★カレイとワカメの生姜煮、カボチャと小豆の煮物、ダイコンなま酢
冬至なのでカボチャを煮つけました。小豆とは好相性です。
★フリートーク
入院中に「人は死なない」というタイトルの本を読んできました。矢作直樹(やはぎなおき)さんという東大医学部の附属病院救急医の方の本です。
いわゆるスピリチュアリズムの本です。彼は医療の現場に従事しながら、生と死の境を行き来する不思議な体験を看ることになります。臨床医が霊性の実態を探ろうとする動機は十分にあったかと思います。
この世で生きているときに私たちの魂なるものが宿っているのはこの身体という物質です。死に臨んで内なる魂のエネルギーは体を抜けてあちらの世界に行くというのがスピリチュアリズムの概念ですが・・・・さて、その際に死に行く人たちが眼にするものは光りであったり、花畑であったり・・・さまざまな体験が語られるのをしばしば聞いたものです。俗に言う「三途の川」の手前でしょう。この本の中でも同様の記述はありました。臨床医の彼が引き込まれていった世界のことでしょう。
また、あるTV番組で見たことがあるように思うのですが、死に臨んで人がみる光などの光景は独特の極限状態の人が見る、つまり瀕死のときの「脳」がみる「一種の夢」なのだという科学的な解明もあるようです。これ、間違っていたらすみません。私はこちらの方が正しいのではないかと思います。夢という言葉は適切ではないかもしれない・・・かとは思います。死にゆく脳の作用ですから、脳のある部分でキャッチする情報をどのようにして視覚的にとらえるのか、これは脳科学の世界でしょうし、私など計り知れない領域です。でも霊感と同様に霊性の世界ですから、臨終の脳は誰しも霊的世界にあるとみていいのではないでしょうか?・・・と感じました。だから、元気なときには見えないものが臨終の脳には見えるのだと思うのです。
かといって魂はないのだろうかというと、私は魂の存在はあるのだろう・・・と信じています。矢作氏は不思議な「降霊」の儀式にも臨んだことあると記述されています。亡くなられたお母様に死後、お会いになってお話をされています。お母様の魂がある人の体に乗り移って、その人の声を借りて会話するものです。これは、私自身の祖母も同じようなことをしたのを知っています。私が幼いころ、ある霊能者のおばあさんと親しくて、その方の体を借りて、祖母は懐かしい人に会ったと言っていました。その薄暗いヒンヤリとした場所に何度か祖母に連れられて行ったことを覚えています。
また今日は私の生徒さんが退院後初めてのお勉強だったのですが・・・その方は台湾出身で在日台湾人です。彼女も台湾でそのような経験を何度もみてきたとおっしゃっていました。台湾では親や兄弟が亡くなった後、懐かしい人に何か聞いておきたいことなどがある人たちが集まって、降霊の儀式をするそうです。そういった職業があるそうですね。中にはインチキもあってウサンクサイものもあるようですが、彼女が数回、経験したときはやはりヒンヤリとした空気が体を覆い、降霊者が乗り移った人がしゃべるのを聞いたそうです。
長々となりますが、矢作氏が言うに、魂は永遠に続いていて人は「良心」という摂理に導かれて、永遠の命を引き継いでいるというのです。私はここのところがとても印象的でした。人の命がこの世だけのものならば、いくら悪いことをしても死ぬときがこの世の終わりで、すべて帳消しになるはずです。またすべてに人が平等とはなっていませんね。人は本能的に「良心」をもって生きるもので、決して悪意など持つようにはできていないというのです。簡単な例を挙げますと、悪いことをして気持ちがいい人はいないでしょうし、良いことをすれば心地よいものですね。これが人の自然に備わった本能だというのです。確かにそうでなかったら、社会や文化などという言葉は存在しないとは思います。物凄く納得させられたところでした。ま、私もかなりおめでたい人間かもしれませんが・・・
ならば、人は悪行を重ねるよりは善行を重ねて、この世からあの世へ、そしてまたこの世に来る?わかりませんが、魂は永遠に続くなら、気高いものになっていくほうが良いですね。こんど生まれるときは、うんと位相の高い八字に生まれつくことは間違いないでしょう(笑)。
こうやって考えていますと、非常につじつまが私の中であってきました。なかなか、いいぞ!などとニンマリしていたのは、病室でのことでした。浄土真宗でいう「情けは人のためならず」も結構、また意味を成すかと思った次第です。