二葉鍼灸療院 院長のドタバタ活動日記

私が日頃行っている活動や、日々の鍼灸臨床で感じたことなどを綴っていきたいと思います。

2012年 終戦記念日にいろいろ考えてみた 2 

2012年08月17日 | 社会

2012年、終戦記念日にいろいろ考えたことを綴っています。その続きです

もう一つ、なかなかポツダム宣言を受け入れられなかった理由は、その条文にあるようです。

◆ポツダム宣言は、13の条文からなりますが、作成はトルーマンの側近で知日家である人物が中心となり作成されました。その中で、日本を早期に降伏させるためには、日本人が最も大切にしている「天皇の地位保全を保障」することだとし、起草文にはそれが書かれていたようです。

トルーマンは、その「天皇の地位保全の保障」に関する部分を削除しました。
日本には、早々に降伏してもらって欲しくなかった理由があったからだと言われています。

原爆です。

原爆投下はマンハッタン計画やアメリカの対日戦略の中で、投下の相当前から計画されていたようです。どうしても人体実験をしたかったようです。戦後、そのマンハッタン計画の設備やブレーンが、そのまま原子力発電へチェンジしていきました。それが現在の日本の原子力発電を支えています だから日本にある原発なのに、その事故の詳細が国民に伝わるのが遅いのです。お伺いを立てなければいけない所があるからではないでしょうか

話は戻して…和平への仲介役をお願いしていたソ連が突如、参戦したり、満州で多くの開拓民の方々がソ連の兵士に虐殺、連行され、略奪、暴行され、ましてや、広島、長崎に原爆を投下されまいた。そんな中でも、ポツダム宣言を受け入れるかどうかという結論には至りませんでした。しかし、1945年8月9日、宮中の地下防空壕において、歴史的な御前会議が開かれることになり、天皇陛下のご英断により、受諾が決定されました。

その御前会議に内閣書記官長として列席されていた、迫水久常 氏の証言があります。
以下、長いですけど引用。

~引用開始~

 第二次世界大戦末期において、国土は原爆を投下され、数多くの同胞を、国土内のみならず、あるいは、北海の地に、あるいは南溟の空に失いました。それにも関らず、当時の最高戦争会議においてはポツダム宣言の受諾か本土決戦覚悟の戦争継続か、議論は二つに分かれて、どうしても決まらなかったのであります。そこで、まとまりをつけるためには、陛下の御聖断を得るしかなしと、当時の鈴木総理は決意して、昭和二十年八月九日の二十三時から、地下十メートルにある宮中防空壕内の一室で、歴史的な御前会議を開くことになりました。

 陛下は足取りも重く、お顔は上気したるごとくにて、入って来られました。今も深く印象に残っておりますのは、髪の毛数本額に垂れておられたことです。会議は総理が司会致しまして、まず私がポツダム宣言を読みました。日本に耐えがたい案件をのむのでありますから、まったく、たまらない事でした。
 次に外相が指名されて発言しました。その論旨は、この際、ポツダム宣言を受諾して戦争を終えるべきであるということを、言葉は静かながら、断乎申されました。次に阿南陸軍大臣は、外相の意見には反対でありますと前提して、荘重に涙と共に今日までの軍の敗退をお詫びし、しかし今日といえども、必勝は帰し難しとするも、必敗と決まっていない。本土を最後の決戦場として戦うにおいては、地の利あり、人の和あり、死中活を求め得べく、もし事、志たがう時は、日本民族は一億玉砕し、その民族の名を青史にとどむることこそ本懐であると存じます、と言われました。次の米内海軍大臣はたった一言、外務大臣の意見に全面的に同意であります、と言われました。平沼枢密院議長は列席の大臣総長にいろいろ質問された後、外相の意見に同意であると言われました。参謀総長、軍令部総長は、ほぼ陸軍大臣と同様の意見であります。この間、二時間半、陛下は終始熱心に聞いておられましたが、私は本当に至近の距離に陛下の御心配気なお顔を拝して、涙の滲みでるのを禁じ得ませんでした。
 一同の発言が終わった時、私はかねての打ち合わせに従って、総理に合図いたしました。総理が立ちまして、おもむろに、「本日は列席一同熱心に意見を開陳いたしましたが、只今まで意見はまとまりません。しかし事態は緊迫しておりまして、まったく遷延をゆるしません。おそれおおいことではございますが、ここに天皇陛下の思し召しをお伺いして、それによって私どもの意見をまとめたいと思います」と述べられ、静かに陛下の御前に進まれました。
  (中略)
 陛下はまず、「それならば自分の意見を言おう」と仰せられて、
 「自分の意見では外務大臣の意見に同意である」と仰せられました。

