二葉鍼灸療院 院長のドタバタ活動日記

私が日頃行っている活動や、日々の鍼灸臨床で感じたことなどを綴っていきたいと思います。

死後の「いのち」 2

2012年04月12日 | 日常

死後の「いのち」…続きです

 ~引用再開~

(第四期)
 生還者が「至上の本源」を面前にしたと報告する段階である。これを神と呼ぶ人たちもいる。過去、現在、未来にわたる、すべての知識があったとしか言えないと報告した人たちも多い。批判することも、裁くこともない、愛の本源である。この段階に達した人は、それまでまとっていたエーテル状の霊妙な体を必要としなくなり、霊的エネルギーそのものに変化する。その人が生まれる前にそうであったような形態としてのエネルギーである。人はそこで全体性、存在の完全性を経験する。

 走馬灯のように「ライフ・リビュー」(生涯の回顧)を行うのは、この段階である。自分の人生すべてを、そこで振り返ることになる。その人が生前に行ったすべての意思決定、思考、行動の理由が逐一あきらかにされる。自分のとった行動が、全く知らない人も含めて、他者にどんな影響を与えたのかが、手に取るようにわかってくる。他にどんな人生を送ることができたのかも示される。あらゆる人の命が繋がりあい、すべての人の思考や行動が地球上の全生物にさざ波のように影響をおよぼしている様を、目の前に見せられる。
 
 天国か地獄のような場所だ、と私は思った。たぶんその両方なのだろう。

 神が人間に与えた最高の贈り物は自由意志による自由選択である。しかし、それには責任がともなう。その責任とは、正しい選択、周到な、誰にも恥じるところもない最善の選択、世界のためになる選択、人類を向上させるような選択をするということだ。生還者の報告によれば、「おまえはどんな奉仕をしてきたか」と問われるのはこの段階である。
 これほど厳しい問いはない。生前に最善の選択をしたかどうかという問いに直面することが要求されるのだ。それに直面し、最後にわかるのは、人生から教訓を学んでいようといまいと、最終的には無条件の愛を身につけなければならないということである。

 こうしたデータから私が引き出した結論は、いまでも変わっていない。
それは、富む人も貧しい人も、アメリカ人もロシア人も、みんな同じ欲求をもち、同じものを求め、同じ心配をしているということだ。事実、私はこれまでに、最大の欲求が愛ではないという人に出会ったことがない。

 真の無条件の愛。

 結婚した二人の中に、助けを必要としている人に対する、ちょっとした親切の中に、それをみることができる。無条件の愛は見間違いようがない。心の底で感じるものなら本物である。それは命を織りなす、ありふれた繊維であり、魂を燃やす炎であり、精神にエネルギーを与えるものであり、人生に情熱を供給するものである。それは神と人との繋がりであり、人間同士の繋がりである。

 生きている以上、誰もが苦しい目にあう。偉大な人もいれば、無価値に見える人もいる。だが、いかなる人も、私たちがそこから何かを学ぶべき教訓である。私たちは選択を通じてそれを学ぶ。よく生き、したがって、よく死ぬためには、自分に「どんな奉仕をしているか」と問いかけながら、無条件の愛という目標をもって選択すれば、それで充分なのだ。

 選択は自由であり、自由は神から与えられたものだ。神が与えた自由は、成長する自由、愛する自由である。

 人生は洗濯機の中でもまれる石のようなものだ。粉砕されて出てくるか、磨かれて出てくるか、結局は、それぞれの人が選択している。

 ~引用終了~ 『人生は 廻る 輪のように』 エリザベス・キューブラ―・ロス  上野圭一 訳

長々と引用しましたが、「死」は避けることのできないもので、死の後に何が残るのかと思った時、あちらの世界に戻る人、この世に残される人も、このように考えた方が気持ちも楽になると思うのです。一つの考え方です。

死を前提にして「どう生きるか」ということが死を意識した時に生まれるのでしょうね。
”一日一生””武士道とは死ぬこととみつけたり”など、人生をどう生きるか ということが言われていますが、人生を集約させた言葉なのでしょうかね。

