昨日30日は、朝娘たちを岡山駅に迎え、先に予約していたレンタカーを借りて出発。 途中亡妻の母宅に寄ってしばらく過ごして、一緒に法事に出席。 大阪に住む息子は寺に先着していた。
法事もお斎も済んで義母宅に寄ってしばらく過ごして、息子と娘とその子と計4人で山陽高速で岡山駅前のレンタカー屋に帰着。一緒に夕食をと思ったが、息子も娘もお斎でお腹一杯といって夕食を摂らなかった。17時半過ぎの新幹線で2人とも帰っていった。娘は大阪駅から夜行バスで仙台まで帰り、翌朝そこから山形に帰るという。夕食を一人で摂ってホテルに帰る。 昨日から始まったプロ野球テレビ中継を見て、その後は今夜も生でさだまさしスペシャルを今朝まで見て寝る。
今日は岡山から帰宅するだけ。10時にチェックアウトし、駅中にある本屋で本を探して半藤一利著「幕末史」の文庫本を購入。岡山で新幹線に乗り込むときいつも求める「まつりずし」の昼食を摂る。車中では、文庫本を読み、 岡山城と工事中の姫路城の写真を走行中の電車から撮影。 帰路には、と思っていたが、やはり富士山は雲に隠れてまったく見えなかった。
夕食を水戸駅で摂って、タクシーで18時帰宅。
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7時起床、7:15から朝食を摂り、その後「河甚」の近くにある西光寺と左内公園を歩いてきた。西光寺は柴田勝家とお市の墓がある。お参りして、橋本左内の墓がある左内公園に行った。左内の大きな銅像も立っていた。
(写真は左から柴田勝家・お市の墓、橋本左内と橋本初代・父・母の墓、左内銅像)
9時頃宿を出て、車で数分の距離にある福井城西側御廊下門のすぐ脇のコイン駐車場に車を停めた。
福井城は現在内堀と本丸しか残っていない。そして、本丸には県庁、議事堂、警察本部がほとんどを占めており、往時の面影は本丸石垣と内堀にしかない。この故に百名城に入れなかったのだろう。
御廊下橋を渡り、本丸内を一周し、本丸の北東にある養浩館庭園とその西隣にある市立郷土歴史博物館(両館共通入館券¥330)を鑑賞した。
福井城は、二代将軍の兄である結城秀康67万石の城だけあって、残っている部分だけでもその巨城の一端が分かる。不祥事続きで32万石にまで減らされたが、明治維新まで存続し、幕末には多くの英傑を出した。
(写真は上段左から、御廊下橋/そこから本丸に西から入る山里口御門跡を見る。立派な枡形をなしている/天守曲輪で左天守台、右控天守台/福井の名のもととなった福の井。下段左から、本丸から乾方向天守曲輪をみる。この上に天守台、控天守台、福の井がある/大手口にあたる瓦御門多聞櫓跡から東に巽櫓跡を見る/東から内堀沿いに巽櫓跡と奥に御本城橋を見る/乾方向から内堀越しに本丸を見る。正面が天守曲輪、右端に御廊下橋を見る)
(写真は左から養浩館庭園内御月見ノ間から池越しに西を見る/池の東北から東の館を見る/松平春嶽の銅像が立つ歴史博物館入口部)
12時頃コイン駐車場を出て、途中のコンビニでタバコ1カートンを買って、丸岡城脇の一筆啓上茶屋に12:15到着。この茶屋で昼食を摂ることにしてメニューを見ると、福井県人セット(¥780)というのがあったので、それを注文した。
大根おろしのかかった冷たいソバが2皿と、かつ丼が1つでそれぞれは小振りだが、合わせると結構ボリュームのあるものだった。
12:55登城開始、天守台の回りを一周し、天守に入る(入場料¥300)。天守内部の階段は今まで登った天守の階段はせいぜい60度位だが、丸岡城の階段はいままでのどの天守の階段より急で、70度を超えるほどの傾斜だった。そのためか、どこにもなかった補助ロープが設けてあった。
天守最上階(3階)からは市街地の展望がが良く、天気の良いこともあって素晴らしい。
日本現存最古の天守をでて、そぐ下にある歴史民俗資料館(無料)に入って資料を見た。14:20一筆啓上茶屋の駐車場を出て本日の宿、和倉温泉を目指す。
