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できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

「コンプライアンス」論の「前提」の問題

2006-09-23 08:54:34 | 新たな検討課題

大阪市の市政改革や、この間の旧芦原病院・飛鳥会事件の問題などに関連して、公務員の「コンプライアンス(法令順守)」を説く議論が活発になっています。

しかし私は、この「コンプライアンス論」の「前提」をいくつか疑ってみると、「これって、いろいろ限界があるんじゃないか?」「むしろ、どういう前提にたってコンプライアンス論を主張しているのか、そこに問題がそもそもあるのではないか?」ということに気づいてきました。

例えば、日本の法体系全体を考えてみたとき、日本国憲法―(基本法、国際条約)-各法律―政令・省令等―地方自治体の諸条例―地方自治体の諸規則・内規など、というヒエラルキーがあります。また、あらためていうまでもなく、日本国憲法は、現在のところ、「国の最高法規」であります。

したがって、この「各法律」以降の部分において、憲法の定める諸原則をふみにじるような下位の諸法令・諸規則が整備されたり、行政当局により法令・諸規則の運用が行われた場合、本来の「法令順守」というのは、その下位諸法令・諸規則そのものの誤りをただしたり、あるいは、その運用上の問題点を是正して、憲法上の諸原則に回帰することであると考えられます。

また、この発想に立てば、少なくとも日本国憲法に定める諸原則は今は疑わないこととしても、その下位に位置づく諸法令・諸規則に定めていることと、その諸法令・諸規則の行政当局による運用は、いくらでも「疑いうる」ということになります。両方とも、本来「法令順守」という観点から見れば、疑ってかまわない、ということだと私は思うのですが。

ところが、昨今の「コンプライアンス」論というのは、この「下位に位置づく諸法令・諸規則に定めていること」自体を疑わず、ただ「諸法令・諸規則の行政当局による運用」のみを疑うという傾向が見られます。それは、昨今の大阪市政改革で主張されている「コンプライアンス」論、市政改革を後押しするかのような主張を繰り広げている市民団体の「コンプライアンス」論に、顕著な傾向のように思います。さらに、昨今の「コンプライアンス」論というのは、「今ある諸法令・諸規則が、日本国憲法に定める諸原則に対して、基本的には誤りのないものである」という前提に立っているのではないか、とすら思ったりもします。

でも、私などは、「本当にそうか?」というところで、すでに、この昨今の「コンプライアンス」論に対して、「疑い」を持ってしまいます。

例えば、日本国憲法第26条の「義務教育の無償性」原則から考えると、学校における「食育の重要性」とかあれこれいいながら、教育行政当局が各学校で「給食費」を子どもの保護者から徴収しているのは、いったい、どういうことなのでしょうか? これって、「コンプライアンス」の原則から考えると、「おかしい」ということになりますよね。

また、教育基本法では「授業料不徴収」を定めているから、教育行政当局としては「義務教育の無償性=授業料不徴収」だという言い逃れはできます。しかし、同じ教育基本法では、「経済的理由により就学困難な状況」にある者への支援を講じる責任を教育行政当局に求めています。とすれば、「給食費」が払えない子どもや保護者が各学校にいた場合、その子どもの「給食費」をなんとか工面する責任は教育行政当局に生じますよね。

こういう観点からも、実は「コンプライアンス」を説くことだってできますし、このように見ていけば、これまで子どもの学習権保障などを説く人権論だって、「コンプライアンス論」の一形態だという見方もできるんですよね。

で、こういう例を挙げていったい何がいいたいのか。

「コンプライアンス」論は、例えば子どもの人権保障や学習権保障、国民の憲法上の諸権利の保障などという観点から主張されるのか、それとも、ただ単に公務員の違法行為の抑制や、公金の不正支出の防止などという観点から主張されるのかで、ずいぶん、その議論の方向性が異なる、ということです。

ある意味で、生存権や学習権の保障など、国民の憲法上の諸権利保障を現行法令・諸規則を根拠に主張する議論だって、「コンプライアンス」論の一形態なのではないでしょうか。こういう風に考えると、既存の「コンプライアンス」論の「前提」を疑うことも可能ですし、既存の「コンプライアンス」論とは異なる土俵にたった議論もつくることが可能です。

そして、公務員の違法行為の抑制や公金不正支出の防止といった観点からの「コンプライアンス論」が栄えて、本来、行政当局が目指すべき「国民の憲法上の諸権利保障」という観点からの「コンプライアンス論」が弱まっていくことを、私は大変、危惧しています。


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斎藤貴男『安心のファシズム』から

2006-09-23 08:03:30 | ネット上でのバッシング考

今日はまず、斎藤貴男『安心のファシズム』(岩波新書)p.25~27の引用。

<以下、同書からの引用文>

 にわかには信じられないほど陰惨な差別表現の連続には、どこか痛々しささえつきまとう。こうした封書やハガキが、おそらくは同じ人物によって百通以上。関係者の自宅の住所を調べる手間も相当なものだ。差別がいけないとか何とかいう以前に、具体的に関係しているわけでもない相手に、ここまでのことをしなければならない理由、エネルギーの源泉はどこにあるのだろうか。

 長谷川三郎・解放同盟東京都連書記長に話を聞いた。この種の問題への対応を長年こなしてきた彼は、封書の主の主体を、こう推察している。

「小さい頃から偏見を身につけて、差別感情を増幅させていた人ではないような気がします。付近に被差別があって直接に接したとか、親や周囲の人間に差別を植え付けられたというのでもないのでは」

―どういうことですか。

「リアリティがないんですよ。たとえばの者にひどい目にあったから憎んでいるといったような、差別に至る実体験の裏づけがまるで感じられない。ただ世の中には被差別なるものが存在しているという“情報”を何かで知って、そこには解放同盟という悪い奴らがおるぞと、これも頭のなかだけで“情報”として理解した。それで、そのバーチャルな情報をもとにこんなことを繰り返しているのではないかな。

 だから、相手がどう傷ついたかということには、あまり関心もない。自らの行為そのもの、また社会的に騒がれることに快感を覚えている。そんな人間を想像します。(後略)」

このブログに、あるサイトからリンクを経由してきた人々のなかに、こういう意識の持ち主はいないのだろうか。もしもそんな意識の持ち主がいたとするなら、私は自分の日記帳ブログや、このブログに対しての、そういう人物のアクセスは「大変迷惑である」とお伝えしておく。そういう人物は、二度と、私の関係するブログにアクセスしてほしくない。


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