我々人間は、他の生命体や動植物と違ったものを持っている。
それは「知恵」である。この知恵を持っているものだから、争いが絶えないし、残虐な犯罪や、「いじめ、虐待、体罰、差別」というようなものが日常茶番飯のごとく続いている。
何故この「知恵」によってこのような状態になっているかというと、この知恵によって「欲望」が膨らむことによる。
「欲望が膨らむ」となってくると、「貪り、怒り、愚痴」が働くことになる。こうした「貪り、怒り、愚痴」が働くと、「嫉み、嫉み」も大きくなり、それがまた「貪り、怒り、愚痴」となって周り狂うということになる。
では何故こうしたことが起こるかということになるが、我々人間というものは知恵というものを持つことによって、「欲望が無限」に続けられるという錯覚からきている。
金銭にせよ、権力にせよ、あるいは愛であるにせよ、これらはいつまでも続き持ち応えていけるものではない。必ずに限界がある。
限界があるということを見詰めないままに欲望を追い求めていくことから、人類社会は混乱をきたして、纏まることができない。
それではどうすれば纏められていくことができるのだろうか。
我々人間が持つ知恵には、こうした欲望という限界がある様な有限性なものの他に、無限性的なものを供えられている。
これは「心、精神」である。
だがこの「心、精神」においても、持ちようによっては有限性的な欲望になってしまいかねない。
それは何故かというと、この「心、精神」においてすら、欲望に傾く性質のものだからである。
これは、この「心、精神」を「自分のもの」と位置付けることからきている。
こうした「自分のものと位置づけない心と精神」を持つことによって、この「心、精神」は、無限性を持ってくる。
ここで付け加えると、我々はともすると「怒り」を覚えてしまい、怒ってしまう。、しかしこれが自分のことで怒るものではなしに、その怒りが相手のためになるような怒りなら、その怒りは自部のためにも、相手のためにもなる。
しかしこちらはそう思って怒っても、相手がそれを判ってくれないと、この怒りによって尾を引いてしまうものなので、なかなか厄介なものである。