14:25丸岡ICから北陸道にのり尼御前SAでアクエリアス買って、金沢東ICで北陸道を降り、能登有料道路・田鶴浜有料道路(4か所も料金所があってその都度停止を余儀なくされた)を通って、和倉温泉「花ごよみ」に16:17到着。風呂に入って、 部屋に配膳された夕食を摂り、それまでの記録や写真をパソコンに摂り込んで、24時就寝。
大阪のホテルで起床。サービスの朝食を摂り、コーヒを飲んで8:30出発。今年5月30日に登ろうと出掛けたが風雨のため断念した千早城を目指した。10時頃千早城登口の駐車場に到着したが、さらに奥に進んで、金剛山ロープウェイの所まで行ってみた。月曜日の言うのに結構な車が駐車していた。引き返して千早城大手口にある駐車場に引き返した(¥600)。
千早城は金剛山(1125m)の中腹にあり(最高所673m)、出丸として下赤阪城、本丸として上赤阪城、そしてそれらと連動した詰の城としての役割を果たしていた。元弘2年(正慶元年、1332年)楠木正成の築城になる。鎌倉幕府滅亡に繋がる千早城の戦いの舞台である。太平記によれば、100万の鎌倉勢を千人で守ったという。
60度を超える急な階段を登り、それに続く石段などを登り広々とした四の丸、小さな三の丸を通って25分歩くと二の丸跡にある千早神社に到着。ここには「史跡千早城阯」碑がある。 ここで近くに住むというご夫婦に会う。これから金剛山に登るとのこと。小生も一緒に登ることにした。丸太で造った段を登りながら進んだが、手に持っていたはずの記録帳がないことに気付いた。これまでの記録が一切なくなってしまうのは惜しいので、引き返すことにした。でも見つからず。千早城跡五輪塔(楠木正儀の首塚とも)を見て、本丸の東の分岐を北に七曲を降りて駐車場にまで戻った。途中バーナーでお湯を沸かしてコーヒとビスケットで昼食代わりとした。
鎌倉末期の城跡であり、今まで見てきた山城よりは小振りな縄張りであるが、楠木正成の差配よろしく、寡勢でよく大軍を退けた一端は見ることができた。
14時過ぎ駐車場を発し、途中で諸処でマンホールの写真を撮って15時過ぎ道の駅「万葉の里」に到着した。今日はここで車中泊する。紀ノ川の堤防をぶらぶらしたり、道の駅で富裕柿を買って、1個食べ、 散歩をしている地元の人と話をしたりして、2時間ほど過ごした。記録帳を失くしたので近くのコンビニまで行ってメモ用紙を買い、ファミレスのジョイフル・レストラン(このファミレスは知らないものであった)で夕食を摂った。 20時消灯。
7時駒ケ岳SAで車中目覚め、そこでバイキングの朝食を摂った。裏の高台ににある見晴らし台に登ると、西の近く順光の中に空木岳?が見え東の遠くに、逆光の霞んだ中に、間ノ岳、北岳、仙丈岳、甲斐駒ケ岳が見えた。
岡谷JCTで長野自動車道に入り、9:30梓川SAに車を停めた。遠くに見える雪を被った山々が気になったからである。すぐ高台の展望台にあがると、西に常念山脈の白い峰々が見え素晴らしいロケーションだった。 しばらく眺めて過ごした。
更埴JCTで上信越道に入り長野ICで降り、松代城に向かった。少しうろうろしたが、10:30頃松代城傍の市営駐車場に駐車。長野電鉄屋代線の向こう北側に松代城があった。
松代城は梯郭式平城であり、海津城とも呼ばれ武田信玄が軍師山本勘助に築かせた上杉との戦いの前線基地であった。近くには川中島古戦場もある。
近年本丸や内堀が修築され、本丸の南・北の出入り口である門と橋が復元され、東にも内堀に架かる橋が復元されている。現在は二の丸外側は全く様相が変わっているが、二の丸土塁も復元されている。管理棟は施錠してあり閉まっていた。
(写真左から:二の丸入口南門跡から本丸入口太鼓門を見る、太鼓門と内堀に架かる太鼓門前橋、本丸側から見る北不明門、二の丸北側から南東奥に北不明門その右端に戌亥櫓台の石垣をみる)
