【豊岡市日高町観音寺(かんのんじ)】
『やっと入荷しました。只今お持ちしましたよ』と、大急ぎの駆け足で、電気の掛け毛布を届けます。
Kさん宅の玄関先で、様子がちょっとおかしい普段と違う気配です。
Kさんと奥さん二人して、「まあまあ、申し訳ないことです。今し方亡くなったんよ、ほんと今さっきの事なんです」と、Kさんちのおばあちゃんが、亡くなったことを告げられました。
土曜日の日です。
急に気温が下がった朝から、次々売れます電気の毛布、敷き毛布下さい、掛け毛布はありませんかと、ご注文続いて品切れ状態になりました。
『Kさん、掛け毛布の在庫はなくなりました。すぐ注文させて貰いますが、2,3日待ってくださいね。おばあちゃんですか』と返事をします。「入ったらすぐ持って来てね」と、おばあちゃんに使わせる分だと云われます。
やっと入って大急ぎ、駆けつけましたが遅かった。『悪かったですね、悪かったですね。申し訳ありません、申し訳ありません。心よりお悔やみします許してください』と謝りました。
おばあちゃんが、そんなに悪いなんては知りませんでした。奥さんは、「せっかく注文したのに、キャンセル出来ますか?、悪いわね」、『な~に云っとられますか、こちらこそ大謝りですよ。そんな持ってくるのが遅すぎた、こちらが悪いのです』と話します。
Kさんおっしゃる。「明治45年生まれの101歳、あんたの母さんと一緒」、「あんたんとこのは早よう亡くなったが、うちのと良い仲で、いつも行き来して仲良くさせて貰ってましたね」と、101歳だったとお話しで、86歳で逝った明治生まれの、私の母の事もやさしく思い出されて会話です。
Kさんちのおばあちゃんは、元気で明るく頼もしい、いかにも力強く生きて来た感じの人でした。
明治は45年で終わりです。明治生まれの最後の年で、今年亡くなれれば101歳の大往生と、明治も遠く遠くの世界となりました。
Kさんちのおばあちゃんだって、私の母だって、昭和の10年頃が25歳前後の歳ですから、大勢の子供は、昭和10年代から終戦直後に授かっています。
私の母のことを思っても、昭和20年の7月末ですから私の誕生は、想像しただけでもすごい状態だったと思います。
日本の敗戦がもう目の前に迫っている、凄い時期です大混乱の、母の姑さんは5年前に亡くなっている、父は召集で戦地の果ての、生きているのか死んでいるかわからん時の、母は一人ぼっちの物凄い暑い夏の真っ盛り、2歳を末に5人も子供を抱えての出産は凄いです。
敗戦が迫ってる、女手一つ、収入なんか何の当てもない、日本は一体どうなるの、父はいつ帰ってくるか来ないかも、分からない状況の時(実際に、終戦後一年経って次の夏、乞食同然の姿で帰って来た)に、どんなに気持ちで私を生んだのだろうか、聞いたこともないので分からんが、Kさんちのおばあちゃんとおんなじです。明治の女性は凄いです。
《ああ明治 一人もいない 時が来た》