イタリアの風に吹かれて ~con te partiro~

前世(かこ)から未来(いま)へと紡がれし時の記憶
あなたと交わした約束の欠片を辿る遥かなる愛しき旅

ダリ

2014年03月15日 23時38分16秒 | 日々思い感じること

 ダリの作品

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 あくまでも私の持論です。

例えそれが見切り発車だとしても 
あれも これも やりたいんだから 
  とにかくやる!挑戦するのみ!

私はこういうタイプではないので
    思い立ったら吉日!と、
考える間もなく即トライ!という方の
行動力はある意味 素晴らしなぁ~と
  尊敬しちゃいます。

感情も含めて人は実際手に取って
 体験してみて 
 初めてわかると言われています。

  確かにその通りと思いますが、
 だからといって明らかに
 自分とはテンポの異なる
 誰かのリズムに倣(なら)って
 ワシャワシャと
急いで動き出す必要も無いように思います。
  人にはそれぞれ
 機が熟す時期があると思うので
  焦る必要は全くないと思うのです。

世の中には 
あと先 考えることなく鉄砲玉の如く
 ピューンと勢いよく飛び出す勇敢な人もいれば
 動く時期も然り、
  熟慮してから 動くという人もいます。
 
  この世の中にはこんな風に
   色々なタイプの人が混在し
  行動1つとっても 多種多様だらこそ
   それぞれの行動力や
   思慮深い知恵とが中和して、
   結果 いいものが生れたり 
     いい方向へと向かうのではないか、
    そんな風に思わされます。 

  色んなことを手に取り体験した暁に
   全部がそれなりに
  なんとなく出来てしまうことを
    ヨシ!としたいのか、
    好きなことに気付けたら 
    それに向かってまっしぐら、
    それをひたすら極めようと
    磨き続けるのか、は
    人によってまちまちでしょう。

    私の場合は 
   1つのことに集中し
    それを極めたいタイプなので、
   あっちも こっちも いいあんばいに
    同じ余力で・・・・という
     器用なことは出来ません(笑)

   単なる批評家にはなりたくないと
     常々思っています。
    職人気質なところがある為、
   目に映り感じたことを
    敢えて人に話したり説明こそしませんが、
    たえず自分の中では、
    ここをこんな風にプラスすれば、
    ここを少しだけ引き算すれば、
     このデザインをチョイスした方が、
     この色を顔周りに持ってきた方が、
     本来の肌の色を美しく見せ、
    より魅力的になるのになア~と
     瞬時に思ったりします。
   こういう気質から、
    何かを購入する時も、
   いい仕事がされているかを
      見極めて購入し、
     予約をし何かを造って頂く時も、
     作り手のオリジナリティーが溢れ
    いい仕事をして下さる方に
     お願いをしています。

    自分は凄い!何でもできる!と
   自惚れ 豪語し
  どこか勘違いされている方の作る物は
   スルーです。

    ちょっとつまみ ん?
    何か違うな・・・・ポイ・・・・・なら、
   まだ理解できるのですが 
   欲張りさんなのでしょうか?
    自分は何でも出来る、と
   認められたいのでしょうか?
    ちょっと触れ ちょっと体験したことを
     大々的に宣伝し、
    仕事としてお客様から
    お代を頂戴している方を
   お見かけする時、心の中で
     「あなたには頼まない」と思います。

   自惚れた人が
   勘違いして作る物というのは不思議と、
     ヘンテコリンなエナジーが
     その物にこびりつくように入っています。
  (以前 信頼していたある方に
  パワーストーンを作って頂いたことがありました。
      ある時、注文したそれをつけた時、
   感情がワーッと高ぶり身体がほてるというか
  カーッと熱くなってしまうような
   違和感がありました。
    そのブレスレットをつけるのをやめると、
    本来の自分に戻りました。
    のちに分かった事ですが
     その方の作るものが
    次第に口コミで広がり
      全国から注文が殺到する中、
    これまでのように全てを
    自分で造るのは物理的に無理になり
    エナジーのことも分からないスタッフが頼まれ
      石を組んでいたと分かりました。
     石を組んだスタッフのマイナスの感情が
     石に付着してしまったパターンでした。
    以来その方にお願いすることはありません。

   深く学ぶ事なく鍛錬せず 
 何でもかんでも意のままに
  一通り手を出す中で、無難に
   それぞれの物を
    平均的に提供する、という方の想いに
    私は共感できないので何かを購入する時
      私は色々な部分にこだわります。

    何でもやりたい!という方と
   似ている気もするのですが
   ややもすれば、勢いのある  
    情熱的な人に見られがちなのは
    その赤々と燃えたぎる熱い思いが
    冷めやらぬうちに
    感じたままの思い、好き、嫌いの言葉だけを
    ポンと放ってしまうきらいがある様に
    思わされますが
      時としてこれも危ういことのように思います。
   
      個人の思いを綴る時、語る時、
     放ったその言葉に
      責任を持つ意味でも、
    強い言葉で断言したり
    批判的な言葉でバサッサバッサと
    切り込んでしまう前に
       まず、それは誰の意見なのか、
     という主語を明確にした方が
     人として信頼できる、
      誠実な気がしてなりません。

