最近人気急上昇の函館のサクラの名所にもなっている石崎地主海神社の遅咲きの八重桜が見ごろを迎えていた。
ここのサクラは、昭和43年(1968年)に石崎地主海神社が改築した時、松前町が桜の苗木300本を神社へ寄贈した。参道から鳥居までの300メートルほどの一直線の道には、約180本の大輪の濃いピンク色をした八重桜「関山」が咲き、迫力のあるトンネルを作っている。また、境内や裏山にもいろいろなサクラが咲いている。
この神社は、仙台からの入植者である大槻家が、明治43年(1910年)、郷里仙台の地より、嘉永年間より信仰していた猿田彦大神、天照大御神を奉じてこの地に入り、祠堂を建てた。その後、沿岸漁業の豊漁を祈るため、海津見大神を合祀している。
往復35km、天気が良ければMTBで行きたかったが、寒い上に風が強いので、車で行ってきた。ちょうど満開を迎えていた。これが、今年最後の花見となるだろう。
関山(かんざん)
普賢象(ふげんぞう)
泰山府君(たいざんふくん)
境内から津軽海峡を眺める
◎恵山の行方不明事件を考える
5月15日に恵山で行方不明になった佐藤晶君の地上からの捜索が昨日(5月20日)で終了となり、今日にでも天候が良ければ、もう1度道警ヘリでの上空からの捜索が行われる予定だった。しかし、恵山ライブカメラによると、今日も濃霧に覆われて無理だったようだ。今後に期待するしかない。
これまで、毎日のように当ブログでも触れてきたが、優秀な道警山岳遭難救助隊を中心に・消防・自衛隊などによる、大規模な入念且つ懸命な捜索活動にも関わらず、まだ手がかりが見つかっていない・・・。ご家族や捜索関係者の心中を察するに思い余るものがあるが、二次災害も心配された悪天候の中、まずは捜索に当たった方々に心からの敬意と労いの意を表したい。
天候に恵まれたのは17日のみだった。その日には道警ヘリやドローンでの捜索も行われた。その日の捜索後、現地で捜索に関わった関係者からは「正直あとどこを探せばよいのか…といった状態です」とのことだった。しかし、その後の悪天候の3日間も捜索が続けられた。
登山道以外のルートも含めて、数えきれないほど何度も登っている恵山である。恵山支所主催の毎年の春と秋の登山会のガイドも務めているだけに極めて残念な事故である。これまでの自分の経験をもとに、今日までに考えたことを少し述べてみたい。
赤線の内側が、ヘリコプターでの捜索が可能と思われる区域。ほかは樹林帯。
上掲のgoogleマップとほぼ同じ区域の地形図。照合して見ていただきたい。
事故の一番の原因は、申し訳ないが、2人のお姉さんたちが初めて登った晶君を先に1人で下山させたことにある。迷ったと気づいたり、事故に遭ったりしたときの本人のパニック状況を考えると胸が痛む。新型コロナがなければ、学校に行っていて平日に山にも登ることもなかったろうに・・・と思うと非常に残念である。
恵山は、簡単な山だと思われがちだが、溶岩地形のガレ場の中の登山道(権現台コース)は、下草のある山と違って、登山道もその周りも同じような景観で、足元も悪いし、何度登っても慎重さが求められる。
当初は、登山道を踏み外して、登山道の西側の火山地形の斜面で、転倒か滑落をして動けない状態になっていると思っていた。特に噴火口の上の斜面、細い西尾根とその下の岩場は危険な箇所である。また、東側の毛無沢源頭部の崖の方へ向かったら、そこも滑落の危険性がある・・・それだけに、特に17日の道警ヘリの上空からの捜索では、絶対に見つかると思っていた。誰しもそう思っていたに違いない。
しかし、これまでの念入りな捜索活動にも関わらず手がかりがないところを見ると、想定外の上掲のgoogleマップの赤線で囲んだ外の樹林地帯に迷い込んだのかもしれない。しかし、登山道から繋がる西側や北側の樹林帯は、登山道や作業道路の多い火口原や駐車場を抜けなければ入って行けない。普通の判断力のある子なら、それも考えづらい。こちらはローラー作戦で捜索されているようだ。
登山道の右側の東斜面の樹林帯の可能性もないわけではない。こちらは急斜面で岩場も多い。また、山頂から南側の樹林で覆われた海側の斜面は急斜面で岩場や岩崖も多く、こちらの斜面の捜索はかなりのベテランでなければ難しい。登山道を下り始めてから逆方向のそちらへ戻るような形で迷い込む可能性は極めて少ないもの思われる。しかし、遭難事故は往々にして想定外のことが多い・・・。
山仲間の間からも、このあと、自主的な捜索をするのなら協力したいという申し出もいただいている。これまでの捜索結果から、はっきり言って改めてどこを捜せばよいか見当がつかないのも事実である。しかし、自分たちの活動の舞台だけに、鎌鹿さんとも、外出自粛の動きも見ながら、何らかの形で捜索活動に取り組みたいと話している。そのためにもこれまでの捜索場所等の詳しい情報等を把握した上で、協議を進めるつもりである。
この石崎地主海神社のあるところは、白石地区ですので、開拓に入った仙台の大槻家も白石藩出身だったのでしょうね。大槻玄沢は一関藩出身ですから、直接関係ないのではないかと思います。
本当にいろいろお詳しいですね。