死後の「いのち」…続きです。最終部です もう少しお付き合いくださいね
第2部では真の無償の愛について書きたいと、最後に書きました。
真の無償の愛とは何か 親子の愛なのか、夫婦の愛なのか、なんとなく想像はできるのですが、私もまだまだ未熟者ですので、真の無償の愛を実践され、世界から尊敬され、敬愛された、マザー・テレサの言葉を締めくくりとして書きたいと思います。
~引用開始~
分かち合えない愛など、何の意味もありません。愛は行動で表わすべきなのです。見返りを期待せずに愛さなければなりません。愛そのもののために何かをすべきで、何かを受け取れるかもしれないから、するのではないのです。
あなたがもし、何かの見返りを望むなら、それはもう愛ではなくなってしまいます。真実の愛とは、条件をつけたり期待することではなく、愛することなのです。
求めれば、神があなたを導いてくれます。神が私たちを、ここにいるエイズの患者の世話をするように導いてくれたように。私たちは患者を裁くことはしません。私たちは、彼らにいったい何が起こったのかとか、どうして病気になってしまったのか、などと尋ねることはありません。
ただ、彼らが今、何を必要としているのかを見きわめ、世話をするだけです。
私は、神がエイズという病でもって、何かを私たちに語りかけているのだと思います。私たちの愛を示す機会を与えてくれているのだと思うのです。エイズに冒された人々は、きっとこの場所で、これまで拒絶され、忘れていた優しい愛に気づいてくれることでしょう。
次に紹介するシスター・ドロリスの言葉は、愛をもって生きることが、どんなに簡単なのかをよく示してくれます。
≪シスター・ドロリスの言葉≫
エイズに罹って〈家〉にやってきた人たちは、最初、とてつもない恐怖感を抱いています。彼らにとっては、死に向かっているのだという事実に対処するのはとても難しいことなのです。しかし、〈家〉で私たちと一緒に暮らし、他の人々の最後の瞬間を見届けているうちに、彼らは変わります。
私はニューヨークで出会った一人の男性患者のことをよく覚えています。彼の母親がプエルトリコからやってきて、もし、彼が家に帰ってくるのであれば、自分が看護すると言いました。男は母親に感謝しながらも、自分はここに残ると言いました。ある日、彼はこう言いました。「私が死ぬ時には、あなたがここにいて、手を握っていてくれるんだよね」 彼は私たちが他の人にそうしているのを見ていたので、自分が独りぼっちで死ぬことはないと知っていたのです。
それはまったく単純な現実なのです。死に行く人々は彼らが受ける愛によって心を動かされるのです。その愛というのは、ただ手にふれることだったり、コップ1杯の水を持ってきてくれることだったり、甘いお菓子を分け与えてくれることなのです。
あなたはただ、彼らが求めているものを、彼らに持っていくだけなのです。それで彼らは満たされ、誰かが自分を心配し、自分を愛し、自分を必要としていることを知るのです。
そういうことが、彼らにとっては最も大きな支えとなるのです。そういうことを通じて、彼らは、神というものは最も親切で優しいに違いなく、自分たちの魂は、きっと神のもとへ召されるだろうと信じるのです。
私たちが説教をしなくても、ただ愛を持って行動しているだけで、彼らは神の恵みにふれることになるのです。
~引用終了~ 『マザー・テレサ 語る』 ルシンダ・ヴァーディ 編
相手の気持ちになって、相手の求めていることを、見返りを求めず、ただ実践する。
その行動は特別なことではなく、自分ができる最善のことを、ただ手を差し伸べるだけ。
簡単なことですが、難しいでしょう。特にお金や物質が世の中の富の基本となっている現代においては。
「死」からいろんなことを考えてみましたが、私の考えとして、今回、勉強させて頂いたことは…
「人が100%の確率で起こる出来事は〈死〉である。〈死〉を意識することによって、心と肉体をまとう有限な人生において明確な目標ができる。〈死〉は決して辛いものではない。〈死〉そして〈死後のいのち〉はこの世の人生の成長によって決まる。人が成長し、いい死・死後のいのち、のためには、愛をもって思考、行動する。究極の自由とは、真の無償の愛に従った思考と行動である」
そんなことを、往診先のおばあちゃんがきっかけで勉強させて頂きました。
すご~く長文になりまして、最後までお読み頂きまして、ありがとうございます