去る9/22(土)北海道新聞札幌圏版に掲載された拙筆による「ほっかいどう山楽紀行」は「羊蹄山」だった。
http://sakag.web.fc2.com/9-youtei.htm (アップ済み)
ところが、一昨日、担当者から「「松浦武四郎が・・・自らも登っている」との記述ですが、実際には登っていなかったようです。他から指摘されて判りましたが、『倶知安町百年史』にもそう書かれているようです。」との連絡を受けた。昨日は、読者からも指摘があったそうだ。
武四郎の『後方羊蹄(しりべし)日誌』では安政五(一八五八)年二月四日(新暦三月十八日)に羊蹄山に登っていて、その登頂記も記されている。深田久弥も『日本百名山』の中で、それを信じて、武四郎の厳冬期登攀の快挙を絶賛している。自分もそれを信じていた。
早速、ネットで調べてみた。この記述から武四郎は積雪期の羊蹄山に登頂したと考えられていた。しかし、後に存在が明らかになった調査日誌の行程から、昭和60年代?に研究者の間で論争になり、「登っていない」ことで決着し、登頂記も創作であったことが判明しているという。また、自分も持っている2002年発刊の『北の山の夜明け』(高澤光雄編)にもそのことが記されている。
その登頂記と創作とされている根拠を要約したものを、ネット上で見つけた桐生山野研究会増田宏氏の「松浦武四郎が登った北海道の山」から抜粋してコピペすれば、下記の通りである。
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<登頂記>
二月二日に雄岳(尻別岳)の下に達してそこに祠を置き、木幣を捧げてから雌岳(羊蹄山)の登攀にかかった。三日は二合目に泊まったが、寒さで巨樹が凍裂して地震のようで終夜眠れなかった。翌四日の未明に出発して四合目で日の出となった。風は刀のように顔面を打った。六合目で樹林帯を抜け、八合目からいよいよ険しくなり、午後ようやく頂上に達した。頂上は富士山のように窪んでいて周囲が一里半ばかりある。冬はその凹地に熊が冬眠しており、現地人は春を待って熊を獲るという。自分が登った時は帰りを急がされたので一頭も獲ることができなかった。
<創作とされている根拠>
この記述から武四郎は積雪期の羊蹄山に登頂したと考えられていたが、後に存在が明らかになった調査日誌の行程からこの登頂記は真実でないことが判明した。安政五年の調査記録戊午東西蝦夷山川地理取調日誌第一巻「東部作発呂留宇知之誌」によると、武四郎は二月三日にウス会所に泊まり、四日にアブタへ向かっている。このことから羊蹄山登山は創作であることが判る。また、登山紀行の部分のみ漢文で書体が異なっており、頂上の凹地に冬眠している熊を時間がなくて獲れなかったなど荒唐無稽な記述からも事実でないことは明白である。武四郎は登山家として羊蹄山に興味を持ったが、おそらく冬期の登頂が困難で果たせなかったので伝聞から登頂記を創作したのだと思う。登路の描写や頂上の地形、熊の話などはアイヌの人からの聞き書きであろう。
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なお、『石狩日誌』でも、安政四(一八五七)年閏五月二日(新暦六月二三日)に石狩岳(現在の大雪山)にも登っていて、その登頂記も残っているが、これも同じように創作とされている。
実は、「自らも登っている」と断定的な書き方をして大丈夫かな?と思ったりもした。そのときに詳しく確かめれば良かっただが・・・。これまでも、歴史的なことを書くときには、いろいろ調べて書いてはきたし、はっきりしないときには断定せずに、「・・・らしい」「・・・とのこと」「・・・だが定かではない」などと書くようにしては来たが、今後、より一層詳しく調べて記述することの大切さを痛感した。お陰で、良い勉強になった。
もう掲載されてしまったものは直しようがない。とりあえず、HPへの掲載記事の下に、[訂正]を入れておいた。また、次の掲載分(ニペソツ山)に、簡単な訂正文を掲載できないか担当者とも相談中である。