南側二の丸跡にある食堂兼土産物売り場のようなところでソフトクリームを食べながらしばらく話をして、駐車場に戻り真田宝物館に出掛けた。そこで、「松代城絵図集成」(¥1,000)と小冊子「探検しよう松代城」(¥100)を買った。長野市内の本日のホテルに行く途中にある「おぎの家」に13:40頃立寄り、自家製ソースカツ丼の遅い昼食を摂った。
食後は、自転車で遠乗りして帰宅途中に立寄ったという70歳の男性と、外のベンチで長い話をした。頑張っている小生と同年輩もいるのを見るとうれしくなる。
このおぎの家は何度か立寄ったことがあり、駐車場の隅に山本勘助の首を繋ぎ合わせたという橋「胴合橋」がある。今日もこれを見ようと足を運んだ。橋は幅およそ1.5m、深さ1.5mほどの石造りの小川に架かるもので、その橋を渡り向こう側から写真を撮ろうとカメラを抱えて後ろずさりに歩いた。小川が少しカーブしているのに気付かず、足を踏み外して小川に落ち、尻もちをついた。水深は30cm位の流れがあったので、手に持っていたNikon COOLPIX P500と、腰のバッグに入れていた携帯電話とコンデジのPanasonic LUMIX DMC-TZ3を水没させてしまった。レンズや液晶部分には水が入ってしまっているのが見えた。結局、動作不能となった。気を取り直して一眼レフデジカメNikon D5000で撮った。
(竹垣の向こう側がすぎの家の駐車場。書面に見えるのが胴合橋。それに落っこちた小川)
車内で全部着替えをして、がっかりしながら、今夜の宿である東横イン長野駅善光寺口に16:45着いた。
5月27日(土)に水戸を発って、29日(日)に雨の中岡山で亡妻の墓参りをした。
毎年この時を利用して、旅行するのだが、30日(月)の今日は千早城を見学しようと出掛けた。千早赤阪村で楠正成生誕の地(左写真)を訪問し、その脇の郷土資料館に入ろうとしたが、月曜日休館でできなかった。
雨と風の中を千早城目指した、途中傘をさしてリュックを背負い歩いている人がいたので尋ねると、金剛山に行くと。では、どうぞと乗せてあげた。
小生はといえば、雨風のために千早城に登るのは諦めた。引き返す途中下赤阪城跡の案内板があったので、千早赤阪中学校の間を抜けて城跡に登った。眼下には棚田百選に選ばれたという棚田が、規模は小さいが、広がっていた。目を上に向けると大阪の街が見えた。
森屋まで引き返しR309を南下、道の駅「吉野路黒滝」で昼食をとり、そこの道路情報掲示板を見ると、R309行者還トンネルの先で通行止めが記されていた。9:00~17:00の間落石対策工事のため通行時間制限であった(但し、昼の12-13時の1時間と、午前10分間、午後10分間の2回だけ通行可能)。さらに、この先天川村川合から行者還トンネルを越えた先の上北山村西原が大雨のため(降雨量制限越えのため)通行止めが分かった。そこで、R309を引き返し、R169で南下、途中大滝ダム建設ステーションに立ち寄って見て(ダムの貯水量は全然少なかった)、川上村役場で道路情報を聞くが、その先は分からないという。道路管理所の電話番号を聞いて直接コンタクトすると、これから雨が降らなければ、R309の降雨通行止めは17時解除予定だとのことだった。次の大迫ダムの蝶水量は多かった。
道の駅「上北山」で車中泊。駐車は写真の駐車場ではなく、左上にあがる第二駐車場に停めた(下は道路脇だからうるさいと思ったから)。
大和郡山のホテルを9:50出て、近鉄郡山駅そばの立体の三の丸駐車場に駐車(後で気付いたことだが、追手門傍に駐車場がありそこは無料のようだったので、失敗した)。いつものように外側を一周して竹林橋(土橋)から本丸に入り、柳澤神社に参拝し、場内を隈なく見て回った。
