10月10日(月祝 体育の日)に行われた、東日本大震災チャリティー講演会、ワタミ株式会社 取締役会長の講演会の内容について書いていきたいと思います。
司会は、МRO(北陸放送)の長田哲也アナウンサーでした
渡邉さんがステージに登り、演題に立たれた時の私の印象は、「いい笑顔」「温かさに包まれている」「しかし、芯があって強い」「行動によって結果を出している人の自信というか余裕がある」そんなことを講演に入る前に感じましたね。
さて、講演内容は箇条書きで書いていきますね。
まず、東日本大震災が起きた時から、その後の支援、そして復興へとお手伝いさせて頂いた経験の中でのお話がありました。そして、演題にもあるように「夢を持ち続けて生きる!」ために、私が実践してきたことで大切だと思うことのお話がありました。
では…
まずVTRで、テレビで放送された震災直後の陸前高田市、大船渡市の状況とともに、東日本大震災が起きてから、すぐに物資を調達して現地へ向かい、その後の被災地での支援活動、あるいは現場の状況を見ての渡邉さんの心境などが紹介された。また、学校経営などの様々な分野で、どんな気持ちで仕事を行っているのかが紹介された。
3.11は、東京都知事選挙に出馬していた渡邉さんは、その真っ只中だった。そして、大きく選挙の流れが変わった日でもあった。出馬しないと言われていた、石原さんが出馬を発表した日だった。それまで出先機関の調べでは渡邉さんが、人気ではトップであった。石原さんが出馬するとなると様相が違ってくるので、その日、記者会見を夕方から行う予定だった。その準備が整った所で起きたのが大震災であった。記者はビルの壁が剥がれ落ちる映像を撮影して帰っていったので、記者会見にはならなかった。という話を講演の導入部で話された。
①大震災当日、関東もほとんど交通網がマヒしていた。ライフラインも滞っていた。渡邉さんも東京から自宅(神奈川だったと思ったが…)まで歩くことにした。歩く道中、ほとんどの店が閉まっていて、電気も消えていた。社員のみんなどうしているかなと思いながら歩いていると、『和民』(何店かは忘れました)の電気がついていて、歩いている皆さんが入っていくそうです。「何やってるんだ」と渡邉さんが店に入ると、”食事や飲み物は出せませんが、トイレや休憩に使ってください”ということだった。そこの店長が判断して行ったそうです。
②また、『和民』の仙台にある店は、震災後、4・5日で商売を始めたそうです。ライフラインが確保できないのに…ガスコンロを使用してできる「キムチ鍋」一品で始めたそうです。
この①②ともに、渡邉さんから常々「ありがとうを貰うためなら、集めるためなら、何をやってもいい」と言われていることが全店に行き渡っている証拠でもあります。『和民』に限らず、グループ企業の5000人の社員が、そのことを意識し、考え、行動できているから、いいモノづくりができるんですよと話されていた。
お客さまからのクレームに対する社員の行動に関しても、徹底していることもエピソードなどを交え話されていた。それもやはりクレームをも「ありがとう」に変えるために、どんな心で応対したらいいかということも勉強になった。
渡邉さんは、東京都知事選真っ最中であったが、「まず被災地の支援だ」ということで、数日後に様々な物資を調達して現地へ向かった。(私はこれが、力を持っている人の、真の、誠の行動だと感動した)現地へ到着してみると、報道されているよりも遥かに悲惨な状況であった。まさに戦争状態という言葉がふさわしい状況だった。
渡邉さんたちが現地に入ろうとした時「ここより先は入らないでください」と自衛隊の人に言われた。「海の上には無数のお亡くなりになられた方々が漂っているんです」ということであった。津波の凄まじさを感じるとともに、絶句してしまったということでした。
支援の形も、はじめは「水が欲しい」から始まり「レトルトのお米が欲しい」、「レトルトのおかずが欲しい」「有機野菜が欲しい」と徐々に支援物資にも変化があり、徐々にではあるが復興に向かっていることを実感しているということであった。