 陛下のお言葉の終わった瞬間、私は胸がつまって涙がはらはらと前に置いてあった書類にしたたり落ちました。私の隣は梅津大将でありましたが、これまた書類の上に涙が滲みました。私は一瞬各人の涙が書類の上に落ちる音が聞こえた気がいたしました。次の瞬間、すすり泣きであります。そして次の瞬間は号泣であります。
 涙の中に陛下を拝しますと、はじめは白い手袋をはめられたまま、親指をもって、しきりに眼鏡をぬぐっておられましたが、ついに両方の頬をしきりに、お手をもって、お拭いになりました。陛下もお泣きになったのであります。

 陛下のお心のうちは、けだし、想像を絶するものがあったに違いありません。みんなが号泣しているうちに、なお陛下は、絞り出すようなお声で、念のために理由を言っておくと、次のような意味のことを仰せられました。

 「太平洋戦争が始まってから、陸海空軍のしてきたことをみると、予定と結果がたいへん違う場合が多い。大臣や総長は、本土決戦の自信があるようなことを先ほども述べたが、しかし侍従武官の視察報告によると、兵士に銃剣さえも行き渡っていないということである。このような状態で、本土決戦に突入したらどうなるか、非常に心配である。あるいは日本民族は、皆死んでしまわなければ、ならなくなるのではなかろうか。そうなったら、どうしてこの日本を子孫に伝えることができるであろうか。自分の任務は、祖先から受け継いだ、この日本を、子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらって、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらうほかに、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。このまま戦い続けることは、世界人類にとっても不幸なことである。自分は、明治天皇の三国干渉の時のお心もちを考えて、自分のことはどうなってもかまわない。堪え難いこと、忍び難いことであるが、かように考えて、この戦争をやめる決心をした次第である。…」

 陛下のお言葉は、人々の号泣の中に、とぎれとぎれに伺いました。日本国民と、さらに世界人類のために、自分はどうなってもかまわないという、陛下の広大無辺なる御仁慈にたいし、ただひれ伏すのみでありました。陛下のお言葉はさらに続きまして、国民がよく今日まで戦ったこと、軍人の忠勇であったこと、戦死者戦傷者にたいするお心もち、また遺族のこと、さらにまた、外国に居住する日本人、すなわち今日の引揚者にたいしまして、また戦災にあった人にたいして、御仁慈のお言葉があり、一同は、また新たに号泣したのであります。
 陛下のお言葉は終わりました。総理は立って陛下に入御を奏請し、陛下は、お足取りも重く室をお出になりました。時に午前二時でありました。
  ~「終戦の真相」 迫水久常 述より~

~引用終了~

昭和天皇は立憲君主制を誰より自覚されていたため、陛下のお言葉による政治的決断は、この終戦の時と、2・26事件の時の2回だけであったそうです。どちらも辛いご英断をされました。

天皇陛下は当時、大日本帝国憲法下では、国家元首であり、「神聖にして侵すべからず」存在でした。ですから、ポツダム宣言に「天皇の地位保全の保障」がなかったことが、日本人にとっては我慢できなかったのでしょう。ですから、このような戦況にも関らず議論が分かれてしまったのでしょう。

しかし、天皇陛下が自ら、わが身を犠牲にしてでも、日本国民と国土を子孫に伝え続けるための御英断をされたわけですね。
天皇にとっては、昔も今も、「国民が大御宝」なのです。そこが、単なる皇帝や将軍などとは違うところなんです。このような天皇であるからこそ、日本国民は天皇陛下、天皇家を尊ぶわけです。

ちなみに、天皇陛下のお仕事は、学校の教科書で勉強するように、国会や内閣での任命、認証など、栄典に関して、外交文章の認証、外国大使・行使の接受、等々様々であり、書類の署名・押印などの仕事は年間1000件を超えるということです。その他に、国民や国土、または世界の幸せを願う皇室祭祀は年間30回にのぼります。

上記のような経緯があり、終戦に至ったわけです。そして、天皇陛下の切なる願いが届き、残った日本人の皆さまが一所懸命、この国をよくすべくご尽力頂き、現在は、世界第2位の経済大国となり、飢餓で苦しむこともなく、豊かな生活を営むことができています。

やっぱり長くなりますね~

ではでは、パート3では、天皇陛下とマッカーサー元帥のことを少し話し、現在の状況を踏まえて「これから…」を書きたいと思います。

  二葉鍼灸療院 田中良和


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