今日はジオサイトの実地見学で、千波湖周辺のジオサイトを巡った。2時限ということで、回数は8回目と9回目ということになる。
9:10自宅を出発、途中コンビニで今日の昼食用のサンドウィッチを買って、集合時間の9時半に丁度、西の谷駐車場に到着。西の谷駐車場というのはそれまで知らなかったが、県道342号線を挟んで偕楽園とは反対側(東側)の天王町あたりの谷間にある。主宰者の天野先生を待って10時10分過ぎ出発。
まず駐車場からすぐそばの線路沿いの上市台地の崖では、700万年前の泥岩(凝灰質砂岩)の上に20万年前以降に那珂川の堆積物である礫層(洪積岩)が見える。泥岩部分には穴があり、これは、笠原水道を造る際にここからこの泥岩を切り出し岩樋に使用した跡だという。2代藩主水戸光圀(黄門)は下総国・佐倉の平賀保秀に命じ、永田勘衛門が工事を担当し寛文2年(1662)から1年半をかけ総延長7㎞の水道を完成させた。このような岩を切り出した跡の穴は台地の崖にあちこちにある。
さらにここから往路で東の崖に沿い北進し、その壁から伏流水の浸み出しを観察した(写真左)。復路では西の崖に沿い同様観察(写真右)。この谷を引き返し、線路わきに沿って西進。その途中民家のすぐわきにもこのような凝灰質砂岩の切り出し跡があった。穴は陥没していた。観梅時の臨時偕楽園駅前のトイレ舎脇には「農人形の記」碑があった。
偕楽橋に上がって、旧6号線の上を通って千波湖を反時計回りに回る。少年の森を形作っている台地の森北側に沿って歩く。この台地は、表層を関東ローム層、中層に洪積層(砂利)、下層に基層の泥岩からなっており、その泥岩の上部から湧水(伏流水が)出ている。
アナハイム市交流碑の前で、丁度12時となり、そこで散開して銘々1時間の昼食を採った。小生は、朝途中のコンビニで買ったシャキシャキレタスのサンドウィッチにお湯を沸かしてのコーヒ2杯で済ませた。
そから再び湖畔に沿って歩き、「ダイダラ坊の伝説」の碑に寄った。このような伝説があるが、もちろんこれは科学的でもなく、真実でもない。千波湖の成立は約2万年前の氷河時代海水面は低下しており、上市台地を挟み込むように流れる那珂川と桜川は急な流れとなり深い谷を形成していた。しかし、約1万21千年前頃から地球の温暖化し、約6000年前には海水面は現在より約6m上昇。そのため那珂川の運搬力は弱まり土砂を下流部に堆積させた。そのご、再び海水面は低下して那珂川の堆積物により桜川の那珂川への出口が塞がれ、入江が取り残される形となり千波湖の原型ができたものである。
その先に、「柳崎貝塚」の碑がある。それには、「この貝塚は、標高約30mの台地からゆるい傾斜で低く突き出した先端部にあたり、千波湖に面している。貝塚は小規模ではあるが、関山式の土器片が認められたことから、3か所の貝塚とも関山式土器を主体とする貝塚である。また、貝類はヤマトシジミを主とし、まれにタニシ・ハマグリ・カキ等を含む主淡貝塚である。」と記載されている。実際に貝塚を見たかったが、説明者も未だ見たことなく、どこにあるのか知らない、と。
あとは、千波湖を回って偕楽園に向かう。道路脇にはハクチョウやコクチョウ、カモなどが多く休んでいるが、傍を通ってもちっとも驚かない。湖面に目を向けると、湖水撹拌用の固定ボートの白鳥の嘴に鵜がとまっていて、それが白鳥が口に鵜を咥えているように見えた。さらに進むと、三脚に望遠レンズを上に向けて写真を撮っている人がいた。聞くと、コノハズクを撮っていると。小生も、手持ち撮影した。
偕楽園の仙奕台(せんえきだい)の付近に集まって、各自一言ずつ本日の感想なりを発言してお開き。銘々駐車場に戻った。15:15に帰宅。