近鉄の線路や道路が三の丸を南北に突き刺しており、鉄門の石垣はそれなりにみえるが、柳門、桜門の跡などは石垣も一部しか残っていない。今から思うと残念。三の丸→二の丸→本丸へは時計回りの螺旋状の動線になっている。追手門から毘沙門曲輪入っても極楽橋(白澤門橋ともいい木橋)を落とせば、本丸は独立するようになっていて、堅い守りとなている。
現在、遺構は石垣と堀・池の一部しか残っていなく、建築物はない。しかし、追手門、追手門東隅櫓、追手向櫓が復元されている。
写真は左から、毘沙門曲輪東南隅と左奥に本丸へ入る竹林橋(台所橋とも)、天守台石垣東北隅から見る、右に追手門左に追手向櫓とその間を結ぶ多聞櫓、右端の写真は右に追手東櫓と左奥に追手向櫓。
駅前のセイユーの5階にあるレストランで釜めしの昼食を摂って奈良に向かい 平城京跡をぐるっと車で一周し、興福寺脇の駐車場に車を入れた。修学旅行の生徒たちが大勢見学に来ていて賑わっていた。五重塔の脇を通り、猿沢の池に行った。こちらは人もほとんどいなく、静かであった。学生時代自動車部にいてよく新人の運転練習に奈良まで来て、このあたりを回ったことがあったが、今やすっかり記憶はなくなっていた。45年以上も前のことだから無理もない。
その後は東に県道を抜け、R25(名阪国道)を通って、伊賀ICで下りてそのそばの道の駅「いが」に着いた。ジャンボトンカツ定食を摂って本日は、この旅中だ唯一の車中泊をした。
大阪のホテルを9:15出発、阪神高速に乗って南下、松原JCTを過ぎたころから雨が降り始め、美原JCTでは結構な雨になった。これでは、今日予定の高取城を見るのは難しいと思い、急遽予定を変更し本日に奈良、明日を高取城を見学することを考えて高速を下りた。しばらく走っていると、すぐに嘘のように雨が上がった。それでは、予定通りとしようと、再び高速に乗りなおした。10:38に高取町の「夢創館」に入り資料を貰い、貴重な情報を聞いて出発。近くのコンビニでおにぎりを2個買った。
11:33壺坂口への登り口の路肩に車を停め、11:46登り始めた。壺阪口門跡(左の写真)から郭内に入り右の侍屋敷跡には杉が、左の侍屋敷跡には竹の間の道を進む。壺阪口中門跡を通り大手門(御成門)の前の分岐に出る。この分岐で右に大手門(左の写真)を入ると二ノ丸から本丸へと城の南側曲輪に入る。左に進むと三ノ丸を通り北に二ノ門口に至り、その間をトラバースする如く真ん中を下ると吉野口門に至る。
二ノ丸から本丸に至り、立派な大天守台(左の写真。正面の石垣上に大天守、右端の石垣上に小天守があった)を見て本丸曲輪を隅々まで歩いてニノ丸に戻ると、男性1人が蛇腹のフィルム写真機を三脚に据えて写真を摂っておられた。二の丸の東屋や新芽のみずみずしい緑や桜のピンクが美しくそれを撮っておられたように思った。
挨拶をしてしばらく話をした。奈良在住の方でプロの写真家だった。記念に小生のコンデジで写真を数枚撮って戴き名刺まで戴いた(左が撮って貰ったうちの1枚)。その方はよくこの城にも来られているようで四季折々の写真を撮っておられるようだった。その助言もあって、芋坂峠方面の吉野口門跡まで足をのばし、引き返して、大手門前の分岐を三ノ丸方面から北に進んだ。途中の14時に到着した国見櫓跡では北西の方向(方位320度)に広がる葛城山(960m)から生駒山(642)が見え、その手前の畝傍山(199)は眼下にあった。 二上山(474)と信貴山・高安山(488)の間の稜線の凹んだ間からは遠く大阪市街地のビル群(左写真)も遠望できた。そこで、おにぎりを食べ、20分をゆったり過ごした。そこからさらに北に進んでニノ門跡まで行って、その外側にある猿石を見て引き返した。
再び二ノ丸から本丸に戻って一望した後、登ってきた壺阪口へ戻るのはおもしろくないので、二ノ丸と本丸の間の曲輪南に抜ける七ツ井戸のあるつづら折りの道を下った。すぐに舗装道に出てそれを下っていくと登り始めた壺阪口に15:23到着した。 ムラサキヤシオ(左写真)、ソメイヨシノの残り花、スミレ、コミヤマカタバミなどの花もあって十分楽しめた。