    これも私の持論でしかありませんが、
      普段使う言葉と
   仕事として公の場で意識して使う言葉とが 
    大きく乖離している方の文に触れる時、
    何だか怪しい・・・と思ってしまいます。
    ある部分では投げやりに 
    粗い汚い言葉でボヤキ
     仕事の文面を出す時は、
     途端に丁寧な言葉になる。

  本人はそんなつもりはないのかもしれませんが
  こんな風にうまい具合に切り分けをする方に
時々、どちらが本当なのだろう?と
   理解に苦しみます。

   皇室の方々の美しい所作や
言葉に多くの方の心がフワッとほどけ、
清らかな気持ちにさせて頂けるのも
   凛とした一貫性であり、
  真の気品や伝統が
     そこに根付いているからと思わされます。

      時々思うことがあります。
     それは等身大で生きている方というのは
    案外少ないのかもしれないということです。

   私達は同じ人間として皆同じ様に 
肉体という衣を纏い
この物質世界の中で 
いいことも そうでない事も含め
    日々体験し、時に自分の失言に顔を赤らめ、
   「あちゃー」と、反省し、
     少しは成長できたかな、 と思えば
  ストンと足元をすくわれることが起こったり、
   当に3歩進んで2歩下がる・・・・のような日々を
      送っているような気がします。

 神ではない人間であるからこそ、
日々失敗もすれば
  何てことをしたのだろう・・・・と
  ワナワナすることもある。
 そして人間だからこそ当然の如く
 好き、嫌いがあり、
    どうしても出来ないことも苦手なこともある。

  人間がとてもできた方なのでしょうか?時々、
「その言葉に強く反応したり気にしてしまうというのは
 本当のことを言われたからこそ 反応するのだから
  それを気にしなくなり~になれたらいいですね。」と
 説得力のある?素晴らしい言葉?を書いている方が
 いらっしゃいますが一理あって一理ないと私は思います。

では
それがすぐに出来ない人は自分を駄目人間だと
       責め続けるしかないのでしょうか?

 気になり ざわめく、というの
は 心が動くということ。
心が動くという事はそこに自分の大事なテーマや気づきが
         隠されていると思わされます。
    それを反応するのは未熟だから・・・と
 「そんな風に動じないといいですね」のというニュアンスで
 バッサバッサと切り込むことはどうなのかな?と思います。
 それを読んだ素直な方は 「反応した自分は未熟
  気にしない様にしなくちゃ」と自分を責めてしまう・・・・
その人に出来る事だからといって 多数の人が同じように
皆、出来るとは限らないことを明るく言いきってしまう事は
    人の心を縛ることにも繋がると思わされます。

     この世にいる限り 達観など出来はしない
      1人の未熟な人間だから。

      活字でも人の話し言葉でも 
      汚いな、嫌な感じの言葉(音)だな、粗いな、
     思いやりに欠けているな、何でそんな言葉を
        敢えて使うのだろう?と疑問に思い、
 人の魂を蔑む様な言葉を平気で使ってしまうような輩を
    苦手と思う心の動きも 私は大事にしています。

 本当はされて言われて傷ついた事を心が反応した事を
     なかった事のように振る舞い やり過ごし
「こんなちっちゃな事にイチイチ目くじら立てず気にしないで、
   ガハハってと笑い飛ばし、へぇ~面白いじゃん。」と、
        明るく言い放ち、演技することは 
    心を固くした上に蓋をするようなものと思います。

     等身大で生きる、自分を大事にする、開示する
     ということは、正直に自分の喜怒哀楽を認め
       出来ないことさえも語れる、ということも
       往々にして含まれるような気がします。

  人にはそれぞれ嫌だな、と感じる言葉も確かにある、
 という事実をまず知ることは とても大事な気がします。

 悲しみを背負い、辛い体験をし 砂をかむような日々を
         体験している方に向かって、
「全ては良い経験なのだから 明るく越えて行きましょう、
   頑張っていきましょう。」だなんて、同じ人間から
      軽く言われたら、深く傷つくと思います。

       自分が難なく出来るからと言って
 それを出来ない人にはっぱをかける必要もありません。

   私の大好きな画家のひとり、こちらのダリもそう。

    彼の世界観や作風を好き、という人もいれば、
    モネの世界しか惹かれない、という人もいて、
   みんな それぞれに 心動かされるものがあって
 それぞれの好きがある。これがむしろ自然と思います。

それをどんなに好きなのかを言葉で説明しようとした途端 
何だか急に嘘っぽく感じ 陳腐になってしまう気がするから
          言えないの、でも、好きなの、
      理由なんてないけれど惹かれるの・・・・・・
        感動の涙が自然に溢れるの・・・・

 こんな風に それぞれの好き や 嫌いがあるからこそ
    私たちは人とは違う 自分のオリジナリティーを
 本当の意味で大切に守り育めるような気がしています。

     真の思いやりとは、単なる批評家になり
      いいとか、悪いとか 論じることでなく
「あなたは そう思っているのね」と 相手の気持ちを知り
    耳を傾けること、そのように思えてなりません。