横浜は日本の中では歴史の新しい町です。京都約1,000年、大阪約600年、東京(江戸)約400年。
横浜はやっと150年。
開港当時~明治時代の建物は、殆どが関東大震災で崩壊、焼失。
市内に現在残っている歴史的建築物の大部分は、大正12年以降復興事業で建設されたものです。
その後、第二次世界大戦の横浜大空襲で中心部は再び被災。
1989年の横浜博覧会を機に始まった横浜市の港湾部再開発計画は当時の好景気を背景に加速する予定でしたが、まもなくバブル崩壊。
日本全国が長い不景気の時代に突入します。
現状を把握しきれず、無理をした(私見です)開港博150は大失敗(失礼、これも私見です)。
横浜市の赤字は更に膨らみました。
その中でも横浜市は、都市開発計画をすすめるにあたって、何とか残った建築物をできるだけ現代に活かして残す方針だったのです。
大正から昭和初期の横浜の建築物は関東大震災の教訓もふまえ鉄筋コンクリート造りですが、構造的にもデザイン的にも近代建築の雄たる作品が多いため、市民の中からも解体を惜しむ声も多かったこともありました。
かつての生糸検査場のあった北仲通一帯。ここは戦前の横浜の中枢であった生糸貿易の拠点でもあったところです。
ランドマークに向かって、右側が北仲通再開発地区。
平成20年、市はここにの残されたかつての帝蚕倉庫群の保存方針を打ち出しました。
いちばん古い一号館(設計者・遠藤於菟<おと>、赤いレンガの建物二棟のうちの奥)は、いったん解体して移転保存(曵屋)する計画でした。
手前は帝蚕倉庫の事務所棟。こちらは保存北仲brlckとして活用中。
ところが先日一転、解体へと方針を転換。
神奈川新聞4月25日付記事参照
わずかひと月後には、解体を正式決定。
『当初の計画では市のまちづくりガイドラインに基づき、倉庫を曳屋という特殊な手法で移動させて保存し、生まれたスペースに超高層ビルを建設するものだった。
それが倉庫の解体へと一転した理由として、事業者の森ビルと丸紅は24日夜に市内で開いた地元向け説明会で、東日本大震災で内部の壁が剥がれるなどの被害もあったと説明した。』
神奈川新聞5月25日付記事参照
曳屋の施行例。横浜アイランドタワー
旧横浜銀行本店別館の下層部を残し解体。残された下層部を数十メートル移動し現在の横浜アイランドタワーの一部に。
問題の帝蚕倉庫の一号館は
現在はシートで覆われ、関係者以外は近よれません。
大岡川を挟んで汽車道から見た一号館。
対岸のブリーズベイホテルから見た一号館。
11月までに代案がでなければ、このまま現所有者の森ビルの方針に従い、解体され、跡地には高層ビルが建つことになるそうです。
横浜はやっと150年。
開港当時~明治時代の建物は、殆どが関東大震災で崩壊、焼失。
市内に現在残っている歴史的建築物の大部分は、大正12年以降復興事業で建設されたものです。
その後、第二次世界大戦の横浜大空襲で中心部は再び被災。
1989年の横浜博覧会を機に始まった横浜市の港湾部再開発計画は当時の好景気を背景に加速する予定でしたが、まもなくバブル崩壊。
日本全国が長い不景気の時代に突入します。
現状を把握しきれず、無理をした(私見です)開港博150は大失敗(失礼、これも私見です)。
横浜市の赤字は更に膨らみました。
その中でも横浜市は、都市開発計画をすすめるにあたって、何とか残った建築物をできるだけ現代に活かして残す方針だったのです。
大正から昭和初期の横浜の建築物は関東大震災の教訓もふまえ鉄筋コンクリート造りですが、構造的にもデザイン的にも近代建築の雄たる作品が多いため、市民の中からも解体を惜しむ声も多かったこともありました。
かつての生糸検査場のあった北仲通一帯。ここは戦前の横浜の中枢であった生糸貿易の拠点でもあったところです。
ランドマークに向かって、右側が北仲通再開発地区。
平成20年、市はここにの残されたかつての帝蚕倉庫群の保存方針を打ち出しました。
いちばん古い一号館(設計者・遠藤於菟<おと>、赤いレンガの建物二棟のうちの奥)は、いったん解体して移転保存(曵屋)する計画でした。
手前は帝蚕倉庫の事務所棟。こちらは保存北仲brlckとして活用中。
ところが先日一転、解体へと方針を転換。
神奈川新聞4月25日付記事参照
わずかひと月後には、解体を正式決定。
『当初の計画では市のまちづくりガイドラインに基づき、倉庫を曳屋という特殊な手法で移動させて保存し、生まれたスペースに超高層ビルを建設するものだった。
それが倉庫の解体へと一転した理由として、事業者の森ビルと丸紅は24日夜に市内で開いた地元向け説明会で、東日本大震災で内部の壁が剥がれるなどの被害もあったと説明した。』
神奈川新聞5月25日付記事参照
曳屋の施行例。横浜アイランドタワー
旧横浜銀行本店別館の下層部を残し解体。残された下層部を数十メートル移動し現在の横浜アイランドタワーの一部に。
問題の帝蚕倉庫の一号館は
現在はシートで覆われ、関係者以外は近よれません。
大岡川を挟んで汽車道から見た一号館。
対岸のブリーズベイホテルから見た一号館。
11月までに代案がでなければ、このまま現所有者の森ビルの方針に従い、解体され、跡地には高層ビルが建つことになるそうです。
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