つれづれ日記

~認知症に備えて~
(H26/11/21geocitiesから"goo"に引越)
(写真はクリックすると大きくなる)

千波湖畔の桜田門セット

2010-01-24 19:04:00 | 

 水戸藩開藩四百年年記念の一環でいろいろな行事が催されているが、そのうちの一つに、吉村昭氏著「桜田門外ノ変」の映画化がある。そのため、千波湖湖畔には江戸城内、桜田門、彦根藩邸門などのセットが建設されている。1月19日からクランクインしたそうである。

 今日天気予報から快晴であることが分かったので、奥久慈男体山に登ろうと思ったが、昨夜いつものように寝るのが遅くて、今朝起きるのが遅くなってしまい、出かけるのを止めた。

Blog1001241  夕方、久しぶりに自転車で千波湖に行き、このセットの状況を見てみたくなって出かけた。しかし、あちこちが立ち入り禁止になっていて傍には近寄れなかったので、遠くから左の写真を撮った。

 説明板などがなく、はっきりとは分からないが、正面奥の赤い扉は彦根藩藩邸であろう、と思った。彦根藩は赤備えで有名なので、扉もそうしたのだろう。右手前はその大きさからこれが桜田門ではないかと思う。

 どんな映画になるのか楽しみではある。


新秋の白河・棚倉訪問

2009-10-20 22:05:16 | 

 本日わくわく歴史同好会主催の「新秋の白河・戊辰戦争140年前の旅」と銘打った日帰りバス旅行に参加し、新秋の一日を過した。

00shirakawajyo  8:05水戸駅南口およそ100名が2台のバスに分乗して出発、北関東道・東北道を経て、白河ICを降りて白河小峰城に11:55到着。白河小峰城を見学した。この城はすでに平成18年(2006)9月11日に訪問しており、また今回は許された時間は1時間程と短いために天守に上ったり写真を撮ったのみだった。

00suibouen  その後、南湖公園に移動し昼食後、翠楽苑を散策した。どういう訳か林床にリンドウやホトトギス、カワラナデシコの花もあった。緑の松、色々な彩の紅葉が素晴らしくモザイク模様が素晴らしかった。苑内の茶屋で抹茶(茶菓子付、500円)も楽しんできた。

00yamamotofudouson  13:30少し前に南湖公園を出て、棚倉にある山本不動尊に14:13に到着した。両側に青銅製と見まがうプラスチック製の童子が並ぶ長い石段(130段とか)を登ると、大きな岩の下の空洞に御社が鞘堂(空海の御持仏が御神体とか)の中に納まっていた。傍らには、返照大師金剛像があった。

 15時に発って、途中道の駅「大子」にトイレ休憩をして、17時半過ぎに水戸駅南に到着、計画より30分ほど早く帰着した。


悠々旅行(5日目):安土城と観音寺城

2009-05-27 22:41:00 | 

00aduchijyo  滋賀県立安土城考古博物館とその近くに立つ安土町立安土城天主信長の館をじっくり見て廻った後安土城址駐車場に車を入れた。予想より広い城址に天下統一の拠点とした織田信長の思いが伝わる。標高約197mの安土山に築いた山城は現在石垣・曲輪跡しか残っていないが、近世城の始まりともいわれ、天守(安土城の場合は天主という)が始めて造られたともいう。入口正面から伸び上がる石段(写真)は両脇の側溝を含め10m近くになる。二の丸跡には、秀吉が建てた信長公本廟がある。

00kannonjijyo  13時30分に安土城址を出て、有料道路を通り観音正寺駐車場に駐車。手摺に西国33番札所(観音寺は32番札所)に因み33のことわざを書いた短冊がぶら下がった石段を登る。そこに現在観音正寺が建つ。この標高約433mの繖(きぬがさ)山の南腹に曲輪を配し、家臣や国人領主の居館を配置した。観音寺城は六角氏の居城であったが、永禄11年(1568)信長が足利義昭を擁して上洛の大軍を起こしたとき六角氏は敵対した。このため信長は支城の箕作城を猛攻、そのすさまじさに六角氏は観音寺城を捨てて逃げ、城は無血開城さた。以後廃城となった。現在は、石垣・曲輪が残っているだけである。

