働き方改革で置き去りの「教員の長時間労働」、残業代ゼロを明記した「給特法」が課題
(弁護士ドットコムニュース、2017年3月27日)
https://www.bengo4.com/c_5/c_1637/n_5889/
最近、教員の長時間労働や多忙化が議論になっていて、そのこと自体は個人的には好ましい限りだな、とは思っています。
ですが、昨今のこの問題に対する議論の在り方には、私としてはなにか「物足りなさ」を感じる思いもあります。
結論から先にいうと、「表層的な現象をとりあげての論評、それにもとづく対策の提案が、大きな政治的・社会的な構造の問題をスルーさせていて、問題の根っこをずっと残し続けていくのでは?」という思いを、昨今のこの教員の長時間労働や多忙化の問題に関する議論には感じてしまうからです。
というのも、私としては、次の(1)~(6)ような要因といいますか、政治的・社会的な構造の問題が、教員の多忙化や長時間労働には背景にあると思うのです。
にもかかわらず、私としては、昨今の教員の長時間労働や多忙化に関する議論では、下記の(1)~(6)までの政治的・社会的な構造の問題についての話は、あまり強くない印象を受けるのです。
(1)まず、昨今の議論では、この何年間か教員給与費の国庫負担を圧縮したり、ことあるごとに正規教員数を圧縮せざるをえない方向に動かされている昨今の教育行政(文科省及び自治体教育行政)と、そういうことを教育行政に求め続けている財務省への批判はどこに位置づくのでしょうか?
(2)また、この何年間か、正規教員数を圧縮せざるをえない方向に動いているにもかかわらず、次々に「あれをやれ、これをやれ」と教育再生実行会議、あるいは中教審などに矢継ぎ早に答申を出させて、文科省経由で政策としておろしてくる政権与党と、それに「忠実」につき従っている文科省への批判はどこに位置づくのでしょうか?
(3)さらに、上から矢継ぎ早に降りてくる教育政策に対して、各自治体の教育行政レベルで課題をいったん整理して、ほんとうにするべきことと、後回しでもよさそうなこととを整理することも可能かと思われます。
でも、それがほんとうにできているのかどうか?
そういう自治体教育行政としての対応への批判はどこに位置づくのでしょうか?
(4)あるいは、上から降ってくる教育政策に輪をかけるように、次々に自治体独自の教育改革を打ち出して、それをウリにしようとする首長、地方議会関係者もいます。
それはある意味で「やらなくてもいい余計なこと」を学校現場に付加しているわけですが、そういう首長、地方議会関係者への批判は、どこに位置づくのでしょうか?
(5)そして、近年では何か重大事態が起こったら、学校や教育行政の対応について、さまざまな批判や非難の声がマスコミなどから起きます。
これに備えるかのように、文科省も自治体教育行政も、学校現場に注文・指示を出す形で、それへの予防線を張るような「対策」をとっています。
また、その「対策」をつくるためと称しての「実態調査」をしたり、「実情報告」をさせています。
これもまた、学校現場にとっては「多忙化」の一員かと思われます。
ある意味、教育行政からは「私たちは常々、現場を「指導」してますから、あとは現場が悪いんです」という言い訳、アリバイづくりのための仕事のようなものですが・・・。
この点に関する批判は、どこに位置づくのでしょうか?
※もうひとつ付け加えるならば、実は私のような学校事故・事件の問題を扱ってきた研究者・専門職も、たとえ善意や必要性があってしていることとはいえ、この(5)については、構造的に教員の多忙化等々を加速する方向に加担してしまっている一面があります。
その点は、深く反省しておきたいところです。
これまでとは異なるもっと別の方向からの課題の指摘、改善策の提案はないのかと、私としてもこの(5)の課題を重く受け止め、自分たちの議論の在り方を見直したいなと思っています。
(6)これに、地域によってはたとえば学校選択制と学校統廃合がくっついて、「なんとか子どもを集めるために特色ある学校づくりを」みたいな動きをしなくてはいけないところもあります(そのため、学校は常に子どもを集めるための「改革」に走らされる・・・)。
あるいは「競争主義」とか「成果主義」の導入、あるいは「学校の説明責任」等々の理由付けを伴って、たとえば各校に「学力向上のPDCAサイクルつくれ」という要請が教育行政から出される。
その上で、教育行政からは各校に「実施計画だせ」とか「計画どおり行われているか点検の結果示せ」とか、その結果示したら「改善策だせ」とかいわれて、それで現場では書類に追われるわけで・・・。
こうしたことに対する批判は、どこに位置づくのでしょうか?
結局、以上のように、教員の多忙化や長時間労働等々の問題って、こういう5つか6つの政治・社会的な構造に規定されているように、私としては思うんですよね。
ですから、その大きな5つか6つの政治・社会的な構造にはまったく手をつけないなかで、他方で「現場で上手く工夫して、早く帰れるようにしろ」というかのように、教育行政は学校現場に対して「勤務時間の適正化」通知みたいなものだして、何か、改善に向けて動いているような「ふり」をしているようにしか思えなかったりするんですよ。
もちろん、ほんとうに「何もしない」よりは、学校現場に向けて「勤務時間の適正化」通知出す分だけ「まし」なのかもしれません。
でも、「教育行政がその通知の趣旨、本気で実現するつもりなら、まずはこの5つか6つの政治的・社会的構造を根本的に転換しないと無理なのとちがいますか?」と、私などは言いたくなってしまうんですよね。
なにしろ、気をつけないと、このままだと、たとえば「勤務時間の適正化」通知後どういう改善を学校現場でしたのか、教育行政へ書類で報告しろという作業のために、個々の教員が勤務実態の報告書を書き、校長や副校長・教頭、教務主任あたりがその報告書をとりまとめて学校としての行政宛ての報告書をつくって・・・なんて具合に、余計な書類作成業務が増えかねなかったりします。
あるいは「毎日夕方5時になったら全員、学校を出ましょう」「休日出勤はやめましょう」という「勤務時間の適正化」通知どおりの実態を一方で実現しつつ、他方で「持ち帰りの仕事が増えた」「早朝に出勤するようになった」「家で夜、寝る時間を削って作業をしている」等々の実情が生まれたら・・・。
「学校としての書類上の多忙化・長時間勤務解消」のために、「個々の教員のヤミの作業時間が増えた」
なんてことも起こりかねないのが、今の学校の状況ではないかと思います。
どうしてそうなってしまうのかというと・・・。
私としては、やはり上で述べたような(1)~(6)の構造的な要因が全く解消されないなかで、「とにかく、現象的な部分だけ問題がなくなった形をつくればいい」という風潮が、こういう対応を生み出してしまうのではないか、と思うのです。
だからもうちょっと、いま起きている現象的なところで議論をして、現象的に課題が解決されればそれでいいっていうレベルにとどまるのではなくて、歴史的に形成された政治・社会的な構造を見るところから議論を深めてほしいと思うんですよねえ、この教員の多忙化や長時間勤務の問題って・・・。
せめて今後、「教員の勤務時間、これでいいの?」と、批判的に問題提起する側からは、上記(1)~(6)のような政治的・構造的な問題の所在を示しておかないといけないように思うのですが。