それにしてもこんな山上にこれほどの規模の曲輪を配置し、石垣を積み上げるとは凄いの一言。どこからこの石を運んだのだろうか、相当の資力・動員力、何よりも強い権力が必要で、やはり豊臣秀長によるものだろうと思う。 15:35発ち、途中五百羅漢の標識があったので立ち寄ってそれを見た。それは岩に掘られた多くの地蔵さんのように見えた(五百はとても無い)。「夢創館」に立ち寄り、お礼と報告をして、お茶を一服呼ばれて16:25発って大和郡山のスーパーホテル 奈良大和郡山に17:15到着。それまで雨に遭わなかったが、夢創館を発つ頃からポツポツと小雨になり、途中大雨になった。
ホテルを出て、まずガソリン満タンにする。これまで682.1kmを走行、燃費は12.26km/?だった。
昨日と同じく不明門内の駐車場に9:30到着。早速、新裏坂道を登り天守廓下に出る(上の写真は天守廓下から天守を望む。天守下は入場券売り場、左は楠門)。 450円の入場料を払って楠門への石段を登りそれを潜って天守廓に出る(左の写真は楠門)。 南西の隅に二の門櫓、北西の隅に乾櫓があって、周囲を多聞櫓で連結されており、いわゆる連立式天守である(天守は鉄筋コンクリート製)。小天守側から入り、大天守内を見て多門櫓内を一周して出た。ほぼ2時間以上かけた。
天守や多聞櫓の外側の天守廓を一周して、天守廓下の廓と本丸御殿下に出て、北に裏坂を下り二の丸庭園を散策した。ソメイヨシノは散っていたが、ボタンサクラが満開であった。その下では熟女が5人ほどで花見をしていた。二の丸入口付近にはボタンの花が一部綺麗に咲いていた。ここから見上げた天守も絵になった(左の写真は二の丸庭園から見上げた大天守と右に小天守)。
それから、何度も表坂と裏坂を登り下りして郭内を時間をかけて見た。本丸御殿と天守曲輪の間の木には台湾りすがいて、地元と思しき人が盛んに餌をやっていた。2匹まで確認したが、野生のものを餌付けするのは問題がある、と思ったが、注意をしなかった。悪げなさげに餌付けしていた人はどんな気持ちでやっていたのだろう? 何人かの散歩に来ていた人や観光に来ていた人(遠くは北海道からの若者1人もいた。すぐに関空から戻る少しの時間を利用して来た、と)とも話をすることができた。
下の写真は、昨日堀の外を一周したときに撮った写真。
(左はお橋廊下越しに左に大天守・その右手前に小天守・多聞櫓を挟んで右端に乾櫓を、中は岡口門越しに天守を、右は東堀越しに天守を望む)
結局、本日は丁度5時間を過ごして、14:30駐車場を出て、和歌山ICから阪和自動車道に載り、関西空港自動車道、阪神高速道を乗り継いで、15:37今夜の宿として予約しておいた東横イン大阪JR野田駅前に到着。有料自動車道の事業主体が細切れになっており、その都度、650円、500円、600円などと料金所を通過するのは煩わしかった。息子からの携帯メールが入っており、今夜一緒に息子夫婦と夕食をともにすることしていたが、19時に予約しているのでホテルまで迎えに来る、と。それまでに本ブログをアップした。
19時頃からイタリア厨房アンティヴィーノで息子とその嫁さんと3人で夕食。21時ホテルに戻りこの部分を追記。本日の記録をPCに入力し就寝する。
21日夕、元会社時代の同僚3人(小生含め計4人)と名古屋のホテルで待ち合わせて、会食。翌22日から23昼食後の解散までの間、名古屋見学(科学館、名古屋城、熱田神宮など)と名古屋めし(モーニングセット、鳥料理、ひつまぶし、味噌カツ、味噌煮込みうどんなど)の堪能である。
小生は、それだけで名古屋へ行くのは勿体ないので、本日17日に水戸を車で発って、18日和歌山城見学、夜大阪で息子夫婦と夕食をともにし、19日から20日の間で高取城、大和郡山城、奈良見学をし、21日に伊賀上野城見学してその夕に名古屋のホテルに入る計画を立てた。