 15時過ぎ観音正寺を出、途中コンビニでパンと牛乳でお昼を済ませ、八日市ICで名神に載り吹田JCTで中国道、神戸JCTで山陽道に載って、途中吉備SAでお土産を買って笠岡ICで下り、妻の自宅に18時30分に到着した。本日朝水戸を発って、新幹線「のぞみ」で1人で来る予定だった娘は既に着いていた。


悠々旅行(4日目):名古屋城と岐阜城

2009-05-26 22:26:00 | 

00nagoyajyo_2  予定通り朝昨日と同じ二の丸東駐車場に車を入れ、城内に入る。9時開場に合わせ入ったので、まだ早いせいか人出はなかった。時間が経つにつれ人出は多くなり、韓国語・中国語もよく聞こえるようになった。名古屋城は、慶長15年(1610)、家康第9子の義直の居城として天下普請で築城開始、同19年(1614)に完成した。大坂城への備えとして造られた名古屋城は江戸城、大坂城に次いだ城の大きさであった。明治の廃城令にも拘わらず旧国宝24棟はじめ多くの建造物が残存していたが、先の大戦により昭和20年(1945)5月14日のB-29 の焼夷弾により天守を含むほとんどの建物を焼失した。現在、本丸辰巳櫓・未申櫓・南二之門、旧二の丸東鉄門(現在本丸東二の丸門跡に移築)・西鉄門二之門、御深井丸戌亥隅櫓の6棟のみが現存、天守・小天守は昭和34年(1959)鉄筋コンクリートで再建された。名古屋城天守(5重7階地下1階)は現存天守で最大の姫路城天守の3倍以上の容積を持つ。

00gifujyo  4時間を掛かって見回ったが、本日はこれから岐阜城に行き、夜は琵琶湖東岸近江八幡で泊まる予約をしているので、高速に載り岐阜に向かった。岐阜市内吉野家で牛焼肉定食の昼食を摂って岐阜公園駐車場に入れた。麓の居館跡辺りを見て廻った後、ロープウェイで山上に上がり、そこから山道を登って天守を訪れた。

 永禄10年(1567)斉藤龍興から奪取した織田信長は、稲葉山城の縄張りを破却し新たに岐阜城とし造営。信長は安土城に移るまで、金華山山麓の居館に住んだ。織田信長の孫秀信が入っていたが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い直前に東軍に攻められ落城。戦後家康の娘婿松平信昌が入るが、直ぐに居城を加納城に移し廃城。現在は石垣・堀・曲輪などが残る。昭和31年(1956)7月25日鉄筋コンクリート3重4階建ての天守が復興された。

 岐阜市内でガソリン満タン(56.96?)して、岐阜各務原ICで東海北陸道に載り、名神道に入って八日市ICで下り、事前にネット予約していた近江八幡市内のビジネスホテル西ノ庄に泊まった。


悠々旅行(3日目):長篠城と名古屋城

2009-05-25 22:32:00 | 

00nagashinojyo_5  浜松のホテルを発って国道257を北上し新城市へ向かい長篠城跡を観察した。寒狭川と宇連川の合流する三角地点の断崖上に本丸跡があり、それを囲む曲輪や空堀跡が残る。しかし、城内をJR飯田線が分断している。天正3年(1573)長篠の戦の際、家康家臣奥平貞昌(信昌)城主のとき武田勝頼軍が城を包囲したが、落城寸前で織田・徳川連合軍が救援に駆けつけこの城を死守した。そのときの鳥居強右衛門の話でも有名な城である。

