私は、時々 目の前で
自信たっぷりに自分に陶酔しながら語られる言葉や
色んな場面で顕わされる活字(言葉)に
言い知れぬ違和感や偽善を感じてしまう事があります。
1人1人が日々 感じ 思うことは 勿論、
その方の大切な自由意思ですので
1人の、間違いも多くする この普通の人間が
それをいいとか悪いとか ジャッジメントするなんて
愚の骨頂、それこそ身の程知らずの出すぎた事です。
そんな越権行為は畏れ多くて考えにも及びません。
私は今回の東北関東大震災で実に多くの事を
日々気付かされ 感じさせられ続けています。
今回の事は言葉などでは到底語りつくせない程の
大きな深い哀しい出来事でした。
だからこそ簡単に「かわいそうに」などと
私は、ですが 言うことは出来ません。
いまだ、人と集いランチなどしていると
被災者ではないのに、大地震の話題を持ち出して
声高らかに多くを語る方をお見受けしますが
そんな時 私は辟易しています。それはきっと、
その方の発っする言葉の端々から感じ取れてしまう
ご自身を無意識に『善人』に置き換えられて
話しに没頭しているその姿に言い知れぬ
違和感を感じているからなのかもしれません。
皆でご飯を頂きながら、地震のことを
あーでもない、こーでもない とただ語る事よりも、
実際に日々の暮らしの中で、
人が見ていない所で、私達1人1人に出来る事は
実は沢山あるように思います。
物理的に現地に赴けなくても
我々に出来る事は色々あるように思うのです。
悲しいかな 人というのは、誰かの苦しみを、
(悦びでも) 想像し寄り添う事は出来たとしても
自分が身を持って体験した事でない限りは
本当の意味で【理解する】、【判る】という事は
出来ないと、それがこの世に生きる摂理と感じます。
被災した方々の真の、芯の、苦しみ 悲しみに
被災していない者が本当の意味で添う事は出来ません。
このゴールデン・ウィークに
ご自身の生れ育った地に向った友人がいます。
彼女は今回の地震で おじ様を亡くされたそうです。
連休明け 関東に戻った彼女のブログを読み、
彼女が「シャッターを押して申し訳ない」という気持ちで撮った
現地の写真を見た時 彼女の真摯な思いが
切々と胸に響き 迫ってきました。
後日、彼女とメールを交わす中で更なる現実を知り
胸が締め付けられました。
私に出来ること。
より食べ物を大事に感謝を持って頂くこと、
生かして頂いているこの命を大事にし全うすること、
資源を大切にすること、
節電を心がけること
被災された皆様、被災地に向けて祈ること。
私達は実は 普段無意識に色んな場面で
愛する者や 愛する存在に向けて
遠隔ヒーリング、祈りをしているように思います。
「高熱に苦しむ我が子の熱が下がりますように」と
母親が一心に願う事も愛、そして祈りそのものであり、
家族同様のペットの病が癒される姿を
心の底から信じイメージする行為そのものも祈りである。
昔からイメージした事、イメージ出来る事は
現実になる、と言われていますが
皆さんも今日まで生きてこられた中で
イメージし続けたことがとてつもないパワーをうみ
実現したというご経験が
1つや2つお有りなのではないでしょうか
大切なものを思う気持ち、
願いや祈りは 形として目には見えなくても
きっと届き、伝わると私は、信じてやみません。
人が人を思う気持ち、
愛というものは 形として見えなくても
人はその愛を感じ 受け取り 信じることが出来る
そして 絆を深めてゆけるように
言葉ではない 【思い】や【祈り】もまた、
確実に伝わり届くと思うのです。
私が、思う大事なことは
今回の悲しい大地震を ただ悲しい、という
一過性のものとし、風化させてしまうのではなく
私達 1人1人が出来うることを
【日々 実践し続けること】
そして
【忘れないこと】
のように
思う、のです