神武山に建ってた豊岡のお城

2019年04月13日 | 但馬の城跡
        清滝小学校の桜は、県下随一の規模
            

(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成27年 第10回但馬検定(2級)問題より

【24】豊岡市の神武山に残る城址は、宮部継潤によって豊
岡城と改名されましたが、築城時は何と呼ばれていたでしょうか。

(a)三開山城  (b)楽々浦城  (c)木崎(城崎)城  (d)妙楽寺城


正解は、(c)の木崎(城崎)城です。

 織田信長の命を受けて但馬を制圧したのは羽柴秀吉、実質
的には弟秀長が行いました。中世但馬の守護をつとめ続けて
きた山名氏は終焉します。

但馬には、秀吉配下の武将が配置されます。出石城に前野長
泰、豊岡城には宮部継潤(みやべけいじゅん)、竹田城には
桑山重晴、八木城には別所吉治が就きました。

宮部氏は天正8年(1580)に着任し、二年目の天正10年
(1582)には鳥取に移ります。わずか2年の間でしたが、い
ろいろと改革に着手しました。
当時は城崎郡であって「城崎」と呼ばれ、標高49mの神武
山(じんむさん)に建つお城も「木崎城(城崎城)」と呼ば
れていました。

宮部継潤は、豊かなところと言う意味の「豊岡」に地名を変
えます。そのため、それ以後豊岡城と呼ばれました。
江戸時代に入り元和元年(1615)の「一国一城令」で出石城
のみが残され、豊岡、竹田、八木のお城は廃城となります。

豊岡の地には宮部氏のあと、秀吉直参の木下重堅(3年)、尾
藤知定(3年)、明石則実(9年)と続き、さらに石田三成の
妹婿福原直高(2年)、そして杉原長房が慶長2年(1597)に
着任します。
それ以降、杉原氏は三代重玄まで承応2年(1653)の56年間
にわたり続きました。

杉原氏が断絶した後14年間の空白を経て、寛文8年(1668)
に、京極家が田辺(舞鶴)から移封されて豊岡に来ます。
明治維新を迎えるまで200年間、京極家の豊岡の歴史が続きま
す。


『よ~ね~』

 但馬弁で「よ~ね~」は何の意味でしょうか。まさか「用(よ
う)ね~(用事がない)」ではありません。
「よ~ね~」の本当の意味は、「よくない 良くない」なのです。

「ケンちゃんね、友達の家に遊びに行って帰る時、おばちゃんに
お礼のあいさつちゃんとした。してない。そりゃあ~よ~ね~な。
ちゃんとあいさつせんとあかんよ」なんて言う時に使います。

「良くないな~、良くないな~」と言う時に、「よ~ね~、よ~
ね~」と言いますね