00nagoyajyo  長篠城からは国道151を通り、途中設楽原歴史資料館に寄って見学後、豊川ICで東名に載って名古屋に出た。名古屋城二の丸東駐車場に入ったのは15時30分だった。城内に入って見るには時間が足りないので、本日は、外堀を一周し観察するだけにし、城内へは明日入ることにした。

 夜は、ネット予約していた名古屋笠寺ワシントンプラザホテル宿泊。


悠々旅行(2日目):掛川城と浜松城見学

2009-05-24 22:26:00 | 

00kakegawajyo  静岡ICから掛川ICまで東名を通り、掛川城に到着。総構えの城でその堅固さと美しさから「東海の名城」と謳われた。現在は、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊後、安政2年(1855)から文久元年(1861)にかけて再建された二の丸御殿と太鼓櫓が残る。平成6年(1994)に木造復元された3重4階の天守が聳える。

00hamamatsujyo  再び、東名に載り、浜松ICで下り浜松城に向かった。浜松城は、家康の飛躍の城でもあり、江戸幕府の重職に就く登竜門となったことから「出世城」といわれた。家康は29歳から45歳で駿府城に移るまでの17年間在城した。現在は石垣・曲輪の一部しか残っていないが、昭和33年(1958)に鉄筋コンクリートで3重の天守が模擬復元されている。

 夜は、ネット予約していた浜松市内のホテル明治屋で宿泊。


墓参兼悠々旅行(1日目):富士山と駿府城

2009-05-23 22:59:00 | 

 毎年この時期は亡妻の墓参りに岡山に帰る。今年もこれを利用して、悠々旅行をすることにし、城めぐりと山登りをすることにした。

00fujisan  今日は、初日で茨城町東ICで高速に載り、常磐道、首都高、東名道を通り富士川SAで富士山を見、昼食をとって静岡ICで下り、駿府城に向かった。

00sunpujyo  家康が今川の人質となっていた城であり、将軍を秀忠に譲った後隠居城としここで亡くなった城でもある。現在は、堀・石垣・曲輪しか残っていないが、平成になって二の丸東御門と巽櫓が木造復元されている。

 夜は、ネット予約していた市内の静岡キャッスルホテル佐乃春に宿泊。


月山富田城訪問

2008-12-15 23:55:00 | 

 朝、7時過ぎ安来駅近くの宿で、起床。宿の朝食を食べ、8:02発のバスに乗り込み、広瀬町の安来市民病院に8時30分頃到着、下車。飯梨川(旧富田川)に架かる新宮橋を渡り、約10分強歩いて安来市歴史資料館に到着。脇の道の駅は10時から、資料館は9時30分から開館ということで、時間が早すぎたので入れず、先に月山富田城に向かった。小雨が降り続いている。

Blogshikanosuke  歴史資料間の前の道を南に進みと直ぐに月山への登山口が左にある。この御子守口から舗装道を左に入り進む。しばらくして左に鋭角に北に向きを替え山道に分け登ると千畳平に出る。隅には尼子神社があり、その脇を進む登ると太鼓壇に出る。ここには、山中幸盛(鹿介)公祈月像の大きな像が建つ(昭和53年7月17日)。さらに進むと奥書院平があり、ここには、広瀬町戦没者慰霊塔(昭和43年10月)の大きな塔が建っている。

Blogsanchugoten Bloghananodan  さらに進むと花ノ壇に出る。現在は南の端に2棟の建物が建っており、主屋と侍所を復元したもの。ここは、監視所であり、防御の兵士が待機する場所と考えられる。さらに進むと、御殿平というところに出る。ここは、山中御殿跡で、富田城の御殿があったところと伝えられる。周囲を石垣や土塁で囲まれた広い曲輪で、南北には虎口が存在し、石垣の櫓台も残っている。菅谷口・塩谷口・大手口と3方からの通路の終点となっていて、これから先(上)の三ノ丸から本丸に続く要の曲輪である。

