重要度を表すものではないけれど、
経営として考えれば、そういう要素でしか収入サイズを想定できない。
人口規模の大きな地域ではその内部で相互に移動することが多くなる。
それに対して、地方では「わざわざ」しか移動しない。
まぁ通常はほとんどクルマでの移動が主体になってしまうのは仕方がない。
たぶん、駅舎の大きさとしては札幌とも遜色がないほどですが、
人の移動のための施設・駅舎内を撮影しているのに人が映り込まないことが可能。
首都圏で言えばボリューム的にはターミナル駅に相当するのに
乗降客数では前橋(10,682人)くらいに相当するようです。
しかし、日本最北の基幹的交通ネットワーク拠点という意味合いは大きい。
ちなみに新幹線のある秋田とか、山形もちょっと多いくらいなので、
人口条件的には、健闘している感じでしょうか。
将来的には新幹線の開通も視野に入れて構想された駅舎。
そういうことなので、駅のデザインという面では素晴らしい。
積雪荷重を支え巨大な「開口」を持ちながら、なお「暖かく迎える」
といったデザイン意図を強く感じさせてくれている。
鉄骨フレームの幾何形状が巨大な屋根を支えているプラットホームは
一昨日写真でご紹介しましたが、本日は動線各所で
「木の街」旭川にふさわしい木質デザインの駅舎内部の様子。
1枚目の写真は1階の改札から上のプラットホームに上がるための
広いエントランス空間ですが、壁面一杯にタモの木が貼られている。
こんな指標があるかどうか知りませんが、
一人あたりの内装「感受」面積は、まことに広大ですね(笑)。まさに目に贅沢。

毎日、巨大利用者数の駅でゴミゴミ感を味わっているみなさんには
たまにこういう広大無辺感をぜひ味わっていただければと思っております。
まさに「でっかいどう・北海道」そのものかと。
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【ニッポン的な公共空間 産土神・拝殿建築】

2019年08月17日 08時52分45秒 | Weblog


きのうの続篇ブログであります。
この写真の「英賀神社」については、数回取り上げてきています。
播州のこの「英賀」は、夢前川河口に位置していて
地域一帯がわたしの家系の伝承に連なっていると考えています。
ときどき出張や旅行で訪れる機会があり、
そのたびにこの「拝殿」をたのしく見学させていただいています。
いまは、たぶん建築基準法上からの判断で不適と見なされ、
建て替え工事が行われ、先日「建前」が行われたと地元の議員さんの
ブログで紹介されておりました。
秋の例大祭でのお披露目を目指して急ピッチで工事進捗しているようです。

北海道人というのは、こういった「産土神」というような生活文化を
ほとんど感じないで育ってきている。
神さまというのが、もともとその地を開拓した伝承に基づいている産土信仰、
そういった感覚からはまったくほど遠い。
神社もそれこそ官製の「北海道神宮」など、戦前に国家が建立した
そういった存在しか、北海道人としては馴染みがない。
そういう理解に対して、この英賀に来てはじめて「産土」ということを
はじめて知らされる思いが強いのです。
とくにこの「拝殿」建築は、内部に入ると絵馬堂という機能も持っている。
絵馬というのは、北海道ではいきなり近現代の小さな絵馬しか想像しない。
地域社会から寸志が寄せられていわば「公共」として
大きい絵馬を奉納するというようなことがこの英賀では連綿と行われている。
日本の歴史とともに長くそういう民衆的な価値感が継続してきている。
一方北海道では地域社会が歴史が浅いためにいきなり現代的な契約概念的で
いわば地生えの「パブリック」というものが存在しない。
官製の神社としてしか存在しないように思うのです。

そういう近現代の「常識」的価値感からすると、
自然発生的なパブリックの意思が歴史的に継続しているというのは、
大いに驚かされ、また深くリスペクトを感じさせられる。
掲額されている絵馬群のいかにも大衆的な絵柄、わかりやすさにも
「ニッポン的地生え民主主義」みたいなものを感じさせられる。
たしかに戦前の一時期、国家神道のようなカタチで産土神も編入されて
変容させられた一時期はあったのだけれど、
それをただただ全否定していては、ニッポンの民衆の歩みも見えなくなる。
こういった神社仏閣がニッポン的「公共」社会のきわめて重要な
ファクターでもあったのだということが見えてくる。
単純に「政教分離という一神教」理解では、歴史も見失うと思えます。
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【風洞型建築2題 旭川駅と姫路英賀神社拝殿】

2019年08月16日 07時21分29秒 | Weblog


きのうも1日、義母の遺品の整理整頓作業をやっておりました。
っていうか、こういう作業は男はほとんど役に立たず、
ひたすらカミさんと娘の女子軍団。
で、わたしは付き添い&食事作り役に専念しておりました。

