我々人間という生き物は、「定、楽、我、浄」に混迷する生き物でしかない。「定」とはいつまでも定まっていること、「楽」とは楽を求め不都合を嫌うこと、「我」とは自分がいつも中心になり利己的になりたいこと、「浄」とは自分や自分が属するものが善であるとすることである。人間はこうした思いから離れられないために、自分ばかりか周囲も世の中全体も混乱させていく。
東日本大震災5年目の追悼式で、安倍首相はこんな内容の言葉を述べている。
「我が国の原子力規制院の基準は、世界最高水準の厳しい基準であるから、これに合格した原発は再稼働しても安全であり安心である」と述べている。ここには、また安全神話の再来がある。
この世には絶対安全安心も、完全というものはあり得ない。何事も変化していき、疲弊していき、劣化していく。それが自然の摂理であり定理であり条理である。
医学が進歩して病気治療が進んできているというけれども、では絶対に死なないで済むかというと、それはできない。どんなに科学技術が発達しても、これはできない。
第一科学技術の発達で、自動運転自動車が市場に出されるというけれども、争いや戦争、いじめや虐待や殺人事件を起こさないように、人間の心と精神を短期間に善心にさせてしまえる工夫もできはしない。この人間の心と精神を善心に変えさせられるものは、信仰による外はないのだが、人間というものは欲に目がくらみ、富ばかり追い求めるという生き方ばかりしている。それを政治が後押ししている。