☆フリートーク
昨日は地域の秋の大祭でした。今年は同じ自治会の人が頭家になっていましたので最初から最後までお手伝いでした。神輿の御幸にも参列しました。弓矢をもつ係りでしたが、これ、結構、重たいので前列のおじさんたちが軽~い御幣をもっていましたので替わってもらいました。長い行列の間じゅうもっているなんて肩こりのもとだと・・・何だか有難みがないなあとは思ったのですが(笑)。それよりも初めて、本殿の中まで入らせて頂き、掃除したのですが、これは何だか気持ちを入れてさせて頂きました。ご神体の近くにいるという感覚が気持ちを引き締めさせるのです。不思議な感覚ですね。これは一種の「畏れ」だと思いました。
そんな神社にまつわる人で思い出したのですが、もう10年前にもなるのです。昔の英会話の先生をしていた青年のことです。中国系のカナダ人です。何のために日本に来たかというと宮司さんのお仕事にできたらつきたいというのです。ぜひにもチャンスがほしいというのです。彼はシアトルにある椿大社の宮司さんと知り合いでそこで少しは学んでいたようなのです。
う~~~んとうなってみたのですが、きっかけを作ってくれそうな人がいるのを思い出したのです。女性の宮司さんで私の知り合いなのですが、彼女は非常に進取の気性に富んでいますし、古い格式は重んじますが、心は広く受け付けるタイプなのです。訳を話しますと「一度、連れてきてみたら・・・」というので彼を連れて行きました。その際ですが、彼は手に素麺の箱らしきものをもっているので「それはどうするの?」と聞きますと「お供えです!」・・・・さすがあ!と感心したものでした。ちゃんとお参りするときの心得は知っているのです。
女宮司さんは彼を受け入れてくれまして、月に一度でも二度でもいいから日曜日に神社にきて、神社の奉仕もするし、一方で太鼓の打ち方から教えて頂けることになりました。それから数ヶ月経って、神社を訪問しますと彼は、白い袴姿で白足袋に草履を履いて奉仕をしていました。清々しい印象でしたね。地域の人たちにも今では受け入れて頂いているようです。彼の性情というのは非常に堅物で、真面目、熱心、驕るところはないし、まさに敬虔な志しの持ち主でした。
もう今では10年以上経ちますが、今でも遠いところから、瀬戸大橋線を通って月に一度はやってくるそうです。日本語も今ではペラペラです。以前はデンワでもほとんど英語でしたのに今は日本語です。私のほうが英語モードに入りそうで困るな!と思ったものでした。
今日は何となくそんな彼のことを思い出したのと、彼がとりこになっていった気持ちもわかるかなと感じた1日でした。たまに知り合いの女性宮司さんから、いいお話しを聞きますので神道のいいところは折にふれ、感じてきました。
一方で、あれもいい、これもいいなというのは日本人的だと思うのです。日本人は多宗教を受け付けることができる民族だと思います。実際、家の中に仏壇と神棚があるのですから。悪く言えば二股かけてるということかも・・・・ですから、昔から、多神教的な我々日本人は自然崇拝も生活の中に浸透していたのです。
今の子供は環境的には自然崇拝などという感覚はないように思います。自然の一つ一つに神が宿る・・・私が子供の頃は民俗学的にも陰陽五行説は取り入れられ、生活の中に自然崇拝はあったように思うのです。ですから、自然というものに「畏れ」という感覚は自然にもつように育ったと思うのです。そんな「畏れ」こそが私たちが自然とうまく関わっていけるよう「行き過ぎ」にブレーキをかけてくれるのではないかと・・・・。エコだ何だと言う前に子供たちに教えなくてはならないのは「自然への畏れ」ではないでしょうか?東日本大震災もそうですね。畏れを知らなさすぎる・・・そうは思いませんか?神社に丸一日いますとそんなことも考えました。
昨日は地域の秋の大祭でした。今年は同じ自治会の人が頭家になっていましたので最初から最後までお手伝いでした。神輿の御幸にも参列しました。弓矢をもつ係りでしたが、これ、結構、重たいので前列のおじさんたちが軽~い御幣をもっていましたので替わってもらいました。長い行列の間じゅうもっているなんて肩こりのもとだと・・・何だか有難みがないなあとは思ったのですが(笑)。それよりも初めて、本殿の中まで入らせて頂き、掃除したのですが、これは何だか気持ちを入れてさせて頂きました。ご神体の近くにいるという感覚が気持ちを引き締めさせるのです。不思議な感覚ですね。これは一種の「畏れ」だと思いました。
そんな神社にまつわる人で思い出したのですが、もう10年前にもなるのです。昔の英会話の先生をしていた青年のことです。中国系のカナダ人です。何のために日本に来たかというと宮司さんのお仕事にできたらつきたいというのです。ぜひにもチャンスがほしいというのです。彼はシアトルにある椿大社の宮司さんと知り合いでそこで少しは学んでいたようなのです。
う~~~んとうなってみたのですが、きっかけを作ってくれそうな人がいるのを思い出したのです。女性の宮司さんで私の知り合いなのですが、彼女は非常に進取の気性に富んでいますし、古い格式は重んじますが、心は広く受け付けるタイプなのです。訳を話しますと「一度、連れてきてみたら・・・」というので彼を連れて行きました。その際ですが、彼は手に素麺の箱らしきものをもっているので「それはどうするの?」と聞きますと「お供えです!」・・・・さすがあ!と感心したものでした。ちゃんとお参りするときの心得は知っているのです。
女宮司さんは彼を受け入れてくれまして、月に一度でも二度でもいいから日曜日に神社にきて、神社の奉仕もするし、一方で太鼓の打ち方から教えて頂けることになりました。それから数ヶ月経って、神社を訪問しますと彼は、白い袴姿で白足袋に草履を履いて奉仕をしていました。清々しい印象でしたね。地域の人たちにも今では受け入れて頂いているようです。彼の性情というのは非常に堅物で、真面目、熱心、驕るところはないし、まさに敬虔な志しの持ち主でした。
もう今では10年以上経ちますが、今でも遠いところから、瀬戸大橋線を通って月に一度はやってくるそうです。日本語も今ではペラペラです。以前はデンワでもほとんど英語でしたのに今は日本語です。私のほうが英語モードに入りそうで困るな!と思ったものでした。
今日は何となくそんな彼のことを思い出したのと、彼がとりこになっていった気持ちもわかるかなと感じた1日でした。たまに知り合いの女性宮司さんから、いいお話しを聞きますので神道のいいところは折にふれ、感じてきました。
一方で、あれもいい、これもいいなというのは日本人的だと思うのです。日本人は多宗教を受け付けることができる民族だと思います。実際、家の中に仏壇と神棚があるのですから。悪く言えば二股かけてるということかも・・・・ですから、昔から、多神教的な我々日本人は自然崇拝も生活の中に浸透していたのです。
今の子供は環境的には自然崇拝などという感覚はないように思います。自然の一つ一つに神が宿る・・・私が子供の頃は民俗学的にも陰陽五行説は取り入れられ、生活の中に自然崇拝はあったように思うのです。ですから、自然というものに「畏れ」という感覚は自然にもつように育ったと思うのです。そんな「畏れ」こそが私たちが自然とうまく関わっていけるよう「行き過ぎ」にブレーキをかけてくれるのではないかと・・・・。エコだ何だと言う前に子供たちに教えなくてはならないのは「自然への畏れ」ではないでしょうか?東日本大震災もそうですね。畏れを知らなさすぎる・・・そうは思いませんか?神社に丸一日いますとそんなことも考えました。