で、その間、前からやらなければと考えて休み期間中継続している
大量の「取材写真」類の大整理を継続しておりました。
デジカメやiPhoneのカメラ機能に写真撮影ということが移行して
それからでももう20年近く経っていますが、
だいたい年に20〜30箇所以上で自分自身の「強い興味」のままに
写真を撮り続けてきています。
ありがたいことに、そういう写真類がパソコンというツールで
保存され続けているワケですね。
写真類を一部は修正などもかけて整理整頓しているのです。
そういった記録が可能になってきて、それで気付くことというのがある。
そうです、自分自身の興味というものが明瞭に浮かび上がってくる。
やはり建築というもの、古今の建物についてっていうか、
その中でもある特定の領域について強い興味のありかが見える。
本日写真でピックアップしたのは、そのなかでも2011年に撮影していた2件。
ひとつは兵庫県姫路市南西部の「英賀神社」の拝殿と、
もうひとつは北海道旭川駅(設計/内藤廣)であります。
なぜか、この2題への「強い印象」というものに気付いた次第。
旭川駅は、移動交通手段の発達した現代をリアルに表現している。
撮影の時にはそう強く感じていなかったのですが、
建築としての駅というものを考えたときには
まさに風洞型建築ということが明瞭に伝わってきた。
移動交通手段である列車の移動を確保するためには大開口が不可欠。
一方で豪雪地域である旭川では積雪をどう考えるか、がキモでしょう。
そうすると、全体を囲う屋根とその架構の力学的検討がまずあって、
その内部でのひとの受け止め方を考えていくことになる。
いかにも力学構造から導き出された鉄骨フレームがコンクリート構造と
緊結されて、大屋根を保持させている様子が窺われる。
そういう力学表現が写真のように展開している。
旭川ではこのプラットホームから降りていく空間で木質が「出迎え」ている。
そっちはまた別のこととして、この架構ぶりについて、
つい最近まで建っていた英賀神社拝殿との共通性に気付いた。
旭川駅では列車が移動する風洞だけれど、
この英賀神社拝殿は、ひとが移動参集する風洞として機能してきていた。
(この拝殿は現在は建て替えられる予定)
こういった機能としての「拝殿」そのものは、
日本に根付いた機能性建築としてたくさんあると思うのですが、
この英賀では、そうしてできた屋根が大きく掛けられていて
その「見上げ」可能な空間一杯に「掲額」が奉納され続けてきた。
たぶん、氏子たちが歴史年代を通じて年に1度、プレゼントし続けてきた。
絵のテーマはそれこそ時代背景のままのようで、
キッチュな大衆的表現がまことにたのしくさせてくれていた。
<そのうち一挙公開いたします(笑)>

機能性と建築表現としては似たようなふたつの建築、
さて「優れている」のはどっちなのかなぁと、
ややイジワル気味に(笑)、対比させてみたくなった次第。
あ、いや、内藤さんのつくった駅も大好きなんですよ、ホント。
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【畑の中に葉っぱのドーム住宅発見!】

2019年08月15日 07時27分20秒 | Weblog


ことしの札幌・北海道の夏は比較的に好転に恵まれています。
8月の大2週からやや涼しくなってきて、高温はやや落ち着いてきましたが、
それでも今年の夏は久しぶりの暑さに恵まれている。

ということで畑の作物は順調な生育状況のようです。
わが家でもことしは夕張メロンとか楽しんでおります。
価格が安くて、おいしいというウレシイ夏なのであります。
そんなある日、郊外の長沼町を走っていてふと、
畑の中に大きなドームを発見しました。
職業柄か、一見してこれぞ「自然派住宅」の究極ではないかと
一瞬にして強い感動に包まれてしまっていた・・・。
しかしそんなバカなことがあるワケはないだろう、じゃぁなんだあれ?
わたしは3歳までは農家を営む家に育っていたとはいえ、
そこから先はずっと札幌の街育ち。
丸3年程度の「体験」では記憶に刷り込まれるまでは行っていない。
ただ、空気感とかでかすかかすかに体験記憶が刺激される程度。
まぁ、いつの時期なのかはわからないけれど、
「野焼き」の匂いにはひどく感覚が揺さぶられることがある。
しかしその程度で、視覚体験的には畑風景は記憶がない。
なので、写真のような葉っぱドームも初めて見た。
深く興味を刺激されて、こころのなかで許しを請いながら
畑にぐっと近づいてカメラでやや遠目にして、
ファインダーを見て驚かされた。
カボチャが宙に浮かんでいる、まるでランプかよ、であります。
恥ずかしながら、カボチャはあの重さなので畑にゴロンと
寝そべって育っているに違いないとこの歳まで思っていた。
って、普通はやはり地べたに寝転ばせて育てるのが一般的。
こういうふうに育てるのは「立体栽培」という手法なんだそうであります。
メリットとしては病害に強くなるということですが、
それにしても支柱を立てて行く必要があるので、手間がかかる。
ふーむであります。
野次馬シロウトとしては、この結果ドーム構造にも大きく惹かれた。
畑の中なので、許諾を取れなかったのですが、
ぜひこのドームの中を体験してみたいと強く思った。
目をこらしてみてみると、途中からは長なすのようなヤツが
ぶら下がっている様も見えた。
あれはいったいなんだろうと、激しく好奇心が突き動かされる。