またVTRにて、被災地に取り残された老人施設の高齢者の映像があった。若い職員は被災にあったり、逃げるので精一杯だったりで、施設の人も家族が引き取っていったりしたが19名が取り残されていた。調べてみると、もう食料もほとんど底が尽きていた。自治体の方から渡邉さんへ支援の要請があり、すべての人を無償で渡邉さんの老人施設へ迎え入れることにした。
その時のエピソードで、取り残された高齢者の皆さまは、出発のバスに乗る際は無表情で固い表情をしていたが、バスを降り施設に到着し、バスから降りて地に足を付けた瞬間、皆さん「ありがとう」と”号泣”されたそうです。これまでの不安や恐怖、私たちには分からないいろんなものが込み上げてきたのでしょう。というお話でした。(私も今までの話や映像とともに、思わず涙が出てしまいました…今もブログを打ちながら目頭が熱くなってます)
渡邉さんは、現地によく足を運んで、被災者の人たちと対話したり、また、そこで頑張る役所の人たちと話をする機会が多くあるそうです。多くの被災者の皆さまの心境は「私たちの幸せは、今ある”命”であり、今ここにいることで、今あるものに感謝をしている」ということでした。そして、「悲しみを乗り越えて、今ある感謝や温かい気持ちを、後世に繋げていかなければならない」という気持ちでいるということでした。
陸前高田市は街全体が壊滅状態です。そこへ陸前高田市の戸羽市長から復興参与として力を貸して頂けないかという要請があり快諾したそうです。東京都知事選挙に出馬したのも、この27年間に培ってきた経営のノウハウを何か国民のために活かせないかという思いで出馬したので、このような形で要請を受けたことは願ってもないことであった、と話されていた。
復興参与として役所の皆さまと復興に向けて話し合いをする中で実感したことは、「資金がない」ことだった。がれきを撤去し、土地を整備し、など復興に向けてすぐやらなければならないことがたくさんあるが、なんせ「資金がない」ということに尽きた。まず何をやるにしても、これだけの予算を付けて、資金をそこに投入してはじめて行動に移せるというもの。市長の話によると、今現在であっても、現地の補償や必要予算など、国、政府には、何も伝わっていない状況だということでした(もし聞いていたとしても、意思表示、行動で示せないのだから)。
この大地震は、過去に例がないほど甚大な被害を出している。そんな時は、すぐに様々な対応ができるよう法律を改正し、すぐに予算付けをして、それぞれの自治体とともに復興へ向けて進まなければならない。なのに…政府の現在の状況を見ていると分かりますが、対応が遅く、後手後手にまわり、まだ何も決まっていない状況である。そんな政府、そんな国では、夢や希望が見出せず、元気がなくなる。
※(これは私の意見)現在も復興財源の確保に、様々な増税、復興債の在り方などを論議しているが本当にノロいと思う。まったく前例がないので、被災にあった都市や市民は決まるまで待ってなさいという態度に見えて仕方がありません。確かに約90兆円もの国家予算に税収が約40兆円、その他は国債で賄っていること自体、なにか国家予算そのものに無理があるとは思いますが、だから増税なんてことは、あまりにも短絡というか、国民を欺いている感じがしますね。
また、現在、円高で為替介入が日銀により行われていますが、お金を刷り、アメリカ国債を購入するわけです。その資金は、外国為替資金特別会計から拠出されます。そこにプールされているお金が外貨準備高です。日本の外貨準備高は1.1兆ドルあり、その多くはアメリカ国債となっています。為替介入とは、このお金でアメリカ国債を買うということです。
2007年から2011年までの4年間に、外貨準備での為替評価損失は45兆円もあるそうです。短絡的ではありますが、この損失がなければ復興にはいくらか当てることができたのではないでしょうか。また、特別会計からの見えないお金は埋蔵金としてプールされるのですが、そのお金を各省庁が少しづつでもいいから出せば、まず、初動のための資金となったのではないでしょうか。
すんませ~ん熱くなりまして。長くなってますので、パート3へ移ります。
お付き合い頂ける方は、パート3も読んでくださいね。