http://sakag.web.fc2.com/9-youtei.htm (アップ済み)
ところが、一昨日、担当者から「「松浦武四郎が・・・自らも登っている」との記述ですが、実際には登っていなかったようです。他から指摘されて判りましたが、『倶知安町百年史』にもそう書かれているようです。」との連絡を受けた。昨日は、読者からも指摘があったそうだ。
武四郎の『後方羊蹄(しりべし)日誌』では安政五(一八五八)年二月四日(新暦三月十八日)に羊蹄山に登っていて、その登頂記も記されている。深田久弥も『日本百名山』の中で、それを信じて、武四郎の厳冬期登攀の快挙を絶賛している。自分もそれを信じていた。
早速、ネットで調べてみた。この記述から武四郎は積雪期の羊蹄山に登頂したと考えられていた。しかし、後に存在が明らかになった調査日誌の行程から、昭和60年代?に研究者の間で論争になり、「登っていない」ことで決着し、登頂記も創作であったことが判明しているという。また、自分も持っている2002年発刊の『北の山の夜明け』(高澤光雄編)にもそのことが記されている。
その登頂記と創作とされている根拠を要約したものを、ネット上で見つけた桐生山野研究会増田宏氏の「松浦武四郎が登った北海道の山」から抜粋してコピペすれば、下記の通りである。
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<登頂記>
二月二日に雄岳(尻別岳)の下に達してそこに祠を置き、木幣を捧げてから雌岳(羊蹄山)の登攀にかかった。三日は二合目に泊まったが、寒さで巨樹が凍裂して地震のようで終夜眠れなかった。翌四日の未明に出発して四合目で日の出となった。風は刀のように顔面を打った。六合目で樹林帯を抜け、八合目からいよいよ険しくなり、午後ようやく頂上に達した。頂上は富士山のように窪んでいて周囲が一里半ばかりある。冬はその凹地に熊が冬眠しており、現地人は春を待って熊を獲るという。自分が登った時は帰りを急がされたので一頭も獲ることができなかった。
<創作とされている根拠>
この記述から武四郎は積雪期の羊蹄山に登頂したと考えられていたが、後に存在が明らかになった調査日誌の行程からこの登頂記は真実でないことが判明した。安政五年の調査記録戊午東西蝦夷山川地理取調日誌第一巻「東部作発呂留宇知之誌」によると、武四郎は二月三日にウス会所に泊まり、四日にアブタへ向かっている。このことから羊蹄山登山は創作であることが判る。また、登山紀行の部分のみ漢文で書体が異なっており、頂上の凹地に冬眠している熊を時間がなくて獲れなかったなど荒唐無稽な記述からも事実でないことは明白である。武四郎は登山家として羊蹄山に興味を持ったが、おそらく冬期の登頂が困難で果たせなかったので伝聞から登頂記を創作したのだと思う。登路の描写や頂上の地形、熊の話などはアイヌの人からの聞き書きであろう。
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なお、『石狩日誌』でも、安政四(一八五七)年閏五月二日(新暦六月二三日)に石狩岳(現在の大雪山)にも登っていて、その登頂記も残っているが、これも同じように創作とされている。
実は、「自らも登っている」と断定的な書き方をして大丈夫かな?と思ったりもした。そのときに詳しく確かめれば良かっただが・・・。これまでも、歴史的なことを書くときには、いろいろ調べて書いてはきたし、はっきりしないときには断定せずに、「・・・らしい」「・・・とのこと」「・・・だが定かではない」などと書くようにしては来たが、今後、より一層詳しく調べて記述することの大切さを痛感した。お陰で、良い勉強になった。
もう掲載されてしまったものは直しようがない。とりあえず、HPへの掲載記事の下に、[訂正]を入れておいた。また、次の掲載分(ニペソツ山)に、簡単な訂正文を掲載できないか担当者とも相談中である。