青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

品位と品性なき誇り

2009年02月25日 | 人生設計

私達は、生きている。
しかし、ただ「生きている」だけにしたくないものだ。
何らかの「生きがい」を持ち、「価値観」を持って生きたい。
そうして「前向き」になって生きていてこそ、人生がある。

考えてみると、細胞分裂するのも、そうして「進化し成長」していくのも、「生きがいと進化」を見出し、そして成長していこうと言う事だろう。それは又、「素粒子」が、「自発的対称性の破れ」という現象によって化学変化を起こすのも、この「生きがいと進化」のためとも言う事ができる。

こうした「生きがい」を持ち、そして「成長」して行き「進化」して行きたい。それが「生きる価値観」ともなる。そしてこの「生きる価値観」というものは、「生きることの誇り」でもあり、「支え」にもなる。

ところがこの「誇り」というものは、人によっては様々なものである。「生きがい」も違うし、「価値観」も異なる。それだけでなく、この「生きがいと価値観」とは、単に自分だけの「生きがいと価値観」でしかないものと、全体的なものの中での「生きがいと価値観」であるものとがあり、それと同時に「誇り」そのものの内容も異なってくる。
「利己的な誇り」と「全体的な誇り」とに分別されてしまう。更に又これは、「品位と品性」を持ったものと持たないものとにも、別れてしまう。

今日の「誇り」というものを見ると、「金銭」や「地位」や「成績」や「名誉」などで占められているように思う。こうした「金銭」や「地位」や「成績」や「名誉」などで占める栄誉のような「誇り」を得るために、贈収賄や薬物、偽装や捏造、詐欺などの犯罪などに手を染めたり、誹謗中傷、いじめなどの手段もいとわずに行っている。
それが今日の「誇り」の、実態のようなものである。
そこには、「品位と品性」がない。
「品位と品性がない誇り」が行き渡り、それが人々の精神を病ませ、うつ病などが増えている。

「品位と品性ある誇り」を持つためには、私達は「自分と向き合う」ことに徹しなければならない。「自分」の事は棚に上げて、人を批評しても、自分の「品位と品性」を育むことにはならないからだ。
まずは自分の「品位と品性」を磨くという、それは宗教的生活を勧めていく必要がある。

「品位と品性なき誇り」は、宗教性が無いところにある。

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