今年、2012年は、1945年8月15日の終戦から67回目の夏でした。少し遅れましたが、そんな終戦記念日に、いろいろ自分なりに考えてみたことを書いておきたいと思います
終戦とは、第二次世界大戦(大東亜戦争)の終結です。この戦争により、世界で約6000万人の方々が、アジアでも2000万人の方々が尊い命を落とされました。この戦争における悲惨なことは、一般の方々の犠牲が多かったということです。
先の戦争により命を落とされた、日本の、そして世界のすべての方々のご冥福をお祈りしたいと思います。
大きな戦争における反省により日本は、直接的には戦争を起こすことなく現在に至っています。しかし、世界では中東、アフリカをはじめ多くの地域で今も紛争や戦争状態に陥っており、おおくの一般市民の方々が犠牲になり、不自由な生活を強いられています。
シリアでの内戦は連日、報道されていますが、どこに真があるのか一般の報道だけでは分かりません。気をつけなければならないのは、大手マスメディアから流れる情報を鵜呑みにしてはいけないということです(と、私は思っています)。少し前にアメリカ軍が引き上げたイラクでは、石油の権益はメジャーが握り、復興という名のもとにインフラ等を整備した会社は、ほとんどがアメリカの有力者の系列の企業が行いました。一般の市民はどうかというと、戦争により、職も、家も無くした方々が、難民となりイラクの国境沿いに100万人規模で暮らしているそうです。良いか悪いかは分かりませんが、フセイン政権ではこのようなことは無かったそうです。ですが、これが戦後の現状の一面です。
ちょっと、話は逸れましたが…
この時期になると、靖国神社参拝問題や領土問題で世の中が賑わうようになります。
ここの所も、竹島や尖閣諸島の問題で、韓国や中国政府とのやりとりが報道されています。先日は、4年に一度のスポーツの祭典であるロンドンオリンピックが幕を閉じました。日本は過去最多の38個のメダルをとり、種目により明暗がはっきりと現れたな~なんて思いました。
日本サッカーでは、女子の「なでしこジャパン」が銀メダル、男子は3位決定戦で惜しくもメダルを逃しました。惜しかったですが、よく頑張ったと思います。日本のサッカーのレベルもどんどん上がっているなと感じました。
しかし、この試合で問題が…試合後、韓国人選手が「竹島(独島)は韓国の領土である」というようなプラカードを掲げて会場を走り回りました。
国同士、いろんな問題はあるにせよ、これはオリンピック精神(オリンピズム)に反する行動です。オリンピック憲章には、宗教、人種、政治をオリンピックの場に持ち込んではいけないことがうたってあります。この問題はイデオロギー云々以前の問題です。ルール違反です。陸上の為末 大さんがツイッターで書いているように、IOCがオリンピック憲章に基づき、粛々と処分、対応することが必要だと思います。安易に、これにより国同士のイデオロギーの主張に進まないほうがいいでしょう。ルールを守れないならオリンピックに出場しなけりゃいいのです。
また、話が脱線しましたが…
8月15日の終戦記念日は、日本がポツダム宣言を受諾した日です。ポツダム宣言は、アメリカ・トルーマン、イギリス・チャーチル、ソ連・スターリンがドイツ、ベルリン郊外のポツダムに集まり、日本に降伏するように、アメリカ、イギリス、中華民国の名で出された共同声明のことです。7月26日にポツダム宣言が発表されました。この宣言に関して、日本では、戦争続行か降伏かについて、激論が交わされ、なかなか答えが出ませんでした。
日本は、この段階に来て、戦争を続行することは不可能でした。が、どうしてすぐに降伏しなかったのでしょうか
◆7月26日、ポツダム宣言が発表された当時、ソビエト連邦とは「日ソ中立条約」を結んでいたため日本へ参戦していませんでした。そこで日本はソ連に和平の斡旋をお願いしていました。その間、宣言を黙認していたのですが、世界からは無視していると捉えられたようです。
そして、8月6日、アメリカは、広島へウラン濃縮型原子爆弾、続けて、8月9日に長崎へプルトニウム型原子爆弾を落としました。22万人もの命が失われ、後遺症に苦しむ人が現在もおられます。
この8月9日、何を血迷ったか、これが戦争時の空気なのか?、自分たちだけ、この戦争で得るものがないと思ったのか、ソ連は中立条約を破り、満州と樺太、千島列島へ攻撃を開始しました。8月15日にポツダム宣言を受諾してからも、瀕死状態の、無抵抗の日本、日本人を攻撃しました。その結果、満州では多くの人が捕虜となり、シベリアへ連行され、過酷な環境のもと強制労働を強いられました。約60万人の方々がシベリア抑留され、昭和30年代には全員帰還することができましたが、約5万5千人の命が失われました。
また、満州への攻撃は過酷を極め、略奪、暴行など凄かったということです。日本へ逃げようと必死の中、どうしても小さい子どもを連れていると、皆、つかまって死んでしまうということで、現地の中国の方に泣く泣く子どもを預けて、逃げまどいました。それが中国黒竜江省に多くの残留孤児をつくることになりました。しかし、中国の方には、子どもを預かり、育てて頂いて感謝です。生きているだけでも幸せなのですから。
ソ連の攻撃は、先ほど書きましたように8月15日を過ぎても続行。9月5日、千島列島、現在の北方領土まで制圧して終了しました。ですから北方領土は、無抵抗の日本に対して土地を略奪したという経緯があるのです。それが戦争なのか ソ連(現 ロシア)では、9月2日が日本に対する先勝記念日です。9月2日に戦艦ミズーリの甲板にて日本が降伏を受け入れる調印式が行われ、完全に戦争が停止したわけです。が、ソ連は9月5日まで日本の領土を略奪し続けました。まんまと自分の国で法律を制定して、北方領土はソ連のものだとしてしまいました。
9月2日に行われた、戦艦ミズーリでの日本の降伏に関する調印式ですが、共同声明をともに出している、中華民国の蒋介石は出席すらせず、イギリスのチャーチルは選挙に敗戦し、母国へ帰り、出席していたのは、トルーマンだけだったそうです。
また、蒋介石は日本との戦争後、中国共産党との闘いに負け、その身を大陸から追われ、台湾に身を移します。戦後、日本の植民地から解放された台湾で、着実に力を伸ばし、中華民国を建国。その間、台湾の多くの方々が犠牲になりました。その数たるや日本との紛争時を遥かに超える数だということです。台湾の現地の人々は「アメリカは日本に原爆を落としたが、台湾には蒋介石を落としていった」と言われるくらいです。
こりゃまた、話が逸れてきた…
その後、様々な戦後処理が行われ、1951年、サンフランシスコ講和条約が発表され、翌年1952年4月28日に調印式が行われ、ここで戦争の一応の終結となりました。
いろんな細かい経緯があるのですが、ポツダム宣言を受諾する決断は、天皇陛下、自らがご決断をされたそうです。
だいぶ長くなりましたので、パート2では、ポツダム宣言をなかなか受諾できなかった、もうひとつの理由と、天皇陛下について書きたいと思います。
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