二葉鍼灸療院 田中良和
司会は、МRO(北陸放送)の長田哲也アナウンサーでした
渡邉さんがステージに登り、演題に立たれた時の私の印象は、「いい笑顔」「温かさに包まれている」「しかし、芯があって強い」「行動によって結果を出している人の自信というか余裕がある」そんなことを講演に入る前に感じましたね。
さて、講演内容は箇条書きで書いていきますね。
まず、東日本大震災が起きた時から、その後の支援、そして復興へとお手伝いさせて頂いた経験の中でのお話がありました。そして、演題にもあるように「夢を持ち続けて生きる!」ために、私が実践してきたことで大切だと思うことのお話がありました。
では…
まずVTRで、テレビで放送された震災直後の陸前高田市、大船渡市の状況とともに、東日本大震災が起きてから、すぐに物資を調達して現地へ向かい、その後の被災地での支援活動、あるいは現場の状況を見ての渡邉さんの心境などが紹介された。また、学校経営などの様々な分野で、どんな気持ちで仕事を行っているのかが紹介された。
3.11は、東京都知事選挙に出馬していた渡邉さんは、その真っ只中だった。そして、大きく選挙の流れが変わった日でもあった。出馬しないと言われていた、石原さんが出馬を発表した日だった。それまで出先機関の調べでは渡邉さんが、人気ではトップであった。石原さんが出馬するとなると様相が違ってくるので、その日、記者会見を夕方から行う予定だった。その準備が整った所で起きたのが大震災であった。記者はビルの壁が剥がれ落ちる映像を撮影して帰っていったので、記者会見にはならなかった。という話を講演の導入部で話された。
①大震災当日、関東もほとんど交通網がマヒしていた。ライフラインも滞っていた。渡邉さんも東京から自宅(神奈川だったと思ったが…)まで歩くことにした。歩く道中、ほとんどの店が閉まっていて、電気も消えていた。社員のみんなどうしているかなと思いながら歩いていると、『和民』(何店かは忘れました)の電気がついていて、歩いている皆さんが入っていくそうです。「何やってるんだ」と渡邉さんが店に入ると、”食事や飲み物は出せませんが、トイレや休憩に使ってください”ということだった。そこの店長が判断して行ったそうです。
②また、『和民』の仙台にある店は、震災後、4・5日で商売を始めたそうです。ライフラインが確保できないのに…ガスコンロを使用してできる「キムチ鍋」一品で始めたそうです。
この①②ともに、渡邉さんから常々「ありがとうを貰うためなら、集めるためなら、何をやってもいい」と言われていることが全店に行き渡っている証拠でもあります。『和民』に限らず、グループ企業の5000人の社員が、そのことを意識し、考え、行動できているから、いいモノづくりができるんですよと話されていた。
お客さまからのクレームに対する社員の行動に関しても、徹底していることもエピソードなどを交え話されていた。それもやはりクレームをも「ありがとう」に変えるために、どんな心で応対したらいいかということも勉強になった。
渡邉さんは、東京都知事選真っ最中であったが、「まず被災地の支援だ」ということで、数日後に様々な物資を調達して現地へ向かった。(私はこれが、力を持っている人の、真の、誠の行動だと感動した)現地へ到着してみると、報道されているよりも遥かに悲惨な状況であった。まさに戦争状態という言葉がふさわしい状況だった。
渡邉さんたちが現地に入ろうとした時「ここより先は入らないでください」と自衛隊の人に言われた。「海の上には無数のお亡くなりになられた方々が漂っているんです」ということであった。津波の凄まじさを感じるとともに、絶句してしまったということでした。
支援の形も、はじめは「水が欲しい」から始まり「レトルトのお米が欲しい」、「レトルトのおかずが欲しい」「有機野菜が欲しい」と徐々に支援物資にも変化があり、徐々にではあるが復興に向かっていることを実感しているということであった。
またVTRにて、被災地に取り残された老人施設の高齢者の映像があった。若い職員は被災にあったり、逃げるので精一杯だったりで、施設の人も家族が引き取っていったりしたが19名が取り残されていた。調べてみると、もう食料もほとんど底が尽きていた。自治体の方から渡邉さんへ支援の要請があり、すべての人を無償で渡邉さんの老人施設へ迎え入れることにした。