本日は、朝5時40分に自宅を発って千波大通り(さくら通り)の桜のトンネルを通って茨城町東から高速に乗った。高速からの富士山もよく見えた。富士川SAや由比PAで富士山の写真を撮ったり、途中何回も SAでトイレ休憩と昼食を摂った。計画では本日中に和歌山に着いて道の駅かSAで車中泊する積りであったが、最後のSAである紀ノ川SAに13時26分と計画より早く到着してしまった(積算距離666.6km)。ブルーベリーパイを食べながら長い時間調整の休みを取ったが、今日中に和歌山城の外回りだけでも見ようと心変わりし、今夜はホテルに泊ることにして、このSAから東横インJR和歌山駅東口へ電話予約を入れた。
和歌山城不明門跡から入る駐車場は、本日は日曜日のせいもあって、混雑しており一台が出るたびに一台が入れる自動式になっていて、20分ばかり待たされた。結局、外周を一周し、途中で西の丸庭園内にある「紅松庵」で点出(和菓子付)を戴き、3時間足らず外郭回りを回って、ホテルには17:30到着した。郭内は明日のおたのしみにした(月曜日なので空いていることを期待)。(上の写真は岡口門(重文)から天守を見上げる。左はクスノキ、右はサクラ)
城の写真を撮っているときNIKON P-500が突然電源が入らなくなった。よく見ると、電池が落下して無くなっていた。買ってまだ間もないのに、残念。買ったばかりの時に突然電池蓋が開いて電池が落下することがあった。その時は何かの拍子にひらいたのか、と思ったが、また発生したとはおかしい。よく調べてみると、スライド蓋が甘い。ロック機能がなくただスライドさせるのみで、これでは何かのはずみですぐ開いてしまうと、思った。明らかに設計ミスと思う。
10月9日に出発して9泊10日の旅行から、本日無事帰宅してきた。
篠山城・福知山城・竹田城・出石城・鳥取城・米子城・吉田郡山城・津和野城・萩城の9城見学と、鳥取砂丘、大山登山、萩市内見物をしてきた。今回の目的は10/17日の亡妻の父親の一周忌の法要出席だった。
最初の10月9日は移動のみだったが、途中から大雨や渋滞などに見舞われた。後の10月10日から18日の9日間は晴天に恵まれて、計画通り総て実行することが出来た。往路では雨のため見えなかったが、復路では富士山が見えた。富士川SAで満タンと昼食のためOne-stopしたとき、富士山を撮るが、下り線からの方が見え方が良い。また、富士山は雪を頂いているほうが良い。
この内容の詳細は自分のWeb Siteに載せた(但し、城関連は調査・確認事項を沢山含んでおり、作成出来ていない)。
赤松PAで車中起きし朝食を食べ、7:55出発。舞鶴若狭自動車道の丹南篠山口で降りて篠山城三の丸市営駐車場に車を停めた。今日は、日曜日で「味まつり」が行われるそうで、沢山の車がすでに駐車していた。
篠山城は平山城で輪郭式縄張りである。大阪城に拠る豊臣氏や西国大名に備えるため、徳川家康が慶長13年(1608)に天下普請として21大名に夫役を命じ築城したものである。慶長10年(1605)常陸笠間から八上城に入っていた松平(松井)康重が慶長14年(1609)12月に初城主として入城した。石垣には天下普請を示すように、数多くの刻印・符号があった。現在は石垣・堀のみが残っているが、平成12年(2000)に二ノ丸大書院が再建されている。天守台はあるが、天守は建ってなく、その代わり二ノ丸南西隅と三ノ丸東北隅に三層の櫓が建っていた。
城を見た後、「味まつり」を見るため町に出た。多くの人出があり、通りにはずらりとお店が並び、地元の特産物・名物などを売っていた。小生は、昼食を摂るため「角清寿し」に入って、焼鯖寿司セット(¥1,600)を食した。
篠山城から福知山城へ行くために駐車場から往路を引き返し、丹南篠山口に向かったが、道路の猛烈な渋滞で、朝来るときは13分掛かったものが、帰りは1時間32分も掛かってしまった。取り付き道路が1本しかないことによるのと、交差点でのマナーが悪く、どんどん突っ込むためにジャムしてにっちもさっちもいかなくなったものと思う。信号だけでなく、交通整理のおまわりさんが出てさばくべきだった。