 ここから、七曲坂と呼ばれる九十九折の山道を登ると、三ノ丸に着く。途中、親子観音がる。これは、慶長12年(1607)に富田城内で起こった堀尾家御家騒動の張本人、堀尾河内守とその一子掃部の霊を祀った宝筐印塔である。さらに登ると、山吹井戸を経て尾根に取り付き、そこが三ノ丸である。段状に石垣が積まれ、その段の上は武者走りの役目があったのではないかと思われる。何故か石の鳥居があり、標高およそ186mであった。その南には約4mほど高い位置に二ノ丸が続き、休所が1棟設けてある。ここは、戦時に飲み水や食物を貯蔵するための建物だったと考えられており、それを復元したものらしい。ここから南は、深さ10mほどの空堀(堀切)を隔て本丸がある。

Blogshikanosukekinenhi  本丸はニノ丸と三ノ丸をあわせたくらいの広さがあり、北西から南東に細長い。本丸のほぼ中央東北部には山中幸盛の記念碑(明治44年12月建立)がある。さらに、奥の少し高くなった場所には城の守護神社である勝日高守神社が建っている。本丸からは東北に京羅木山、北方向に中海が見える。

Blogootemonato  本丸から山中御殿まで往路を引返し、そこからは、西北部の大手門口を抜け、谷筋に舗装道路を北に歩いた。途中には田んぼの向う尾根麓には曲輪跡とも見える土塁が点在している。間もなく、往路で千畳平に分け入った道の分岐に出る。ここからは、また往路を戻り、安来市立歴史資料館に11時50分少し前に戻った。

Blogshiryoukan  資料館の前のバス停の時間を見ると、この月山バス停発12時41分だったので、早速200円の入館料を払って観覧。係りの男性と色々話を聞かせて貰い、山陰の城館跡を纏めた資料をも戴いた。2階の展示場は時間が来てしまったので途中までで全部は見ることができなかった。担当の男性の方には色々お世話になったが、名前を聞き忘れてしまった。

 13時15分安来駅に到着、今年4月に出来たばかりの駅舎の中にあるレストランで、おいしいビーフシチューカレーとコーヒーをゆっくり戴いて、色々お世話になった駅舎内の案内所にお礼を言って14:17やくも20号で岡山駅へ、同駅16:49発のぞみ38号、上野駅発21:00スーパーひたち63号で水戸駅着、タクシーで帰宅。長い、充実した1日が終わった。


松江城訪問

2008-12-14 22:40:00 | 

Blogyonagobashi  今朝は岡山を発って、やくも5号で松江に来た。松江城を見るためである。岡山を発つときは曇だったが、さすが山陰に来ると雨だった。バスで県庁前まで行き、そこから雨の中を大手前近くの堀川めぐりの船着場へ歩き、1200円を支払い堀を一周する船に乗った。乗船場はこの他2箇所、計3箇所あるようだ。城山内堀川から北上し、北田川を西北にすすんで、城山西堀川を南下最南端部で外堀に向かい京橋川へ出ると東に進み甲部橋を潜り米子川を北上して北田川を西に進み、宇賀橋を潜って直ぐ城山内堀川を南下して大手前発着場に戻る約40分の遊覧だった。(左上写真は米子橋)

Blogmatsuetenshu  その後、大手前にボランティアガイドの方に案内してもらって、天守まで説明を聞きながら案内して貰った。天守最上部で別れ、その後、小生は一人で本丸内を通って北にある北ノ門跡を通り、水ノ手門跡を抜け、馬洗池の脇を鋭角に北西に北ノ丸を横切り搦手之虎口を通り内堀に架かる稲荷橋、新橋を渡って、内堀外側に沿って時計回りに歩いた。途中、ボランティアに薦められた共通入場券の対象である小泉八雲記念館と武家屋敷を見て宇賀橋を渡り、南に進んで大手前まで戻った。

