今の世は、乱れている。社会も乱れている。それは狂っていると言っていい程、乱れに乱れている。
何故これ程に乱れ狂っているのだろう?
この問いに、一つの解を出した。
その解とは、教育に問題があるという結論に達した。
教育とは、人間としての人間性を育み育成することだろう。これを都合上二つに分けると、一つは心の育成、精神の育成。今一つは、幸福の育成という事になる。
幸福の育成とは、人間は幸せになりたいという望みをもっており、そのために兎角道を外れがちになるか、それを心、則ち精神によって正して行かなければならなくなる。
幸せになりたいというのは欲であり、その欲を満たそうとして他と争い、戦争もする。物も取り合い人を殺害もするし、イジメや虐待もして止まない。いわば欲望を満たし適えるためにはなんでもしている。
これを心と精神の育成によって正して行かなければならなくなる。
その方法として信仰と宗教がある。
しかし人は信仰心を持とうが宗教心を持とうが、憲法にて信教の自由が記されていると言って止まない。
これは間違った考え方で、正しい宗教ならば、宗旨宗派を問わないことを言っているのであって、無宗教であればいいということではあるまい。。正しい宗教とは、例えば仏教についていえば、仏教の実践は、「人身得難し、今已に受く」と今の我が身に満足していき、
「得られたもので満足すべきである。欲 深は罪悪である。ハンサをとらえてみた ものの、黄金は失われてしまった。
(『ジャータカ』)
<解説>死んだ父親は黄金の羽を持つ 鳥(ハンサ)に生まれる。家族のためにと時々1枚の羽根を置いていった。妻た ちは、豊かになるが欲が生じ、ある日、 すべての羽根を引き抜いてしまう。以来、 羽は鶴の羽のようになり、黄金は失われた。欲深の怖さを述べている。
服部育郎・中村元東方研究所專任研究
とあるように、欲を捨て去る事を説いている。言うなれば、欲のために自身も他人も苦しみ、全てを失うこととなる。
教育に富を求める、それは文化文明の発展ではあり、科学技術の発展でもあり、身内を亡ぼすものも内包している。故にそれを監視する信仰心や宗派心が必要になる。
宗教はこのように、今のそのままをありのままに喜び受け入れて感謝して行くことによって、世の中を平和に導いて行こうとする教育である。