福知山城は模擬天守が復元されていて、郷土資料館となっている。天守台は野面積みで五輪塔・宝篋印塔などの墓石・供養塔などが数多く転用されている。横山城とよばれていたが、明智光秀が改築拡張し福智山城と改めた(のち福知山城)。二層まで総板張りで小天守を持つ。天守は二層に大入母屋、三層は廻縁高欄の望楼である。
スーパーでグレープフルーツを買って、朝来市和田山にあるホテルサンルート和田山に入った。近くの「奥香」で入湯・夕食を摂り再びホテルに帰ってこれまでの記録の整理を行った。
道の駅「豊前おこしかけ」を7:20出発、国道10号線を通り、8:50小倉城北にある複合施設「ウォーターウォーク北九州」(二の丸跡に建つ)の6階駐車場に車を入れた(1日フリーパス¥600)。二の丸と本丸の間の曲輪には現在八坂神社が立っていて風情が異なっている。
天守は南蛮作りであるが、かつてのものとは外容が大きく異なる。しかし、縄張りは主要部が三角形の形状を一部残しており、北に海を東に紫川を配し、西の一辺からのみ攻め込むほかはないようになっている。しかし、第二次長州征伐では東からの幕府本体と挟撃することもできず、逆に長州勢に攻め込まれ自ら火を放ち逃亡してしまった。
昼食をウォーターウォーク地下食堂街で摂り、13:45駐車場を出た。大手前から都市高速にのり、そのまま門司料金所から関門橋を通って中国自動車道・山陽自動車道に入った。宮島SAでお土産物を買い、小谷SAに到着。
往路で小谷SAに泊まった時コインシャワーがあることを知り、帰路ではぜひここで泊ろうと思っていた。しかし、この上り線SAではそれがなかった。聞くと、下り線のみにしかないという。歩いて上り線からそこまで行けるということを聞いて、シャワー(10分\200)を浴びた。車に戻ってみると隣に長崎から四国旅行に行くご夫婦のキャンピングカーが、やはり車中泊のために停まっていたのでしばらく話をした。
道の駅「竹田」でゆったりと目を覚まし、8:30前に岡城駐車場到着。九重山や祖母山を探したが、いずれも山頂部は雲の中で見ることができなかった。
案内所で¥300の入場料を払い、巻物状の資料を貰う。それと、¥1,000で「歴史の道」という資料を買った。事務所の人に30分ほどいろいろと質問し話を聞いたあと出発。大手門に至る道の左手は天然の要 害の絶壁が聳えている。大手門手前の道には有名なかまぼこ型石塁(石塀)がある。
大手門から北東に進み奥の下原門跡まで行って引き返し、復路で三の丸・二の丸・本丸を通り、但見家老屋敷跡・城代屋敷の間を北西に進んで西の丸御殿跡、中川覚左衛門屋敷跡を見て普請方跡から近戸門跡を抜けて七曲を通り、途中長井戸を通り駐車場に戻った。切込接ぎの立派な高石垣に堪能し、訪れていた地元の人とも話をしながら、ほぼ4時間かけての訪問だた。
昼食を食べずに13時を過ぎていたので、駐車場内の食堂で昼食を摂って、14時岡城を発った。
竹田市内でガソリンを満タンにして、国道502から442を北西に走り、「くじゅう花公園」に車を停めた。券売り場に行くと今日は先日来の雨で花が傷んでいると事前に告知していた。パンフレットで見る限り綺麗な花畑のようだったが、傷んでいるということなので入園するのは止めた(入園料¥600)。
しばらく広い駐車場でいろいろな方と話をしながら、周りの山を見るが久住山は山頂部に雲がかかって見えない。反対側をみると、阿蘇山が見えるが、根子岳に雲がかかり、涅槃像は形をなしていない。(左の写真はくじゅう花公園から見た九重連山で今見えているのは稲星山(1,774m)。久住山(1, 786.9m)はその左山頂部に雲がかかっていて見えない)