その時のエピソードで、取り残された高齢者の皆さまは、出発のバスに乗る際は無表情で固い表情をしていたが、バスを降り施設に到着し、バスから降りて地に足を付けた瞬間、皆さん「ありがとう」と”号泣”されたそうです。これまでの不安や恐怖、私たちには分からないいろんなものが込み上げてきたのでしょう。というお話でした。(私も今までの話や映像とともに、思わず涙が出てしまいました…今もブログを打ちながら目頭が熱くなってます)
渡邉さんは、現地によく足を運んで、被災者の人たちと対話したり、また、そこで頑張る役所の人たちと話をする機会が多くあるそうです。多くの被災者の皆さまの心境は「私たちの幸せは、今ある”命”であり、今ここにいることで、今あるものに感謝をしている」ということでした。そして、「悲しみを乗り越えて、今ある感謝や温かい気持ちを、後世に繋げていかなければならない」という気持ちでいるということでした。
陸前高田市は街全体が壊滅状態です。そこへ陸前高田市の戸羽市長から復興参与として力を貸して頂けないかという要請があり快諾したそうです。東京都知事選挙に出馬したのも、この27年間に培ってきた経営のノウハウを何か国民のために活かせないかという思いで出馬したので、このような形で要請を受けたことは願ってもないことであった、と話されていた。
復興参与として役所の皆さまと復興に向けて話し合いをする中で実感したことは、「資金がない」ことだった。がれきを撤去し、土地を整備し、など復興に向けてすぐやらなければならないことがたくさんあるが、なんせ「資金がない」ということに尽きた。まず何をやるにしても、これだけの予算を付けて、資金をそこに投入してはじめて行動に移せるというもの。市長の話によると、今現在であっても、現地の補償や必要予算など、国、政府には、何も伝わっていない状況だということでした(もし聞いていたとしても、意思表示、行動で示せないのだから)。
この大地震は、過去に例がないほど甚大な被害を出している。そんな時は、すぐに様々な対応ができるよう法律を改正し、すぐに予算付けをして、それぞれの自治体とともに復興へ向けて進まなければならない。なのに…政府の現在の状況を見ていると分かりますが、対応が遅く、後手後手にまわり、まだ何も決まっていない状況である。そんな政府、そんな国では、夢や希望が見出せず、元気がなくなる。
※(これは私の意見)現在も復興財源の確保に、様々な増税、復興債の在り方などを論議しているが本当にノロいと思う。まったく前例がないので、被災にあった都市や市民は決まるまで待ってなさいという態度に見えて仕方がありません。確かに約90兆円もの国家予算に税収が約40兆円、その他は国債で賄っていること自体、なにか国家予算そのものに無理があるとは思いますが、だから増税なんてことは、あまりにも短絡というか、国民を欺いている感じがしますね。
また、現在、円高で為替介入が日銀により行われていますが、お金を刷り、アメリカ国債を購入するわけです。その資金は、外国為替資金特別会計から拠出されます。そこにプールされているお金が外貨準備高です。日本の外貨準備高は1.1兆ドルあり、その多くはアメリカ国債となっています。為替介入とは、このお金でアメリカ国債を買うということです。
2007年から2011年までの4年間に、外貨準備での為替評価損失は45兆円もあるそうです。短絡的ではありますが、この損失がなければ復興にはいくらか当てることができたのではないでしょうか。また、特別会計からの見えないお金は埋蔵金としてプールされるのですが、そのお金を各省庁が少しづつでもいいから出せば、まず、初動のための資金となったのではないでしょうか。
すんませ~ん熱くなりまして。長くなってますので、パート3へ移ります。
お付き合い頂ける方は、パート3も読んでくださいね。
二葉鍼灸療院 田中良和
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