昨晩 『美の饗宴-超絶工芸躍動の調金-』
という番組を見ました。明治の彫金家、
正阿弥勝義(しょうあみかつよし)という方を
取り上げていました。はがねの名手勝義は、
象がん という技法を駆使し自在に金属を操り
日本のアールヌーボの出発点とも言われており、
特に エレファントは、
世界で注目されているというのも頷けます。
勝義のリアルで細部に渡り緻密に表現された作品は
金属とは思えな程、人間技と思えない程滑らかで
ただ ただ 驚かされるばかりでした。
勝義は40代半ばまでは
刀の金属に装飾を施す仕事をしていたようですが、
明治9年の廃刀令により職を失ってからは
工芸の道へ進み、高度な高肉象がんの技巧を取り入れ
イキイキとした群鶏を見事に顕した 『群鶏図香炉』や
艶やかで本物の蛙と見紛(みまご)う 『蓮葉に蛙』や
あまりにもリアルに描写されている『柘榴に蝉飾器』など
数多くの素晴らしい作品を残しました。
勝義は常々 【森羅万象、是我師也】という言葉を
口にしていた様ですが、私もその言葉に共感しました。
私も日々表現していますが、
【師】と仰ぐものは やはり【人】ではありません。
色の組み合わせを思う時、私は自然界の色を想像し
自然界に溢れる色の中に身を置き 目を凝らします。
自然界に溢れる美しい色を人は参考に出来たとしても
その完全なる美を人は創り出すことは出来ません。
人には かなわないこと 出来ないことがあるからこそ
自身の立ち位置を知り謙虚になれるのかもしれません。
岡山を拠点としていた勝義は
卓越した高度な技法を持ちながらも
加納夏雄や海野のような帝室技芸員にはならず、
苦労も多かったようです。
日露戦争により銀の調達が難しくなると同時に、
パトロンからの注文も減り、
跡取り息子が莫大な借金を作り
その肩代わりをせざるを得なく、
また その頃 孫も亡くし、
自身もその頃から持病を悪化させていたようです。
70代半ばの挫折。そんな逆境の中、
岡山で最後に残した作品は満身創痍の中、
4年8ヵ月の歳月をかけ ふんだんに象がんを用いた
見事な作品を完成させました。
それは柔らかい銀に 硬い鉄を象がんした、
高さおよそ38cmの壺でした。
柔らかい銀に硬い鉄を埋め込むという高度な技法は、
熟練した職人でも おいそれと出来るものではなく、
勝義ならでは、のようです。
遺作を完成させた1ヶ月後の 明治41年、
勝義は77才で他界しました。
彼は、ある時 息子へ宛てた手紙に
【勝つ事(成功する事)ばかり求めて
失敗を恐れていては素晴らしい作品はうまれない】と
言っていたそうです。
彼が息子に宛てたこの言葉から ふいに
入社当時の自分のことが重なりました。
社会人になりたての当時の私は、今振り返ってみると
日々 仕事でミスをしない様に、という思いで一杯で
どこか緊張していたように思います。
そんなある日、とても仕事の出来る私の教育主任が
ぼそっと一言、「 段々慣れてきたみたいだけど
今度は失敗しないとな、怖がらないで
ドンドン失敗していいから。○○さんの仕事を
フォロー出来ないようじゃ俺も男じゃないからサ」と、
軽やかに さりげなく仰いました。
私は想定外のその言葉にとても驚きましたが
同時にとても有り難く 気持ちがとても楽になりました。
それまでの私の人生では
失敗するのはいけない事、とずっと思っていたので
なんとかそつなく仕事をこなす事で頭が一杯でした。
と言っても社会人になりたての経験値の浅い人間です。
ミスをしない事など 所詮無理なことなのですが(笑)
当時の私は
それでもミスをしない様にという思いで一杯でした。
6才上のこの教育主任の言葉に安堵しました。
会社を退職してからもう随分経ちますが、
時々、入社当時の自分の事を懐かしく思い出します。
いつも有り難いと感じますが、
私は出逢いにはとても恵まれていると思います。
社会人として最初に配属された課も素晴らしく、
課長をはじめ、憧れの女性の先輩、同僚、同期・・・
みなさんから実に沢山のことを教えて頂きました。
今でも入社して最初に配属された課の教育主任や
全員ではありませんが、当時の課の方々と
お年賀状の遣り取りをさせて頂いています。
人は多くの出逢いと別れを繰り返す中で
それぞれどこかしら影響しあっている様に思いますが
希望に満ちた、沢山の事を凄い早さで吸収出来る
若い時に出逢わせて頂いた方から
受け取る言葉や教えは、その後の自分の人生の
大きな拠り所となるように思えてなりません。
正阿弥勝義という方を通して
思いがけず 初心にかえる事ができました。
正阿弥勝義という1人の素晴らしい彫金家と作品を知り
その美しい生き様にほんの少し触れる事が出来た事が
嬉しく 有り難く 清々しい気持ちです。