 日も暮れ始めたので、バスで松江駅までもどり、17:18発の電車で今夜の宿を予約している安来に着いた。外はすでに闇に包まれている。安来駅の立派な案内所で明日の月山富田城へのバスの時刻表を貰って、宿にチェックイン。すぐに近くの「かば」という店で夕食。ホテルに戻り風呂に入った後、クラブワールドカップサッカーのがんば大坂対アデレード・ユナイテッド(豪州)との対戦を見た。遠藤の唯一の得点で「がんば」が勝ち、ぐっすり眠れた。


岡山城訪問

2008-12-13 20:38:00 | 

 昨日水戸を発って、スーパーひたち、東京からのぞみで岡山に着き、駅前のホテルに宿を取った。当初は、今日出発することも考えていたが、小生の亡くなった妻の弟の長男の挙式が15時からで、その30分前には集合とのことであったので、ホテルチェックインし、式服に着替えてタクシを飛ばしても、大変なことが分かり、前日に岡山に入ったものである。

 したがって、午前中は空き時間があるので、岡山城を訪問した。前回訪れたのは平成17年(2005)3月21日だったので、ほぼ3年9ヶ月ぶりである。日本百名城が発表されたのは平成18年2月13日、そのスタンプラリーが始まったのは平成19年5月中旬からなので、そのときはスタンプは押すことはできず、今回岡山城のスタンプを押した。

 岡山駅前から路面電車に乗り、城下駅で下車(100円)、そのまま旭川に沿って歩き、北側の廊下門から入城した。

Blog081213  前回は気付かなかったが、岡山城の天守の三階から上の屋根・唐破風の丸軒瓦と全鬼瓦と鯱は金色に輝いていた。また、鯱は最上階の棟だけではなく、千鳥破風の棟にも金色の鯱があり、合計8匹の鯱が輝いていた。

 ボランティアの方としばらく話をし、天守に入り見学。常設展示は前回と同じであった。岡山城の資料本を1,530円で買い求めたが、現在の常設されているものを1冊の本に纏めたらそれも立派な資料本となるのにな~、と店の人に伝え、来た道を引返し、岡山駅のなかにある「めりけんや」という店で、900円也の海老かき揚げざるうどんを食し、ホテルに戻り式服に着替え、結婚式に出発した。


立石寺と白石城

2008-10-14 23:19:00 | 

 10/15(水)に中央蔵王縦走を計画した。それだけでは折角の足代が勿体無いので、本日14日(火)に立石寺(山寺)と白石城を訪れた。

Blogp1010076  朝、車で出発、日立南・太田ICで常磐道にのり、途中安達太良SAでトイレと安達太良山の写真を撮るために寄った。残念ながら安達太良山はかすんでいてはっきりとカメラには撮られられなかった。朝6時過ぎに家を出たので、途中眠くてしょうがなかった。

Blogp1080236  山形北ICで山形道を降り、そのまま山寺へ到着。400円の駐車料金を払い参拝してきた。山門より先は300円の入山料が必要だった。実は、今回の旅行は、紅葉を見るためだったが、山は青々としていて、ところどころ色づき始めたところで、時期が早すぎた。長い石段を登り、途中芭蕉の有名な「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」のせみ塚などや、修行場所などを通って奥の院、五大堂に登り、そこから山寺の町を俯瞰した。山寺から復路では、道端にあったリンゴ直売所でリンゴを買った。親切なおばちゃんで、色とりどりの種類のリンゴを試食し、おまけまで付けて貰った。