しばらく過ごして、本日の宿である「久住高原荘」にチェックインした。温泉でゆったり汗をながし、18時から牛の瓦焼きやヤマメの塩焼きなど地の料理の夕食を摂った。写真のPCへの取り込み荷物整理、明日の準備などした。ここもインターネット接続設備はなかった。
朝はゆっくりしてサンホテル人吉を出発。人吉ICで九州自動車道にのり御船ICでおりて熊本市中心部に向かった。市内信号は今まで経験したことがないほど切り替わり時間が長く、いらいらすることもあった。
10:30二の丸駐車場に車を停め、西大手門から西出丸に入る。進入止柵越しに奉行丸と未申櫓(H15木造再建)をながめ、南大手門をくぐり一旦外側から眺め、また引き返して冠木門の頬当御門で入場料¥500を払い中に入る。平左衛門丸から宇土櫓(重文:3層5階地下1階)に登る。本丸から大小天守(S35再建、3層6階地下1階:3層4階地下1階)を撮影して大天守に登る。この天守の入口は現在観光用に橋が架かっているが、本丸から一旦石段を下りそして上るようになっていたことがわかる。(左の写真は本丸から左に大天守、右に小天守を見上げる)
本丸に出て、本丸御殿(H20復元)に入る。復元された規模は往事の全部ではないらしい。出来立てほやほやで木の香もするほどである。いろいろの間には見事な装飾、屏風、欄間、天井絵などでまばゆいほどであった。鶴之間・梅之間・櫻之間・桐之間をつなげる大広間は147畳となる。(左の写真は本丸御殿昭君の間。すばらしい装飾がなされている)
不開門(重文)から重文群の連続である五間櫓・北十八間櫓・東十八間櫓などの櫓群などを見て、東竹の丸から二様の石垣と大天守を撮影、五階櫓跡から竹の丸に至り大楠の木を見る。櫨方門を出て備前堀腰に飯田丸五階櫓を撮影後、行幸橋を渡って坪井川沿いに長塀(重文)を眺めながら北に進み須戸口門を左に見ながら坪井川にかかるうまや橋を渡る。右手高橋公園にある横井小楠と維新群像と谷干城像を見る。さらに進んで重文櫓群を下から見上げながら進み不開門の下を通って棒庵坂を上る。北大手門跡を過ぎて二の丸広場に左折する。時習館跡の木柱を見ながら広い西出丸外側の空堀沿いに二の丸駐車場に戻った。(左の写真は二の丸から西出丸越しに手前真中に宇土櫓、奥左に小天守、奥右に大天守を望む)
昼食も摂らず6時間熊本城をうろうろ見回り、16:30頃駐車場を出発し、阿蘇に向かう。途中おなかがすいたのでカフェテリア風の食堂に入り昼食兼夕食。18:30道の駅「阿蘇」に到着。小雨が降りだすが、歩いて近くの温泉浴場でゆったりして車中泊。
雨の中、ホテルJR九州鹿児島を出て、鹿児島城本丸跡に建つ「黎明館」の駐車場に車を入れる。今日は大雨ということで、駐車料は無料だった。¥300の入場料を払い中に入る。基本的ん館内の写真撮影は不可だった。ゆっくり館内を見て、小雨の中を外に出た。
まず国道10号線沿いに城跡をめぐった。御楼門跡は大きな枡形で往事はさぞかし立派な櫓門が建っていただろうと想像できる。その右手にある私学校跡の石塀に残る弾痕跡に、西南の役の凄まじさを知るが、何も石垣を狙った訳でもあるまいし、照準の精度が悪いようにも思った。 本丸左手には二の丸跡に現在は県立図書館があり、さらに進むと大きな西郷さんの銅像があった。
その後、城山に向かい、西郷さんの終焉の地石碑や洞窟を見て回り、黎明館内のレストランで昼食とコーヒーを摂って仙巌園(磯庭園)・尚古集成館へ向かった。雨はまだ小雨だが続いていた。
時間が少なかったおで集成館には入らず、仙巌園の中心にある磯庭園に入った。抹茶と茶菓子の¥1,500を払い入場。錦江湾の向こうには雨に煙る桜島がぼんやり見える。若い娘さんの案内によるこの磯御殿の案内の後、別棟の立礼茶屋「竹徑亭」でお茶を楽しんだ。グアムから来たという御夫人と一緒に回り、小生は今夜の宿であるえびの高原にあるえびの高原温泉ホテルに向かった。途中から濃霧のため数10mの視界しかなくえびの高原に着いても温泉ホテルを探して少しうろうろした。