「律正論完成への道」は、そしてそれは「宗教」の心に迫る道は、何事も素直に受け入れ「ありがとう、有り難い」と頂くことにある。
だがこれで良いのかというと、真の完成への道は、まだ遠い。
我々人間が、「律」し、「宗教や哲学、道徳」などを心掛けようとするのは、「 行動を秩序づけるためのおきて。さだめ。」の秩序を維持していくということのための、この秩序を糺していこうとするものである。
この「秩序を糺す」ということは、我々人間が持つ「欲」というものを自分で制御も抑制もできず、この為に人間生活も社会も制御も抑制もできなくなっている。これはいわば、「欲の取り合い」によってこうなっているといってよい。
「欲の取り合い」は、「秩序」の均衡を崩す。バランスが狂っていく。
世の中は「賞を摂る、メダルを摂る。一番になる。長になる。スターになる」等、上ばかり見て上に立ちたがっている。
この「上に立たせる」ために、どれほどの「下支え」があるか、考えたりもしない。ただ「食事を作ってくれる。洗濯してくれる。その他雑用は人がしてくれる」のが当然と思っていて、「自分は上に立つためだけに生まれてきた」ように思い、そのための忍苦は「ありがたい、ありがとう」と受け止めなければならないこととしている。
それを周りの人たちもまた、そう思い思ってしまっている。
こうしたことでは無しに、「 行動を秩序づけるためのおきて。さだめ。」の秩序を維持していくという事の「秩序」とは、自分だけが人々の犠牲によって上に成り立とうとする行為を、困っている人々や困窮している人々に振り向けることで、秩序の均衡を保っていこうとする事を言う。
これは、自分が他からの働きかけを受けて上に立とうとする「受動性」では無しに、こちらから他への働きかけを行って秩序の均衡に貢献しようとするものである。これを「能動性」という。
「律正論」や宗教などは、この「能動性」の働きかけがない事には、完成への道は閉ざされてしまう。
ちなみに仏教では、この「能動性」的行為を、「菩薩道」という。
我々人間は、他の物や生物などをムシャぶりたがる。このムシャぶりかたは、山を崩し、地面を掘り、川沼海を埋め立て、山野を採伐して砂漠化してゆくほどである。
そして「肥え太って」行く。
それでいながら、後の廃棄物は見捨てられて、行き場がなくなって行く。殊に争いに使われた武器弾薬や、「豊かで、楽しく、楽(快適、便利)」を謳歌した後に捨てられていくものは累々と積み上げられている。
そこへ以ってきて、こうしたものを生産したりした原動力の原発から出た「使用済み核燃料」と、そこから事故などで発生した「放射能汚染」は、この先何百年物残留を留める。
それでも尚、こうしたものを発生させることを止めない。
「不況、雇用不安、金融恐慌」などが怖いからだ。
それは、「求める」ばかりで、他への働きかけという「施し」をせず、我欲に捉われていたことにある。
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次回は、「主義主張」の骨髄ともいえる「民主主義」について、正しい「民主主義の在り方」を述べたい。
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