Blogp1010085  再び、山形北ICから山形道にのり、村田JCTで東北道を南下、白石ICで降りて白石城を訪れた。元和の一国一城令にも拘わらず許された城で、代々片倉小十郎を名乗る片倉家11代の居城である。城の北にある市役所の近くの白石城駐車場から歩く。1m強程度の小川(当時の堀跡)に沿って進み白石高校のところから坂を上ると本丸であった。本丸の土塁上をぐるりと一周した。本丸は、小峰城より少し広い感じがした。天守(三階櫓)への石段を登り入場料300円を払って中に入る。平成7年(1995)に木造で復元したという真新しい内部の作りは見事なものであった。内部で売っていた「よみがえる白石城」(1,050円)を買い求めた。

 白石城からは、遠刈田温泉にある今夜の宿であるペンション「ウッドチャック」に16:15に到着。本日の走行距離401.7km。翌15日(水)は中央蔵王縦走である。

 この紅葉を求めて東北の旅は、こちらを参照下さい。


多賀城訪問

2008-06-15 19:46:00 | 

 今朝7時半頃に自宅を出発、日立南太田ICで高速に載り、常磐道・磐越道・東北道・仙台南部道・仙台東部道を経て仙台港北ICで降り、多賀城へ向った。まず、多賀城市文化センターに車を停め、文化センター敷地内にある多賀城に赴任してきた陸奥按察使兼鎮守将軍大伴家持を顕彰する碑などを見て廻った後、センター内に埋蔵文化財調査センター展示室を観覧した(入場無料、写真撮影可)。主に、多賀城址の学術発掘調査による展示である。なお、文化センターは、水戸のそれに比べようがないくらい立派なものだった。

P1070617tagajyohaiji  そこを出て、多賀城廃寺跡(左写真は現在の様子)を訪れた。ここは、奈良時代(千二百数十年前)に陸奥国府と鎮守府の置かれた多賀城の附属寺院として建立されたもので、東に三重塔、西に金堂が向かい合い、中央南に門、北に講堂を配置して周りを築地が巡らされていた。現在はそれら跡に礎石が配置されているだけだが、この当時この地に建てられたとは驚くくらい立派なものである。昭和41年(1966)4月、多賀城跡とともに国の特別史跡に指定されている。

P1070634tagajyohi  その後、多賀城跡の北の駐車場に車を停めて、東側を南に進んだ。当時主要な役所として使われた作貫地区を通り、外郭南門跡に出た。多賀城碑(壺の碑:歌枕)は、徳川光圀が進言したという堂の中に収められている。松尾芭蕉もここを訪れ、壺の碑を見て涙を流さんばかりに感激している(元禄2年(1689))。これは、昔から真贋論争があったが、近年の研究により本物と結論され重要文化財に指定されている。

 ここから、南北大路跡を通り真直ぐ北に政庁跡に行き、政庁跡をゆっくり観察して駐車場に戻った。この多賀城址では、ボランティアの方々多賀城碑あたりに3人、政庁跡あたりに3人程度おられ、懇切丁寧な説明と資料を戴いた。この人たちには本当に頭が下がる。

 ここから仙台港北ICで高速に載り、東北道村田ICで降り、遠刈田にある今夜の宿、ペンションウッドチャックに向った。


墓参りの後、備中松山城と鬼ノ城

2008-05-29 21:57:00 | 

 5月29日は妻の祥月命日である。昨夜の残り雨が少し降る朝だった。9時に家を出て、墓参りを終え、戻った息子は、今夕高速バスで帰阪するので妻の実家に残し、小生は9:50に出発し、おじさん宅に寄り、その息子も交え1時間ほど話をして、11時少し前に備中高松上を目指し、高梁市に向った。細い山道をくねくねと上り、11:40、鞴(ふいご)峠駐車場に車を停めた。備中松山城は、天守が現存する12城の中では唯一の山城で、標高430mの臥牛山にあり、現存天守としては最高所にある。

P1070291ootemon  坂道と石段の登城路を登り段々と高度を上げ、大手門跡に到達。大手門付近には大きな自然の巨岩を組み込んだ石垣で重層的な防禦がなされていて、これでは攻撃は非常に困難と思った。実際、戦国末期の天正3年(1575)三村元親(家親嫡子)は小早川隆景の攻撃をよく防ぐが、兵糧攻めに遭い、内応者が続出したため自刃、陥落している。