また、どう死ぬかは、どう生きるかであり、結局のところ「どんな奉仕をしたか」であって、どれだけ世のため、人のため、愛を実践できたかなのでしょう。
責任を持って自由を実践すること、愛を実践することが自分を自由にするのかもしれません。

日本人が持つ「死」のイメージを変える必要があるのかもしれません。

内科医であり、緩和医療医である大津秀一 先生は、著書 『死ぬとき人はどうなる 10の質問』で、以下のように書かれています。

 ~引用開始~

 医療行っていると、どんなに手を尽くしても人が生きられないときがある、ということが実体験としてわかる。最初はそれが辛いと思った。医師の限界を感じた。
 しかし、思うようになった。「誰でも死ぬのだ」と。そしてある程度寿命を全うした死は、そんなに忌避されるべきものであるのかと。

 いつも言っていることだが、「死が敗北」であるならば、人は必ず最後に負けることになってしまう。等しく皆が負ける。そんな人生は楽しいだろうか?
 人が死ぬことは避けようがない。当面そんな時代が続くと思う(し、また万が一、医療の進歩が死をなくしてしまったとしても、それが幸せとは限らない)。なので、死を前提にして、楽しく、幸せに生きる「ものの考え方」が必要になるのではないか。

 しかし、死にゆく人が皆不幸を感じているかというと、実はそうではない。むしろ幸せを感じていらっしゃる方も少なくない。皆さんも身内の方に、感謝を述べられて最後の日を過ごされていた人がいらっしゃったかもしれない。

 たくさんの患者さんの終末期に接しさせて頂いていると、実は少なくない方が幸福に生活されていることに気づく(もちろん症状緩和がきちんとなされている場合である。緩和医療はとても重要なのだ)。
 大井玄先生が調査されているが、障害を持たれている方や、死に近い人々の生活の質は実はそれほど低いわけではない。むしろ若く、欲求が強く、結果求めるものが手に入らない可能性が高い若い世代よりも、生活の満足度は高いことが示されている。

 つまり与えられた状況を、どのように考えるかによって、その人の生活の質というものは大きく変わるのである。そして、命が短く、動けなくても、十分に幸せと、誰もが表現し得るだけの心を持っているのである。しかし有事にならないとその力が発揮できないだけだ。

 アウシュビッツに収容された経験がある『夜と霧』の作者である精神分析学者のV・E・フランクルも言っている。「人生は豊かな意味で満たされている、しかも無条件に」そして、「苦しみや死の中にさえ、意味を見出す可能性がある」(『生きる意味を求めて』)と。
 また、こうも言っている。「私たちは、いつかは必ず死ぬ存在です。私たちの人生は有限です。私たちの時間は限られています。私たちの可能性は制約されています。こういう事実のおかげで、こういう事実だけのおかげで、そもそも、何をやってみようかと思ったり、何かの可能性を生かしたり実現したり、成就したり、時間を生かしたり充実させたりする意味があると思われるのです。死とは、そういったことを強いるものなのです。ですから、私たちの存在がまさに責任存在であるという裏には死があるのです」と。
 そして、「死は生きる意味の一部になっており、苦難と死は人生を無意味なものにしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味あるものにするのです」(『それでも人生にイエスと言う』)とまで言い切っている。

 人が死ぬことを認めるからこそ、そしてまた、人が必ず死ぬことを受け入れることこそが、人生を充実したものにさせるのである。

 ~引用終了~ 『死ぬときはどうなる 10の質問』  大津秀一 著

死に対する状況はいろいろだとは思いますが、その捉え方を、人生に対する感謝、生かされている命に対する幸せに目を向け、違った視点で捉えることによって「死」の見え方が違ってくることを書かれているのかなを思いました。

そして、通常、私たちが思っているよりはるかに、身体的、精神的ケアが充実していれば、そこに家族の協力もあるでしょうけど、「死」に近い方々や障害を持っている方々の生活の質が高いことには驚かされるとともに、勉強になりました。

死、そして死後の「いのち」を踏まえ、私たちが実践していくべき、心に宿すべきは、ロスさんが言われている真の無条件の愛なのではと思います。

そのことに関して、第3部(最終部)で少しだけ書きたいと思います。


二葉鍼灸療院 田中良和

 

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