今度一度、農家の方にお願いしてあの中を体験してみたい。
なんとなく自然住宅そのものという気もするのであります(笑)。
あのなかで夏の暑い盛りにベッドを置いて寝そべってみたい。
それこそ、カボチャが照明か星のようで楽しいのではないでしょうか?
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【ほっかいどう夏の味覚「トウキビ」4品種味比べ】

2019年08月14日 06時47分39秒 | Weblog


昨日はことし亡くなった義母の供養、墓参り。
ごく近親だけでしたが、ワイワイと都合6回ほどわたしが
「私度僧」役で般若心経を唱え上げておりました。
わたしの父母が死んだ,30年前くらいによく唱えているウチに
自然と暗唱できるようになったのであります。
そういうことなので、小さいときから墓参りで耳にしていた娘などは
「人間は大人になったら般若心経は自然と唱えられるようになる」と
固く信じていたのだそうです(笑)。
誤解させた身の不始末を嘆いている次第(笑)。

なんですが、本日のテーマはトウキビであります。
面倒なので標準語の「トウモロコシ」ではなく「トウキビ」にします。
先般一度、ほっかいどうの味覚として取り上げて、
けっこうな(笑)反響をいただきましたが、
先日ふと市場で、いろいろな品種のトウキビが売られていたので、
「おお、こんなにあるのか」と驚かされてつい購入。
それを「味比べ」する企画を立案してしまった。
農家ではないので、トウキビの品種については無頓着でした。
そういえばそばについても「ではかおり」品種のおいしさを実感したし、
いろいろな食品で品種改良努力は継続しているのだと再認識のおり、
こういった気付きの機会があったというところでしょう。
「どれがいちばんおいしいの?」
「う〜〜ん、う〜〜ん」
「どれがいちばん甘いの?」
「それは味甘〜みかん〜ちゃんかな」<写真の左から2番目>
「つぶが白いのはどれさ?」
「味甘ちゃんとロイシーコーン<左端>」
「黄色いのは?」
「ゴールドラッシュ<左から3番目>とおおもの<右端>」
というおおまかな概略であります。
つぶの白っぽいタイプが概して甘味が強いタイプのようです。
じゃぁ、黄色い方はどういった特徴があるのさ、といったところ。
ということで例によって皮を最後の一枚だけ残して茹で上げてみた。
やや邪道かもしれませんが、包丁で断面切りにしてみた。
味比べの結果、やはり甘み自体は味甘ちゃんがいちばんかも知れません。
しかし、同じ甘味の強いロイシーコーンの方が
1箇1箇の「つぶ」の皮膚が強い感じがします。
トウキビの食べ方で、わたし自身は1箇1箇のツブを本体から「バラして」
食べるというエレガントな食べ方が好みなのですが、
そういう食べ方では味甘ちゃんはきちんと本体から離れる確率が
ほぼ20-30%失敗する。
それに比較するとロイシーコーンの方は10%程度の失敗確率。
失敗するとつぶがペシャッと破壊してしまうのですね。
どうも甘み系はそういう腰の弱さが気になるということのようです。
一方、黄色みのタイプの方では、腰が強くてほぼ失敗はない。
「おおもの」では、やはりツブは大きめですが、
糖度と腰の良さ、そしてトウキビ独特の「味わい」では、
ゴールドラッシュがやや、優勢のように感じました。
・・・って、一般的に多く流通しているのはゴールドラッシュだそうで、
図らずも、市場の評価そのままであるということでした。

しかし、こうやって活発に品種改良を重ねているって、
北海道の底力のように思えてなんだかうれしい。
さらに競争レベルを高めていってほしいですね。
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【ムダなくエネルギー利用 囲炉裏上の「火棚」】

2019年08月13日 05時50分17秒 | Weblog



石器時代までの狩猟採集生活から、定住が始められたのは
農耕の開始時期が措定され、日本列島では縄文時代からとされる。
縄文時代は約16,000年前ころからというのがほぼ定説。
住居の歴史と考えれば定住以降を基本ととらえるべきでしょう。
この長い人類の「定住生活」にとって竪穴住居は基本的な住環境。
平安期くらい、つい1000年前までは基本的に竪穴住宅。
16,000年前以降のライフスタイルのなかでは、
竪穴のなかで暮らしてきたのが一般的だといえる。
そのなかでのくらしで囲炉裏は生き延びてきた最重要な設備。