P1070317tenshu  天守は、2重2階と小振りであるが、内部は予想より広い。現存する天守には唯一の囲炉裏があり、また水谷氏(常陸下館から備中成羽を経て備中松山城主)が始めた御社壇があり、珍しい。石垣、縄張の見事さを堪能し、14:30、次の鬼ノ城を目指し発った。

 途中、コンビニでパンと牛乳とアイスモナカの昼食を摂り、15:50鬼ノ城駐車場に着いた。その脇にある総社市鬼城山ビジターセンターに寄り鬼ノ城の模型(ジオラマ)や、西門の復元モデル2種を見、案内の人の説明を聞いた。7世紀後半に作られた古代山城で、吉備高原の南端に位置し標高約400mの鬼城山に築かれている。東西南北に城門が4箇所に設けられ、水門、角楼、高石垣などにより構成され、高度な技術、考えが反映されている。

P1070382minamimon  大規模な史跡整備と西門や角楼の復元がなされており、ハイキングコースとしても整備されている。入場は無料。

 日が翳り始めたので、18:15駐車場に戻り、1825出発。これから、徳島まで行かなければならない。瀬戸中央道に載り、初めての瀬戸大橋を渡った。途中、今夜の宿のみは予約していないので、徳島に必ずしも行く必要はなく、明朝徳島港に行く前に、折角ここまで来たのだから、是非鳴門の渦潮を見て帰りたかった。そこで、行き先を鳴門市に変更し、20:10鳴門のビジネスホテルにチェックインした。夕食は、近くの村さ来で摂ったが、冴えなかった。


丸亀城と高松城

2008-05-27 20:24:00 | 

 丸亀プラザホテルは丸亀城からわずかの距離にある。またホテルのチェックアウトタイムは11時であるので、朝食後、9:03ホテルから歩いて出て、丸亀城に入った。前夜、ホテルに着いたとき、8階の城側の部屋を準備してくれていて、窓からライトアップされた天守が暗い空に浮かんでいて見事な景観を見せていてくれた。

P1070032marugamejyo  丸亀城は、海抜66mの亀山に四国一番高い3段の石垣を積み、その上に3重3階層塔型の比較的小さな天守を頂く。高麗門と渡櫓門からなる大手門は、大きく立派な枡形虎口で、この城の威厳を十分示している。見事だ! 大手門からは右に行けば御殿表門に至り、左に行けば見返り坂である。長い坂を登り三の丸、二の丸と螺旋状に登れば、本丸に到達する。

 還りは裏側、搦手門跡に出て時計回りに御殿跡を通り、御殿表門を抜けて大手門に戻った。

 11:00ホテルに戻り、11:10チェックアウト後、ロビーで1時間ばかりコーヒーと新聞を読み、パソコンでメールをチェックし過す(今回の一連の旅行中初めてののんびりタイムだった)。12:05ホテルを出発。

P1070103asahibashi  途中コンビニでパンと牛乳の昼食を摂り、やっと香川県立ミュージアムの地下2階に駐車場を見つけ13:20到着。高松城まで数分の歩きである。高松城(玉藻公園)東口入口(左の写真の旭橋手前)に来ると、脇に公園入園者(入園料200円)には無料の駐車場があった。事前に知っておれば、ここに駐車することができたのに、残念!

