またまた、久しぶりのブログ更新です。
バタバタしておりまして、星稜高校野球部 秋の北信越大会、それを遡ること第96回全国高校野球選手権大会のトレーナー活動報告がなかなかできないでいます。今月、少し落ち着ける時に書きたいと思います。
さて、昨日、金沢では霰が断続的に降り夜にかけて冷え込んできました
こんな時は患者さまも若干、足が遠のきます。
しか~し、こんな時がチャンス到来。山積みにしてある本の中から、さっと取って少しの読書の時間を楽しみました
その本に、こんなことが書かれていました。
むかし、若い雲水があるご老師に、「地獄、極楽というものは本当にあるのでしょうか」と尋ねたというのです。
その雲水は問います。「地獄というのは閻魔大王や怖い鬼がいて、人が現世で侵した悪業の報いを受ける怖いとこだと言います。一方、極楽は大変素晴らしく美しい所だと子供のころから聞かされてきました。果たして、そんなものが本当にあるのでしょうか。?」
ご老師はすかさず、「うむ、確かにある」 と答えます。
雲水が、「どんなところなのですか、地獄と極楽というのは」 と聞きます。
するとご老師は静かに語り始めたそうです。
実は、地獄も極楽もちっとも変わらない。少し見ただけでは同じような場所なのだ。けれども、そこに住む人たちの心がまったく違う。
たとえば、おいしい釜揚げうどんが地獄にも、極楽にもある。それぞれ大きな釜があって、お湯がぐつぐつ煮たっている。うどんを湯がいているその大きな鍋の周りを、腹をすかした者たちが10人も20人も取り巻いている。手には、つけ汁のお椀と1メートルもある長い箸を持っている。
ここから先が天国と地獄ではまったく違うのだ
地獄では、みんなが我先に争って箸を突っ込む。何とかうどんをつかむことはできるのだけれども、箸が1メートルもあるものだから手元のつけ汁のお椀にまで持ってくることができないし、当然、食べることもできない。
そうこうするうちに、向こう側にいるものが、箸の先に引っかかっているうどんを横取りしようとするので、「それは俺のもんだぞ食うな」と怒り、相手を箸で叩き、突く。
すると、「何をこの野郎」と相手も突き返してくる。
そんなことがそこらじゅうで始まって、うどんは鍋から飛び散ってしまって、誰も一本も食べられずに、殴り合いのケンカが始まってしまい、阿鼻叫喚の絵図と化してしまう。
それが地獄なのである。
では、極楽というのはどうなっているのか。
極楽にいる者は皆、利他の心、他人を思いやる美しい心を持っている。1メートルの箸でうどんをつかんだら、釜の向こう側の人のつけ汁のお椀につけて、「さあ、あなたから先にどうぞ」といって食べさせてあげる。
すると、今度は向こう側の人が同じように自分に食べさせてくれる。1本たりともうどんを無駄にすることなく、みんながお腹いっぱいに食べることができる。
つまり、地獄と極楽は確かにあるが、それは人の心の有り様がそれらを作りだすのだよ。
ご老子は若い雲水に話して聞かせたということです。
『人生の王道~西郷南州の教えに学ぶ~』 稲盛和夫 著より
今、自分が生きている人生の中で、どうしたら極楽になれるのか、どのような心で臨めば極楽となるのか、そんなことがこのお話の中に表現されているのかなと思います。その逆も
地獄絵図のくだりは何だか現代社会の一面を見透かされているような感じもします
人生は1回きりですが、生まれてから死を迎えるまでに、心の中に、また実生活の中で極楽を感じるには、欲望は必要だと思いますが、過度の欲望や自分さえ良ければいいという心はできるだけ少なくし、周囲の人を思いやり、利他の心を生活の中で実践していくことが大切なんでしょうね
この人生での行いが、魂がもといた場所に帰る旅(死)を迎えた時に、再び、その道中が「地獄」となるか「極楽・天国」となるか、再び魂が生まれ変わるまでの試練のレベルを決定するのかもしれませんね。
私の師匠は昭和5年生まれです。子供のころの話をしていただいたことがあったのですが、昔は、地獄の絵を見せて、「悪い事ばかり行って、反省しないと、みなこんな場所に行くんだぞ」と、大人から教えられたそうです 今はそんなことする親もいないでしょうし、地獄・極楽なんで話題にもならないかも・・・
私は、西郷隆盛さんや松下幸之助さん、稲盛和夫さん、中村天風さんなど実践哲学をもって世の中に貢献されてきた人物の本をよく読ませていただきますし、すごく好きです。感動します。
また、この本の中にも書かれていますが、書を読んでも実践しなければ、それは何の役にも立たないと書かれています。
あの世へ行ってからではなく、この世で”人生の極楽”を実践していきたいと思いま~す
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