前述したように、我々が産まれ生きているこの世は、常に動いている。
動いているという事は、「働いている」という事である。
「働く」といっても、我々が言う「働く」とは異なる。
我々が言う「働く」は、「生活の糧を稼ぐ」ことが「働く」ことであるのに対して、この世の動きという「働き」は、「 行動を秩序づけるためのおきて。さだめ。」という秩序を維持させていくための働きを言う。それ故にこの働きには、「評価も、数値も、優劣も」無関係になる。
ところが我々人間の方はときたら、「身分がどうの、財産がどうの、家系がどうの、最終教育がどうの」とかしましい。そしてそれを引き合いに、相手との対等関係を、自らが破棄する。差別化していく。
「律正論」は、こうした我々の生活形態から離れて、本来の「 行動を秩序づけるためのおきて。さだめ。」に沿う生き方に立ち返る、即ち心と精神の「律正」のための理論ということになる。これは、早く言えば「宗の教え」というものということとなり、これを「宗教」という。
「宗教」は、「心と精神」を、正しく秩序よく働かせていくための、教えである。
だが「宗教」に名を借りて、悪戯に本来の「 行動を秩序づけるためのおきて。さだめ。」に沿う生き方とは異なるものもある。
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