 高松城は、生駒親正が築城し、水戸光圀の兄松平頼重(常陸下館藩主から移封)が改築した城である。海城で、堀には海水が取り込まれている。天守は3重4階地下1階で南蛮造りであったが、明治17年(1884)取り壊されて、今は天守台が残る。この天守台も崩れる危険があり現在石は取り外されている。今年秋から元通りに積み上げられる予定になっている。天守は市制施行120年にあたる平成22年(2010)の着工を目指している。

P1070138tsukimiyagura  北之丸月(着)見櫓・北之丸水手御門・北之丸渡櫓(左の写真。なお、北之丸は新曲輪ともいう)、旧東之丸艮櫓(現在は、東之丸の東北隅から旧桜の馬場南西隅にあった旧太鼓櫓跡に移設されている)が現存している。これらは、昭和25年国重要文化財に指定されている。三之丸には松平氏の居館披雲閣がある。

 現存する城の周りを2回(1回周回後、有料駐車場から出、無料である玉藻公園の駐車場に入れた)周回して十分堪能して、17時本日の宿である東横イン高松中新町入った。


秋山兄弟生誕地、湯築城と今治城

2008-05-25 20:16:00 | 

 今日は、朝は曇だったが、昼前からは晴となった。

 昨日時間が短く、また雨も降ってじっくりと松山城を見て廻れなかったので、今朝再度見て廻ろうかと思った。しかし、歩いて近くにある秋山兄弟生誕地跡も坂の上の雲ミュージアムも見たかったので、そちらへ廻ることにした。

P1060774seitanchi  秋山兄弟生誕地跡に行ったが、9:30開館ということで門が閉まっており、中には入れなかった。外から覗いて我慢した。秋山好古の乗馬像、真之の半身像があった。仕方がないので、坂の上の雲ミュージアムへ行こうとそこにあった資料をみると、開館が10:00と書いてある。これでは今からいってもしょうがない、と諦めホテルに戻った。チェックアウトし、9:50ホテル駐車場出発。

 給油モニターが点滅を始めていたのでガソリンスタンドを探してうろうろし、やっと見つけて満タンにした。58.7?、@¥154/?だった。自宅を出て、ここまでの走行距離753.4kmで(フェリーでの洋上は約650kmだがガス消費は当然ない)、燃費は12.83km/?だった。

P1060800yuzukijyo 湯築城の周りを一周し、西口(湯築城搦手にあたる)にある駐車場に10:15駐車した。湯築城は、河野氏の本拠で源平合戦(1180~1185)で功績を挙げ、鎌倉有力御家人となり、伊予国の統率権を得たが、承久の乱(1221)で一時没落するものの、元寇(1281)で河野通有が活躍、確固たる地位を確立した。南北朝時代、通盛の頃には本拠を河野郷から道後の湯築城へ移した。全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより、小早川隆景に開城し(1585)、河野氏の伊予支配は終わった。天正15年(1587)、福島正則が湯築城に入り、東・中予の領地を支配し、のち、府中の拝志城に移り、湯築城は廃城となったと見られている。発掘調査が昭和63年(1988)に始められ、現在それに基づき武家屋敷などが復元されている。城跡は、2重の堀に囲まれており、中央部はこんもりとした山で、森となっており、頂上には展望台が設けられており、そこに立つと松山城の天守閣が望めた。現在、道後公園として市民の憩の場となっている。

P1060848yamazatoyagura  12:15湯築城駐車場を出発、途中コンビニでパンと牛乳の昼食を摂り、13:40今治城市営駐車場到着。3重の堀(海水を取り込み)に囲まれた典型的な輪郭式の海城だったが、現在は内堀とその内側しか残っていない。天守は、藤堂高虎が5重6階を建てたが、伊勢の津に転封となる。同時期家康が丹波亀山城を天下普請で築城の際、この今治城の天守を解体移築したという。もっとも、今治城の天守はもともと造られなかった、という説もある。現在は、昭和55年(1980)に模擬復元された5重6階の鉄筋コンクリート製が立っており、二の丸に山里櫓(西隅)、御金櫓(東隅)と、鉄御門(北隅)それに続く多門櫓・武具櫓が復元されている。また、本丸には、吹揚神社をはじめ数個の神社が鎮座している。

 16:20、今日の宿、ホテルポートサイド今治に到着。