囲炉裏は暖房装置であり、同時に煮炊きの基本装置。
人類の空間適温環境と食という生活の屋台骨を支えてきた。
写真は上から1000年前のオホーツク遺跡、1,800年前の吉野ヶ里、
そして一番下は江戸期の福島県いわき市の古民家。
吉野ヶ里の方は、囲炉裏上部の「火棚」のクローズアップです。
火を熾して燃やし続ける囲炉裏の上で、
このような装置、火棚がもれなく付帯している。
この火棚にはさまざまな効用があったのでしょう。
その最大な効果は「食品の乾燥保存」だったであろうことは自明。
囲炉裏で薪を燃やせば、熱量が発生する。
それを最大限ムダなくフルに利用しようと工夫するのはごく自然。
この火力を得る薪の採取には多大な労苦が費やされているのです。
食事の直火煮炊きの次に普通に考えられるのは保存食品加工用途。
火力からの「輻射熱」で時間を掛けて熱を加えるのに、
この火棚は利用されてきたのでしょう。
冷蔵庫がくらしに利用される以前、備蓄的な保存食品として
魚や肉類、植物食品などの燻煙乾燥という食品保存方法が
広範に利用されてきたのでしょう。
直火で焼いて食べ残った食材を火棚に上げ保存させるのが一般的利用。
秋田ではたくわんを食べて残ったヤツを火棚に上げ「いぶりがっこ」にした。
考えてみると、こういった知恵はまことに「エコロジー」。
薪という貴重なバイオエネルギーをフルに有効活用する知恵。

現代ではキッチンの火力エネルギーのフル活用までは
あんまり考えられてはいないと思います。
省エネ、ということが空理空論に陥りやすい現代と比べ
ムダのない伝統的生活装置から教えられるのではないでしょうか?
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【1800年前・吉野ヶ里支配層の始原の「畳」ベッド?】

2019年08月12日 06時18分33秒 | Weblog


北海道の考古遺跡群はDNA的には縄文の残滓が色濃い。
縄文の人々は、アジアに進出した人類の中でも
いまから4万年前くらいに古層で枝分かれした人々という説がある。
この縄文の人々が日本人のベースを作って、
いまでも12%ほどのDNAを日本人に残しているとされる。
それに対して大陸から渡来しただろう弥生文化様式の人々は、
日本列島への渡来としては、第3波を形成する人々という。
だいたい3千年前くらいから列島にきて、弥生的生産様式、
コメ生産に特化した社会を形成した人々だったのでしょう。
その掉尾を飾るのが、百済国家からの列島への集団渡来なのだと。
で、九州・吉野ヶ里では「環濠」で他と明瞭に区切られた
支配ー被支配という関係が明瞭な社会として出現している。
建築としては、高床式の「敷居の高い」建築が支配も表現していた。
ただし、日常生活の住居は支配層も竪穴住居だったとされる。
で、写真上のような畳状の敷物付きのベッドが復元されていた。

見学したのは、いまから15年程度前で、
最近、古建築探訪の記録写真を整理していて気が付いた。
この竪穴住居は「王の家」とされるものの内部で、
縄文の竪穴と違って地面に1段段差を付けたりしているので
「身分制」ということが建築としても表現されたものか。
ほかの竪穴でも下の写真のように、「むしろ」状の敷物が多く復元されていた。
やはりコメ生産技術に特化した社会として、ワラを利用した
生活備品というものが同時進化した様子をみることができる。
畳の素材はイ草ですが、初源の歴史ではどういう素材利用だったのか?
全国畳産業協会のHPで「畳の歴史」コーナーで以下の記述。
〜日本ならではの敷物「畳」が貴族階級から庶民へと普及するまで。
中国伝来のものが多いなかで、畳は日本固有の敷物。その歴史は
「菅畳八重」「皮畳八重」などの記述がある古事記にまでさかのぼります。
まだ畳床などはなく、コモなどの敷物を重ねたものと推測されます。
現在の畳に似た構造になったのは平安時代。板敷に座具や寝具として置く
使い方で、使う人の身分によって畳の厚さやへりの柄・色が異なりました。〜
ということで、古墳時代3世紀を想定しているこの吉野ヶ里展示で
使われている「畳の原初」というのは、暗示的ということで了解すべきか。

畳というのは、日本オリジナルの敷物ですが、
なぜこのようなインテリア装置が発展してきたのか、
コメ生産と周辺繊維質素材との相関だけでは他国との相違が説明できない。
やはり高温多湿という独特の気候風土が関係したのでしょうか?
敷物自体は人間の皮膚感覚としての必然としてそれぞれで進化した。
いろいろな可能性が考えられる中で,日本社会では畳が選択された。
その選択が進むと、独特の文化風土としても昇華発展もしたのでしょう。
なかなかに興味深いですね。
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